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百里原航空隊の8期飛練2022年03月28日 04時51分01秒

※202003301506追記あります。

タイトル、乙8期の飛練――という意味です。

このブログでメインで書いている乙9期は飛練に進んだら飛練10期、10期飛練と書いていますが、乙8期までの飛練と数字はつながっていません。
ややこしいので説明するなら別記事にしますね(といってもわたしもそんなにわかっていない)。



今日は浅川さんの写真の中にあった百里原航空隊の乙8期生の飛練時代(中練)の写真。


飛行場で93中練をバックに飛行服。


後ろは庁舎ですかね、一種軍装で。
左袖に特技章がついているので、飛練卒業の日、15年3月30日かなと思います。

浅川教員や徳永有教員も写っているのですが、今日は練習生だけ。


飛行服写真の並び順で(一種写真は同じ並び順ではありません)。
中列左から
高崎外茂次さん


20年8月4日  951空  東シナ海(同期生会誌)
                 上海基地の人員収容要務で同基地発進後敵機と交戦、被弾戦死(雄飛会戦没者名簿)



賀来準吾さん
艦攻

戦後生存


川西渡さん
中攻

17年8月7日  4空  ツラギ(行動調書)


高野敬さん
中攻

戦後生存


須藤市郎さん
艦爆

19年6月24日  横須賀空  硫黄島(行動調書)


新木武さん
中攻

17年8月26日  木更津空  ガダルカナル飛行場攻撃(行動調書)



戸高昇さん
戦闘機

17年6月5日  飛龍  ミッドウェー海戦(戦闘詳報)


馬場時治さん
中攻

17年2月20日  4空  ニューギニア沖航空戦(行動調書)
※9期岡田温次郎さんペア


高原重信さん
戦闘機

19年9月21日  201空  比島(戦闘311 マニラ ※『日本海軍戦闘機隊』)



後列左より
東秀一さん
戦没者にも生存者にも不明者にもお名前が出ておらず消息不明です。

※Kさんからご教示いただき、行動調書で確認しました。
17年10月18日  三沢空  ソロモン


奥富梅次さん
艦爆

15年10月16日  大分空  殉職(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)


高橋清さん
中攻

18年1月4日  705空  ブナカナウ発進  索敵中行方不明(行動調書)

同期生会誌、雄飛会戦没者名簿によるとニューギニア方面のようです。


北村富佐士さん
艦爆

19年6月20日  653空  南洋群島(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)


白野博さん
中攻

20年3月24日  攻撃709  木更津方面(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)



高野保男さん

戦後生存


中仮屋国盛さん
戦闘機

戦後生存


西森俊雄さん
艦爆

17年10月26日  瑞鶴  南太平洋海戦(行動調書)


尾崎勝正さん
中攻

17年4月27日  高雄空  ダーウィン攻撃(行動調書)
※9期米盛朴さんペア


金子一郎さん
艦爆

16年7月24日  龍驤  都井岬沖(宮崎県)  殉職(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)


根食貞憲さん
艦攻

19年10月12日  K262  台湾沖航空戦(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)






下の2枚はおそらく浅川さんのmyカメラで撮られたものではと思っています。
水戸・偕楽園。
8期生だけで。みな、リラックスした表情です。

こちらは教員入り。



写真順は上で紹介した順です。
左が練習生のみの写真、右が教員込みの写真。
高崎外茂次さん

賀来準吾さん

川西渡さん

高野敬さん

須藤市郎さん

新木武さん

戸高昇さん

馬場時治さん

高原重信さん

東秀一さん

奥富梅次さん

高橋清さん

北村富佐士さん

白野博さん

高野保男さん

中仮屋国盛さん

西森俊雄さん

尾崎勝正さん

金子一郎さん

根食貞憲さん



イス、浅川教員。
後列左から金子一郎さん、高崎外茂次さん。

イス、浅川教員。
後列左から馬場時治さん、高橋清さん、中仮屋国盛さん。

途中で練習生ペアの交代があったんでしょうかね?

一種の写真では練習生20名に教員(下士官)が10名写っているので(空曹長もいるので教える側はもっといるはず)、まあ、教員1名に練習生2、3名ですかね。

2枚の写真、撮影は同じ時に行われたように思います。



※画像は浅川さんご家族ご提供

操練28期 渡辺晃さん2022年03月19日 14時20分37秒

浅川さんの加賀・15空時代の写真に、
「えっ!? あの人がっ!?」
って人が写っていました。

海軍の有名人というか、海軍航空隊の至宝的搭乗員です。

源田実さんの『海軍航空隊始末記』(文春文庫)によると、従来3000メートル付近からの水平爆撃の精度が10%、あるいはそれを切るぐらいだったのが真珠湾の少し前(16年になったころか?)には劇的に改善したんだとか。
それには布留川泉大尉の貢献が大きかったらしいです。

