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金井昇一飛曹2007年12月22日 09時11分12秒

大正8年5月10日、長野県生まれ。
昭和9年6月、横須賀海兵団入団、通信兵を経て昭和11年10月、35期偵察術練習生。12年7月、首席で卒業。
館山、大村航空隊、「蒼龍」、横須賀航空隊、特修科練習生爆撃課程、「赤城」、「蒼龍」・・・・
というところがかれの経歴です。

「水平爆撃の名手」「機動部隊の至宝的搭乗員」「艦隊随一」「蒼龍飛行機隊の象徴」「日本海空軍第一人者」「名人」「海軍の至宝」・・・・かれのことを褒め称えることばを拾っていったらきりがないぐらいいくらでも出てきます。
かれは編隊の水平爆撃の照準を一手に任されている「嚮導機」の爆撃照準手です(九七艦攻)。高度3000㍍ほどのところから、地上の施設や海上の艦船めがけて爆弾を落とすのです。(B29のように雨霰のごとく無差別に落とすのとは違い、1個~数個の爆弾を目標を決めて落とすのですから至難の業です)
「蒼龍」では操縦・佐藤治尾飛曹長とコンビを組み、上に挙げたような賛辞を一身に集めたのです。その爆撃命中率の高さから、山本五十六連合艦隊司令長官や南雲忠一中将から賞状や短剣を授与されたという話もあります。

かれの一世一代の舞台は真珠湾攻撃でした。
真珠湾に向かう蒼龍の格納庫では、四六時中飛行服を身にまとい、愛機の偵察席で爆撃照準の訓練に取り組む彼の姿が目撃されています。(「赤城」水平爆撃隊の嚮導機・渡辺-阿曾コンビのエピソードとして、源田実参謀が「操縦索の張り工合など自分で自分の気に入るように調整し、一度その調整が終わったならば他人がこれに触れることを厳に警戒した。燃料の消費に伴って生ずる飛行機の釣合安定度の変化に関しても、どのタンクがどれだけ減れば、操縦にそう影響するかというようなことを精密且詳細に検討して爆撃操縦に適用した」と述べています)
それだけの成績を残すのは、天性のものだけではなく、不断の努力や研究があったということです。

佐藤-金井コンビは真珠湾でも敵主力艦2隻に命中弾を与える殊勲を挙げました。
『(前略)・・・・全精神を目標に集中して居るので、付近で炸裂する高角砲の音も耳に入らず、目標以外の何物も目に入らず無念無想だた狙って居る。目標のみ目と心に映ず、此の時既に命中の自信を得たり。
今度は絶対に大丈夫と前席に伝え、確信と余裕を以て更に懸命の保針を『頼みます』、心で伝う、以心伝心二人の心は一つになって居るからすぐ通ずる・・・・(後略)』(金井日記)

真珠湾攻撃を終えた機動部隊は12月23日には日本に凱旋帰国する予定でした。
ところが、「蒼龍」「飛龍」の2隻だけが帰途ウエーク島攻撃を命じられ、機動部隊とは別行動になります。
12月22日、真珠湾攻撃から2週間後・・・・。
この日も水平爆撃の嚮導機として出撃した佐藤-金井コンビは、ウエーク島上空で指揮官機と入れ替わった途端、上空の雲間から指揮官機めがけて降ってきた敵戦闘機に銃撃されてしまいます。
おそらく操縦・佐藤飛曹長が被弾したのでしょう。真っ赤に染まった風防の中から、金井兵曹は隊長に向かって笑顔を見せ、手を振りながら海に落ちていったということです。


参考文献:森史朗『運命の夜明け 真珠湾攻撃 全真相』、源田實『海軍航空隊始末記』、押尾一彦・野原茂『日本陸海軍航空英雄列伝』、森拾三・大多和達也手記