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【西澤廣義の肉声】5 大野竹好中尉の日記2010年02月05日 08時24分49秒


大野竹好中尉
大野竹好中尉

大正10年1月18日生まれ。石川県出身。海兵68期。
台南空、251空。18年6月30日戦死。

この大野中尉が、18年5月、251空がラバウルに再進出するにあたって、日記をつけはじめました。

日常のさりげない搭乗員たちの会話から、壮絶な空戦の様子まで・・・・。

その日記に、同隊の西澤さんも出てきます。

これは251空の初空戦があった5月14日、帰投後のまだ興奮冷めやらぬ搭乗員室の様子です。

『参加しなかつた不幸なる彼等の戦友を前に戦闘の模様を話してゐる。古い搭乗員がそれをにこにこして聞き乍ら時々補足したり訂正したり或は機宜の注意を與へたりしてゐる。
「P三八ッてなァ嫌な野郎だぜ。丸でお正月に上げる奴凧見てェな恰好をしてゐやがッてな。それでゐて速力と来たら滅法速いんだ。俺ァ二機追ッ駈けたけどみんな逃げられちやつたさ」
と残念がるのは當隊切つての美少年小西二飛曹である。芳紀正に十九歳どう見ても美青年とは言ひ難い初々しさである。歴戦の古強者 西澤上飛曹が之をたしなめる。
「速いから逃げられたッてなァ 言ひ訳にはならないぜ。地上に固定してゐる高角砲だつて時速四○○節の飛行機を撃墜出来るんだ。要するに遣り方さ。戦争の仕ッ振りさ。」
「さう言はれちゃ全く 西澤班長には敵ひませんよ。何しろ俺達がふうふう言つて追ッ駈け廻して結局全弾射ち盡しても一機も墜せないのに、班長と来た日にや 各銃二十発づつ位ゐで三機も喰つてしれッとしてるんだからな。一体班長は今迄何機位ゐ撃墜されたんです?」
「ガダルカナルで自爆された笹井中尉なんか八十機以上も撃墜して居られるからな。それに較べれや俺なんか、お話にならん。然し あんまり墜さう墜さうと焦るのは一番不可ないよ。墜そうと思つた時が 墜される隙の出来た時だ。」
と西澤兵曹は少なくとも五十機以上の撃墜レコードの保持者だが 何時も絶対に自分の手柄は言はない。唯若年搭乗員の教育には時として気狂ひ染みて見えるほど熱心だ。そして若い搭乗員も西澤兵曹彼の話から少しでも自分達の足らざる経験を補ふべき知識を得ようとする点ではその熱心さは決して彼に劣つてはゐなかつた』

(登場人物解説:「小西二飛曹」・・・・甲飛7期出身の小西信雄2飛曹。「笹井中尉」・・・・言わずと知れた台南空の笹井醇一中尉)

この部分で注目すべき点があります。
①西澤さんの口調が「~ぜ」「~さ」。
②「西澤兵曹は~何時も絶対に自分の手柄は言はない」(by大野中尉)

①に関しては、「大野中尉が聞いたまま書いたとは限らない」という意見もおありかと思いますが、前後の文脈から大野中尉がこれを書いたのは空戦のあった当日中。帰投後、数時間のうちに書いていると思われます。
西澤さんの肉声を拾ったものとしては、ママが知っている限り、大野中尉のこの記述が一番生々しいというか、新鮮というか。


この後の記述で、搭乗員間に江戸っ子みたいな口調が流行っていた様子が書いてあるので、たぶん、西澤さんも敏感に流行に乗って、実際に「~ぜ」とか「~さ」とか言っていたのではないかと思われます。
(搭乗員間にこんな口調が流行っていた理由に関しては、別に書く機会があれば書きます)
西澤さん
②は、「さすが、西澤さん!!」ですね。

予科練の先生に、
「ずいぶん墜としたそうじゃないか」
と振られたときも、
「ええ」
と言ったっきり黙ってしまった西澤さん。そのあと、自分の話はせず、同期生の消息に話題を転じてしまいました。

報道班員の吉田一さんも、
『私が彼の空戦ぶりを割り合いにくわしく知っていたのは、みな彼の僚友や後輩から聞いた話で、彼はただの一度だって自分の口から私に、空戦の話も、撃墜の状況も話して聞かせたためしはない』
と言っています。

たぶん、ふだんの西澤さんはこういう人だったのでしょう。

予科練の先生だって海軍の関係者、吉田さんだって海軍の報道班員。
空戦の様子や自分の撃墜談は大いに聞かせてあげた方が親切なようにも感じますが、西澤さんはそれをしませんでした。

そんなところに西澤さんの戦争に対する何らかの思いを感じるのはママだけでしょうか。



角田さんの部屋で岩本飛曹長と張り合ってしまったのは事故みたいなもんで。
同じ特准のベテランに撃墜を自慢されて、負けず嫌いの血が瞬間沸騰したというか・・・・。


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