『四月下旬、赤城が南九州の訓練地に向って回航する途中、標的艦摂津に対して爆撃演習が行われ、その第一回目に九機編隊の赤城艦攻隊は三〇〇〇メートルの高度から摂津を攻撃して九発のうち四発の直撃弾を得た。第一回目の報告を聞いた時、「まぐれ当り」と私は思ったが、同日中に、第二、第三回の爆撃を実施して、そのいずれもが三発ないし五発の命中弾をえたるのみならず、・・・・

―――(中略)―――

「一体どこにこの原因があるのだ」
私は布留川大尉に聞いてみた。
「最大の要素は操縦者です。従来は、爆撃は爆撃照準手がやるもので操縦者は単に車引きの範囲を出ていないという考えでした。これではほんとに良い爆撃は出来ないのです。操縦者の操縦法が精密爆撃の成績を左右する大きな要素であることが判りました」
布留川大尉が引連れて共に赤城に乗込んで来た渡辺一飛曹は、彼の飛行機の整備は決して整備員委せにすることなく自分で主要な点を実施した。殊に操縦装置において然りである。操縦索の張り工合など自分で自分の気に入るように調整し、一度その調整が終わったならば他人がこれに触ることを厳に警戒した。燃料の消費に伴って生ずる飛行機の釣合安定度の変化に関しても、どのタンクがどれだけ減れば、操縦にどう影響するかというようなことを、精密且詳細に検討して爆撃操縦に適用した。自分自身の精神的肉体的調整に留意したことはもちろんである』

何年も前に読んだこの箇所、ひどく感動したことを覚えています。
プロ意識というか、自分の責任に対する姿勢とか。
ここに出てくる「渡辺一飛曹」、この人が浅川さんの写真にたくさん写っていました。


浅川さんの写真に「渡辺晃さん」という人が何枚も写っていることは気づいていましたが、まさかこの人が赤城嚮導機のあの渡辺さんだということにわたしは全然気づいていなくて、いつものことなのですが、Kさんに指摘されて気づいたのでした。

『艦船模型スペシャル』2022春号に掲載された、浅川さんの加賀時代のこの集合写真。
ここで紹介しようと思って、
「写っているのはどなたかなー?」
と探っていました。
どうしても自分で納得できない部分があり(メンバー的に写っていてもおかしくない渡辺晃3飛曹が最初どこにいるのかわからなかった)、「ぜったいに写っているはず」といろいろ見ている過程でKさんにもお助けを求めました。懸案は無事に解決でき、更にKさんから、
「渡辺晃3飛曹は真珠湾時の赤城の水平爆撃隊の嚮導機、渡辺・阿曽(弥之助)コンビの渡辺さんですよ」
と指摘をいただき、
「あっー! ホンマや!」
とようやく気づいたわけです。



古い順に。
兵のペンネントが「大日本軍艦加賀」。
背景は皇居の二重橋。右端にガイドさんらしき女性も写っています。
これもそのうち紹介しようと思っていますが、下士官の中には浅川さんはじめ、同じ艦攻分隊の面々が。記名はありませんが、何名かお顔でわかる人がいます。

この写真も最初、渡辺さんはいないと思っていたのですが、どうも、前列中央チョイ左でしゃがみこんでいる兵の人↓っぽい。
軍帽のかぶり方を見ると、のちの精密機械のようなイメージの渡辺さんではなく、そこらへんのあんちゃんみたいです。 ※イメージです

誰一人階級章や善行章がはっきり見えないのでわたしの想像ですが、13年の2月3月ぐらいかな?
手袋をしている人がいるので、相当寒いのかな?
渡辺さんも手袋をしています。




最初に出した加賀の集合写真の渡辺さん。
いました。
最初、違う人と取り違えていました。
あの写真を照合するのに、当時の加賀艦攻隊の編制表を穴があくぐらい見て、おおよそ「このメンバーだろう」と推定できたのですが、そのメンバーに入っているはずの渡辺さんがいない!と自分の中で大騒ぎ。
「おかしい、そんなはずはない。写っているのでは?」
確実に渡辺さんであるという写真(浅川さんの写真の中に記名入りがあった)を集めて見比べて、ようやくこの渡辺さんを見つけることができました。
13年初夏。


たぶん上の写真と同じときに撮られたと思われる飛行機隊の総員集合写真の渡辺さん。




15空編成時に撮られたと思われる分隊集合写真。
加賀の同じ分隊からそのままスライドしている人が多いです。
13年6月かな?

