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山崎市郎平兵曹2013年07月04日 12時18分56秒

以前書いた山崎さん記事に追加。



山崎さんの戦死後に書かれたと思われる書類を関係者の方に見せていたくことができました。
内容は、山崎さんの個人的な情報です。
家族構成とか、実家の住所とか、入隊前の職業とか、出身小学校とか。

その中に「性行」という欄がありました。
「慈顔ニシテ柔和、温順ナレドモ頭脳明哲。豪膽ニシテ且果断力ニ富ミ人皆敬愛ス」


それと並んで「美談逸事」という欄もありました。
「一、親弟妹ニ對シ何時如何ナル場合ニモ和顔愛語ヲモツテ仕ヘルコト他ニ比類ナシ」
「一、故郷公益、共同事業等ニハ必ズ多額ノ寄附金ヲ出セリ」
「一、常ニ目立タヌコトヲ黙々トナセリ」





操練同期生の吉田一平さんも手記の中で山崎さんのことをやさしい人だと書いています。
「山崎期長は大変温厚な、そして人情味のあるやさしい方であった。少々早とちりでそそっかしいところはあるがそれは愛嬌」←文末に「(笑)」ってつけたい(笑)

練習生を修了して、別々の基地勤務になり、吉田さんが山崎さんのいる横空に訓練飛行で行ったときには、
「全機無事横空に着陸する。列線に近づくと同期の桜、期長だった山崎兵曹が飛んできてくれた。「吉田、元気か」 あの温厚でやさしすぎる山崎さんがわれわれ同期の者たちが訪問することを知り一番先に来てくれたことが一番印象に残りうれしかった」



同年兵で4空・台南空とご一緒だった石川清治さんの手記にも、モレスビー攻撃で被弾して帰ってきたときの話が出ています。
「私はようやく、遠く陸地を離れ、洋上を迂回して山を越え、ラエに帰った。しかし飛行場についても、着陸が心配だった。着陸コースに乗っても、こまかい修正が出来ず、保針が困難である。一回やり直し、二回目にどうにか着陸できた。
すぐに同年兵の山崎二飛曹が駈けてきてくれた。
「身体は大丈夫か」と聞く。
「身体には弾丸はうけていないが、何しろひどい目にあったよ」というと、彼はニッコリ笑って、
「よし、飛行機は俺が交替して列線に持っていくから、貴様すぐ指揮所へいけ」
といわれた時は、同年兵の戦友愛をしみじみと感じて嬉しかった」
(丸 1958年2月)




山崎さんと同じ航空隊になったことがある搭乗員さん。
「おとなしい人だったよ」


同年兵で、台南空で一緒だった一木利之さん。
「おもしろい男だった。みんな『イチロベー、イチロベー』言うてねえ」





朝起きて仰ぐ青空ラバウルのガダルカナルの攻撃日和

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