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藤原国雄さんと一緒に写っている人2017年01月06日 10時35分57秒

1年半以上前になるのですが、2015年のゴールデンウィークに連絡をいただいた9期の藤原国雄さん(中攻偵察、19年10月13日、 攻撃708、台湾沖航空戦)。


当時の投稿にこの写真のことをちょっと書いています。


最初は、ご遺族の方が送ってくださった写メで見ていました。

真ん中の人――。
あの頃はまだ9期全員のお顔を把握できておらず・・・・。偵察員の方はなおさら・・・・。
で、「階級章は2空、(9期の)偵察の人かな? (この人のことは)保留」という意味のことを書いています。


2か月後の7月に長野のご実家に写真を見せてもらいに行ったとき、この写真に裏書があるのに気付きました。
ここら辺から書いていないですよね、たぶん。

裏書には、左から「藤原」、「木下」、「大野」と書かれていました。

真ん中の人、現物でよく見たら、階級章は1空(1等航空兵)でした。
ペンネントは「霞ヶ浦海軍航空隊」。

この時点で9期生ではないとわかったので、上の条件で他クラスの予科練生に「木下」という人がいないか、探してみました。

すぐに長野県出身、甲3期の木下広吉さんが引っかかりました。
16年12月8日、赤城。
真珠湾攻撃2次攻撃隊で戦死されています。艦爆偵察員です。ペアの操縦員は操練出身の本間金助3飛曹。

ここまでわかってやめていました。


先日、
「そういえば、甲3期はSさんが卒業アルバムを持っていたなあ。あのアルバムは氏名入りの個人写真付きだ」
と思い出し、木下さんの写真を見せてもらえないか、お願いしてみました。

Sさんは元航空自衛隊の方で、お父さん(故人)が元海軍大尉。飛行科ではないですが、予科練の教員や母艦乗組みを経験された方です。
そういう事情でお父さんの遺品の中に、担当した甲飛3期の卒業アルバムが・・・・。





やはり木下広吉さんでした。



昨日になってふと思い出しました。

「Sさんのお父さんって、開戦時赤城に乗っていたんじゃないか?」

Sさんからいただいているお父さんの軍歴を確認したら、真珠湾攻撃時は赤城。

ということは、教え子の木下さんの出撃を見送っているということです。



亡くなった本人が一番無念だったであろうことはいうまでもないことですが、赤城艦上で帰らぬ教え子を待つ教員の気持ちはいかばかりだったか・・・・。



1枚の写真から、ここに写っていない人のことまでいろいろと考えてしまいました。



木下さんと藤原さんのことはまたちゃんと書きます。
今日はとりあえず、ここまで。


※画像は9期生ご遺族、Sさんご提供。吉良敢・吉野泰貴『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』参照

今日の夕焼け2017年01月06日 22時58分48秒

春海に呼ばれて外に出たら、こんな空になっていました。



春海「ピラニアやで~( ̄▽ ̄)」