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乙9期 井上春男さん2017年02月18日 09時53分16秒

岡山県出身。
偵察、中攻。


いきなり余談ですが、9期は「井上さん」が3人います。
井上常夫さん(山梨、偵、飛行艇)
井上春男さん(岡山、偵、中攻)
井上三千人さん(福岡、偵、中攻)

他に多いのは鈴木4名(光雄さん、俊夫さん、文亮さん、松己さん)、森田3名(勝さん、豊男さん、守さん)。
2名同姓ってのは、けっこういます。
北村(貢さん、彰男さん)、植田(武雄さん、竹治郎さん)、岡本(清見さん、久さん)、石井(三郎さん、雄さん)、島田(清守さん、直さん)、新井(誠二さん、正美さん)、阿部(芳包さん、健市さん)、佐々木(隆寿さん、武治さん)、遠藤(桝秋さん、秋章さん)、山下(員雄さん、栄松さん)、清水(日出夫さん、巧さん)、加藤(勝正さん、哲夫さん)、上原(定夫さん、信之さん)、松本(佐市さん、勝正さん)、永田(慶士さん、正さん)、上田(誠さん、伴則さん)、古田(正直さん、保雄さん)、山田(重雄さん、一作さん)

漢字は違うけど・・・・というなら、ナカノ(仲野修さん、中野釥さん)、タケダ(武田清さん、竹田俊司さん)、サイトウ(斎藤理吉さん、辞めた齋藤さん)、カワムラ(川村幸雄さん、河村徳市さん)なども。

全国から集まっている割には同姓が多い印象です。



横須賀海軍航空隊入隊。
霞ヶ浦海軍航空隊。
土浦海軍航空隊で予科練を卒業。

飛練は鈴鹿航空隊。
宇佐航空隊。

その後、実施部隊は高雄空に配属。





倉町秋次先生の『予科練外史』に井上さんの話が出てきます。

『この日戦死した三空の森田勝三飛曹の最期について同期の井上春男から私は便りを受けとった。九期の彼等が実用機教程を卒業したのは十六年十月末であった。井上たちは更に木更津で大型機講習を受けて戦地へ発ったのであるが、西下の彼らを夜汽車で送ったのは十二月三十日のことである。それからまだ一ヶ月しか経っていないのに、もう戦闘機の森田は立派につとめを果たして散ってしまった。日付はないが、内容からみて、井上の手紙は森田の戦死後数日のうちに書かれたものと思われる。
――拝啓 汽車でお別れ致して早や一月と十数日、全く日の過ぎ去るのは早いものです。其の後は意外の御無沙汰していましたが、お変わり有りませんか。降って私も〇月〇日〇〇要塞攻撃(倉町先生註、一月十四日コレヒドール要塞攻撃)を初陣として各地に転戦敵空軍撃碎に大いに張り切ってやっています。
マフラーの「雄飛」の二字、何時の攻撃にも敵上空に行く時は必ず之を読み、身につけ、南十字星輝く南国の大空を思うがままに翔けています。
原隊を出動して以来、戦線が前進するにつれ、我が部隊もあそこに三日、此処に二日と、猛烈な速さで前進し、昨日までの敵の基地も今日は我が基地、飛行場付近には遺棄された戦車、野砲、物々しきトーチカ、バリケード等余燼の立ち上る中にとり残されております。
〇月〇日(倉町先生註、二月三日)総攻撃に戦闘機と共に大爆撃が敢行され、残存敵空軍に大損害を与え、赫々たる戦果をあげましたが、無念! 我が同期生森田勝三飛曹は戦闘機で地上掃射に空戦にと阿修羅の如き奮戦していましたが、敵機銃弾がタンクを射抜きもはや基地に帰還できずと見たか湾内にありし敵巡洋艦に自爆。之が為敵艦は大火災を起したとか。九期生の否予科練魂を如何なく発揮して呉れました。
彼は前の攻撃には片翼を機銃弾でもぎとられ樫村機と同じ様に機を操縦して基地に帰り特別善行章を付与せらる筈であったとか。当日出撃の際は行方不明関の仇討と張切って出て行きましたが遂に二十一才を最後として護国の鬼と化しました。
当基地には同期生二十数名居り、力強く互に亡き森田の仇をと元気で攻撃に出ています。その意気、元気は恰も庁舎の前にある雄飛の松そのものであります。
先ずは乱筆ながら近況御一報迄。末筆ながら教官の御健康をお祈り致します。
諸教官に宜敷く    草々
                 左様奈良
                 井上春男
倉町秋次様  』



前半は『予科練外史』に活字化されているものをそのまま引用、後半(「無念!」以降)は掲載されている手紙現物の画像をわたしが活字化しました。




手紙で戦死が伝えられた森田勝さん
17年2月3日  3空  ジャワ島スラバヤ

この直前の1月21日、ケンダリー攻撃の際、手紙に書かれているような片翼状態で帰還。
先日小林銀太郎さんのことを紹介したとき『日本陸海軍航空英雄列伝』という本のことにちょっと触れているのですが、そこに取り上げられているただ一人の9期生が森田勝さんです。帰還した片翼機(X-107号機)と森田さんの写真が掲載されています。
※『日本陸海軍航空英雄列伝』には森田さんの生年が「大正12年」と書かれていますが、大正10年7月生まれです。なので戦死時は満で20歳と6か月、数えで22ですか。

森田さんがもらうはずだった特別善行章というのは、普通善行章(軍服の右袖につける山形のマーク)のてっぺんに桜のマークがついたものです。

井上さんは先生への手紙に、森田さんの最期に関して詳細に書いていますが、行動調書では「行方不明」です。


「行方不明関の仇討・・・・」の関は同期の戦闘機乗り、関明水さん
17年1月25日  台南空  蘭印方面(バリクパパン)
バリクパパン上空哨戒中に来襲した敵機と交戦し行方不明。


