乙9期 河合敏さん ― 2014年12月23日 09時25分44秒
河合さんは藤代さんと1学年時に同班(15班 手記に氏名入り班写真が掲載)。
おかげでわりと早くからお顔が認識できていました。
さらに、同じ班に石川茂さんもいたために、写真も結構あります。
さらに。
雄翔館に遺影がありました。
おかげでわりと早くからお顔が認識できていました。
さらに、同じ班に石川茂さんもいたために、写真も結構あります。
さらに。
雄翔館に遺影がありました。
実施部隊に出てからの河合さんでしょう。
長野県出身。中攻操縦。
戦死時751空。
【東京行軍】
長野県出身。中攻操縦。
戦死時751空。
【東京行軍】
【葉山自転車行軍】
【14年紀元節15班】
【操偵適性検査】
【操縦専修生集合写真】
2空
【ラグビー優勝集合写真】
【ラグビー優勝集合写真】
【整備実習集合写真】
【操縦専修生集合写真】
1空
激ヤセして別人みたいになっていますよね。
この頃すでに体調が悪かったのか。
卒業時の寄せ書き
激ヤセして別人みたいになっていますよね。
この頃すでに体調が悪かったのか。
卒業時の寄せ書き
現段階では河合さんは予科練は9期生と一緒に卒業したものと認識していますが、いつの間にか飛練は16期(乙10期中心)にまわっていました。
【飛練・谷田部】
10期生会誌に書かれているとおりこれが練習機・谷田部の卒業写真だとしたら、16年11月時点で河合さんは1等飛行兵。
※9期生は16年10月1日に3等飛行兵曹(下士官)に進級
その後、宇佐の飛練16期中攻操縦専修生の名簿に河合さんのお名前があり、備考欄に病気のことが書かれています。手術が必要だとか。
「おもいで」
入隊時同班。いつもニコニコしていたね。赤松教員との頃(一年)が懐かしく思い出されるよ
数年も年上の兄貴という感じだったが、トンツーはお互いに特班の常連だったな
『予科練外史』(倉町秋次)にも乙16期生が書いた河合さんのことがでています。
『一時温習止め五分前になる頃、室の扉が開いた。何気なく音のする方を見ると、教官が先輩を連れて来られたのだ。一日も忘れたことのない「河合さん」であった。
「あッ」と思わず叫んだ。幼い頃、毎日棒切れを持って遊び、毎朝、連れられて小学校に通った河合さんだ。音信は昨年の十二月から絶えて、消息がわからなかった。その人が忽然とここに現れたのだ。休み時間に十九期の松本を呼んで三人で語り合った。河合さんは家の西隣
松本は東隣である。会えたのは一刻であったが、三人顔を合わせ得た事が嬉しい。話したいことは山ほどあっても出て来ない。河合さんの元気な声と、顔を見るだけで嬉しかった。最後に、
「元気でやれ。また、どこかで会おう。」
と言われた。早く立派な搭乗員になりたいなァ、と痛感した。松本も同じ思いだったろう』
18年9月20日 751空 ソロモン
行動調書は「18年9月19日」に記載されています。
出撃は19日ですが、日をまたいでの攻撃になり、河合さんが戦死されたのは20日です。
※画像は雄翔館、9期生ご遺族、10期久保伊勢市さんご提供
※9期生は16年10月1日に3等飛行兵曹(下士官)に進級
その後、宇佐の飛練16期中攻操縦専修生の名簿に河合さんのお名前があり、備考欄に病気のことが書かれています。手術が必要だとか。
「おもいで」
入隊時同班。いつもニコニコしていたね。赤松教員との頃(一年)が懐かしく思い出されるよ
数年も年上の兄貴という感じだったが、トンツーはお互いに特班の常連だったな
『予科練外史』(倉町秋次)にも乙16期生が書いた河合さんのことがでています。
『一時温習止め五分前になる頃、室の扉が開いた。何気なく音のする方を見ると、教官が先輩を連れて来られたのだ。一日も忘れたことのない「河合さん」であった。
「あッ」と思わず叫んだ。幼い頃、毎日棒切れを持って遊び、毎朝、連れられて小学校に通った河合さんだ。音信は昨年の十二月から絶えて、消息がわからなかった。その人が忽然とここに現れたのだ。休み時間に十九期の松本を呼んで三人で語り合った。河合さんは家の西隣
松本は東隣である。会えたのは一刻であったが、三人顔を合わせ得た事が嬉しい。話したいことは山ほどあっても出て来ない。河合さんの元気な声と、顔を見るだけで嬉しかった。最後に、
「元気でやれ。また、どこかで会おう。」
と言われた。早く立派な搭乗員になりたいなァ、と痛感した。松本も同じ思いだったろう』
18年9月20日 751空 ソロモン
行動調書は「18年9月19日」に記載されています。
出撃は19日ですが、日をまたいでの攻撃になり、河合さんが戦死されたのは20日です。
※画像は雄翔館、9期生ご遺族、10期久保伊勢市さんご提供
飛練10期 大村航空隊 中攻操縦専修生 半分 ― 2014年12月23日 14時22分13秒
池田さんのアルバムにあった集合写真です。
説明はありませんでしたが、写っている顔ぶれから、飛練10期大村航空隊の中攻操縦専修生の半分――と判断しました。16年夏でしょう。
写っているメンバーの詳細はまた今度。
今日は、この「場所」です。
愛媛に行く前からこの場所を探していました。
そして、愛媛に行く当日の午前中にやっと見つけました。
長崎の諏訪神社です。
簡単に書いていますがめっちゃ時間がかかりました。
まず引っ掛かったのが幕や提灯にある十六八重菊紋。
ここから神社・神宮探し。
メンバーは大村空飛練10期に間違いないのだから、長崎→九州→西日本とネットで神社や画像検索、調べて行きました。
さらに神社本庁や地方の神社庁などに問い合わせ。
結局、菊紋からはたどり着けませんでした。
「なら檜皮葺はどうだ!?」
「破風の屋根はどうだ!?」
「両サイドの透かし塀はどうだ!?」
「脚がついたような扁額はどうだ!?」
思いつく限りの検索・問い合わせをしましたがまったく画像もヒットせず手がかりもなし。
愛媛行きの朝。
なぜか突然、
「松本勝正さんの手紙に何か書いてなかったかなあ?」
と思い浮かび見直してみたところ、大村時代に「長崎行軍」に行ったという記述発見。
「やっぱり長崎に絞ろう」
思い直しました。
長崎だったら原爆で被爆して現存しない可能性もあると思い、「長崎 古写真」で検索たところ、やっと見つけました。
見つけた画像は「長崎 諏訪神社 中門」で出ると思います。
ネットで見つけた2013年の朝日新聞・長崎今昔という記事によると――
この中門、1869年に再建され、1983年の御鎮座360年の大改修でなくなったそうです。
木造檜皮葺、流れ破風造りの屋根。
「正一位諏訪三所」の額が掲げられていたそうです。「三」だけは読めていたんだけどなー(^^;)
原爆ではなく、30年ほど前に改修でなくなったとか。
画像検索してもヒットしなかったのは現存しなかったからか・・・・。
残念・・・・。
大村空の「長崎行軍」ですが。
18年に大村で教員をされていた久保さんに長崎行軍をやったか聞いてみましたが、戦争で行軍どころではなかった、一度もない、とのことでした。
※画像は池田さんご遺族ご提供