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35空の9期生 12014年09月19日 13時46分33秒

土浦の雄翔館にこんな写真がありました。

左から和田邦介さん、池田和義さん、村田耕一さん。
お名前入りで。
写真はこの状態でした。

善行章1線、3等飛行兵曹の階級章。
左袖に特技章。

飛練卒業後の16年10月30日以降17年2月19日までの撮影だな、ということしかわかりませんでした。
※17年2月19日に和田さんと村田さんが移動中の事故で亡くなっている(正確には16日朝、戦地に向けて佐伯発進)

この3人には共通点があって。
3人とも中攻操縦から艦爆に転科(おそらく17年1月いっぱい?)。
その後、2月に実施部隊の35空(艦爆隊)。

転科教育中にたまたま3人で撮ったのか(中攻から艦爆に転科したのは10名)。
それとも、実施部隊に着任してからの撮影か。
そこまではわかりませんでした。



数か月前に、池田和義さんの姪御さんから、
「本家にほかに写真がありました」
と連絡を受けたとき、同時に、
「雄翔館の遺影は本当は3人ではなく、4人写っています」
との連絡も受けました。

池田さんの写真の中に同じ写真があったそうで。

思わず、
「もう一人は田中さんではないですか?」
と聞いてしまいました。

「そうです!」
とのお返事。

やっぱり。

その写真です。
これがもともとのサイズの写真でしょう。

左端は田中茂雄さんです。
同じ35空。戦後生存。

雄翔館の写真。
転科教育中か実施部隊か判断がつかなかったのは、実施部隊なら4人いるはずなのに、どうしてこの3人だけで・・・・と、そこに引っ掛かっていました。

姪御さんから「4人写っている」と聞いて、飛び上がりたいほど喜びました。
写っているべき人が写っていた、と思って。

たとえ4人で写っていたとしても、転科教育中の可能性もありますよ、もちろん。
一緒に転科教育を受けているのだから。

しかし、10名いる転科メンバーの中でこの4人?
やはり実施部隊の可能性の方が高いかなあという気がしています。



雄翔館の写真は遺影なので、生存者である田中さんの部分を除いた状態で保管されていたのでしょう。



4人が一緒に写っている写真を見て、涙が出るほどうれしかったです。

35空に着任して、いろんな思いを胸に4人で記念に撮った写真なのでしょう。
搭乗員としての門出を自ら祝うつもりだったかもしれないし、もしかしたらこれを遺影に・・・・の覚悟だったかもしれないし。

17年2月19日、戦地進出途中、和田さんと村田さんは悪天候のために台湾新竹付近で山に激突して殉職してしまいます。

これが最後の一枚になったかもしれない・・・・。


※画像は雄翔館、池田さんご遺族ご提供

こころちゃん、ハゲる(|||▽||| )2014年09月19日 17時55分46秒


うちにやってきた日のこころちゃんです♪
7月2日


約2か月後・・・・
9月5日


最近急に・・・・
9月16日


薄くなってきたと思っていたら・・・・
9月17日


今日のこころちゃん!( ゚Д゚)

「完全にハゲちゃった~(*´▽`*)」



自称自己ベスト2014年09月19日 20時45分56秒

たぶん試合でこのタイムを出すことはないと思うので、ここに書いておきます(笑)

50バック 35秒4で泳いだそうです。

「プールが24メートルしかなかったんやろ」

「それはない」

「コーチのストップウォッチが・・・・」

「それもない」