雄飛の松に関してはリンク先に移植直後、戦後、二代目の画像を出しています。
9期生たちが卒業記念に土浦の予科練庁舎前に植えていった松です。

この画像、出したことありましたか?
生存者の方がアルバムに貼られていた写真です。

旧い友達 予科練の人々 200人の中から僅か24名が生存した
(我ら9期生が卒業記念に植えた松ノ木を背に大友分隊長をかこんでお互い20年振の再会である)









もうひとつ。
いままで何度か書ている「九期留魂録」の話。
南方から凱旋して来た中攻偵察の古田保雄さん、石井三郎さん、南弘明さんが、17年4月に土浦の倉町先生を訪ねて来たときの話です。
倉町先生が井上さんから上の手紙をもらってひと月ちょっとでしょうか。


『「井上は何処かに転勤したのかい。」
と訊いた。
井上は彼らと一緒に戦地に発った一人だ。一か月余り前に井上から手紙を貰ったので、早速その返事を書き、ついでに彼らが植えて去った記念樹の松の緑があまりに鮮やかなので、「松もこんなに元気で、諸君の武運を寿いでいるよ。」とキャビネ判に伸ばして送ったのだった。それが、「受け取人なし」と付箋がついて返送されて来た。
「井上は戦死しました!」
という一人の言葉に、一瞬自分の迂闊さをなじられたような心持ちと同時に、愕然とした。〈そんなことがあるものか。俺はほんのこの間、井上から手紙を貰ったばかりだ――〉
実は、私には或る程度その自信があった。支那事変以来、「☓☓は△△で戦死した。」と、まことしやかに噂されていた者が、ひょっこり還って来た例は、一度や二度ではない。井上もその部類だろうと思ったからである。
手紙が返送されて来たのにも自分を納得させるわけがある。あの写真は大きくてポストに入らなかったで、郵便局の窓口に持って行った。眼鏡をかけた局員が、「南の方は、所によっては普通のハガキと手紙は届くが、写真や小包は行きませんよ。」と言った。既に切手も貼ってしまっていたので、〈返ったら返ったでいい、とにかく行く所までやって貰いたい・・・・〉そういう気持ちで、重いドアを排して出て来たのだった。それが矢張り返って来たのだ。局員が言ったように、写真は駄目でも、手紙なら大丈夫行くに違いない・・・・と、写真の周囲を封筒の大きさに切り、返送された経緯を書き添えて、この三人を迎えに行く途中、投函したばかりであった。
「左様奈良」
挨拶するように「ポトン」とたてたその音は、鮮やかに耳に残っている。
「なぁおい、井上が戦死したのは何日だっけな・・・・。」
一人が他の二人を顧みた。
〈信じられらない。そんな事があるものか。〉私には割り切れない思いが尾を引いて残る。
三人は、井上が戦死した折の有様を次々に語り補って行く。』










おもいで
「おとなしいあまり目立たない奴だったが何故か故郷の山川を思い出させる。もう一度会いたいと思っても今は亡し」

「全くおとなしい目立たない存在だったが春日駘蕩何時までも傍にいたい様な持味だった。雨宮教員にはかわいがられていたね」




17年2月18日  高雄空  蘭印方面(スラバヤ攻撃)


行動調書には、「胴体中央ニ高角砲弾直撃シ自爆」と書かれています。
「敵戦闘機と交戦中被弾自爆」と書かれたものもあります。


※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供

宇佐航空隊の世界2017年02月18日 20時16分34秒

今日は宇佐の人と零戦Tシャツ屋さんと会っていました。


会談内容はヒミツです。







以前から「読みたい」と思っていた『宇佐航空隊の世界』シリーズ、入手いたしました。

受けとったときに、目次をまず確認。

Ⅰの目次、7期の松浪清さんや8期の賀来準吾さんの手記に並んで、ある手記に目が留まりました。「柳ヶ浦駅に電灯がついた・・・・賀川光夫」。


「んー? なんか知っているぞ、この人。誰だっけ? 予科練の人か? いや、違うな・・・・どこで見たんだっけか?」


帰りの電車の中で、どうしても気になったので、本文を読んでみようとリュックから取り出しました。
そのとき、
「あっ! あの賀川光夫さんだ!!」
やっとわかりました。


考古学者です。

別府大学の名誉教授をされていたのか・・・・。
わたしたちが習った高校日本史に出ていた「聖嶽洞窟」、この発掘に関わった人だったんですね。それはあの事件まで知りませんでした。

「あの事件」というのは――
2001年、賀川さんはある報道に対して抗議の自殺をされたんです。
検索したら出てくると思います。


当時わたしは考古学から遠ざかっていたので、事件のことは当時ニュースで知りましたが、それ以上のことは知りませんでした。
最近になって、その後のことが書かれた記事に触れる機会があって、いろいろと思うところがあったばかりでした。

賀川さん、学徒出陣で海軍に入り、艦攻の偵察員になられたそうです。
宇佐の931空に配属され、終戦直前には、原爆が落とされた直後の広島の偵察飛行任務につき、その惨状をカメラに収めたのだとか。
終戦は宇佐で迎えられたそうです。


そういうことを回想されていました。


あの世代の先生には従軍経験のある人がいるみたいですね。
古代史のすごい先生も、ウィキペディアによると海軍航空隊にいたとか?




『宇佐航空隊の世界』、賀川さんの手記以外にも興味深い手記や読み物がたくさんです。パラパラ見たところ、マンガや料亭なるみの色紙画像もありました。
ゆっくり読ませていただきます。ありがとうございます。


あ、残部、あるそうです。