軍帽のかぶり方はやっぱりあんちゃんっぽい(笑) ※イメージです

この写真、同じ写真がアジ歴に記名入りで出ています。
ただ、写真も文字もぼやぼやしていて判読(判別)困難です(渡辺さんはちゃんと「渡辺」と読める状態です)。
浅川さんの残した十五空アルバム(印刷物)に分隊ごとの名簿が掲載されているので、それを参考にしながら他の人たちは照合しました。整備の人も写っています。


15空時代。
これはみなさんの格好から夏かなと思います。
後ろは飛行場の指揮所か搭乗員待機所っぽい。

ぼんやりしていてわかりにくいですが、後列左端が渡辺さんに似ている気がします。
帽子をかぶっていますが、かぶっているというか乗っけているだけというか。
いつもの渡辺さんだなあ、という感じです。 ※イメージです

首に紐をかけていて何かをつるしています。何をつっているのか? ちょうど前の人の頭で見えません。
15空の飛行服の人たちの写真に、拳銃を携帯しているものが何枚かあるのですが、渡辺さんの場合、ちょっと見えている部分からは拳銃ではないように思います。



15空時代。
たぶん浅川さんのmyカメラで撮られたもの。
「九江市街ニ於テ  馬場(左) (注記なし 中) 渡辺(右)」
時期は不明ですが、1種なのでまあそんな時期なのでしょうね。

やっぱり軍帽のかぶり方があんちゃん。 ※
ちなみに、きちんとかぶっている左端の人は浅川さんの予科練同期生・馬場常一さん(偵)です。
浅川さんも馬場さんも軍帽はきちんとかぶる派です。

渡辺さんが右手の人差し指に包帯を巻いているのがちょっと気になります。
この頃から整備は自分でやる派で、飛行機をいじっていて怪我したのでしょうかね。まさかバレーボールでつきゆ・・・・・、いや、まさか。

残念ながら真ん中の人は現時点でどなたか不明です。
15空の13年11月集合写真(↓次の写真)に写っているのですが、編成時の記名入り写真にはいないようにあります。
今後の課題ということで。



13年11月明治節の分隊集合写真(十五空アルバムの総員集合写真に撮影時期が書いてありました。服装などから同日撮影と判断)。

やっぱり帽子があんちゃんぽい渡辺さん。 ※


15空艦攻隊が解隊したあとは赤城に転勤されたようです(アジ歴の搭乗員略歴)。
これが13年の年末です。
そこから3年、源田実参謀も感嘆するほどの水平爆撃の神業操縦員に成長されていた渡辺さん。
あの文章でとんでもなく神経質で謹直な人なのだろうと思っていたのですが、浅川さんの写真の渡辺さんはあんちゃんみたいでちょっと雑な、ものにこだわらない雰囲気さえあります。
更なる妄言を許してもらうとしたら、ちょいかわいい感じすらしますよね。しかし、じつは浅川さんより年上です。







真珠湾攻撃総隊長の淵田美津雄さん(赤城・水平爆撃隊隊長)の手記『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(中田整一編 講談社)

(真珠湾上空でいよいよ爆撃開始)
『松崎大尉が声をかけて来た。
「隊長、爆撃嚮導機を前に出します」
「ヨーシ」
爆撃嚮導機は二番機の位置についていた。操縦者は渡辺晃一等飛行兵曹で、爆撃手は阿曽弥之助一等飛行兵曹で、二人は名コンビで、艦隊の爆撃戦技ではいつも群を抜くエキスパートであった。
松崎大尉がチョイと合図した。渡辺兵曹がうなずいた。一番機が高度をチョイと上げる。二番機がツーと前に出て一番機の位置につく。すると一番機がチョイと高度を下げて二番機の位置につく。こうして爆撃嚮導機の誘導の下に爆撃コースに入った。爆撃手阿曽兵曹のだるまサンのような顔が、風防を通して見える。私と目が合ったので、彼はニッコリと敬礼した。私は手を上げて「しっかりやれよ」と合図した。すると彼は「まかせといて」とうなずいた』

『やがて、目標に近づいて来た。嚮導機の針路修正は、いよいよこまかくなって来た。針一本右といった調子である。もう間もなく爆弾投下だと、私は投下把柄を握って、一心に嚮導機の爆弾を見つめる。嚮導機の爆弾が機体を離れるのを見た瞬間に、後続四機は、一斉に投下するのである。
しかし見つめていると、嚮導機は、チョイチョイとバンクした。やり直しである。私はやれやれと思った。またあの弾幕をくぐらねばならんからである。しかし、あとで阿曽兵曹の話したところでは、もうチョイというところで、断雲に遮られて、照準をミスしたのであった。折角、真珠湾上空まで運んできた爆弾を、あたらないのを承知で落す奴はない。満星の照準が出来ないで、三度もやり直した中隊もあった』

『私は爆撃嚮導機に手先信号を送った。
「四番目内側のメリーランドを狙え」
阿曽兵曹はうなずいた』

二度め。
『目標はメリーランド、やがて嚮導機から「投下用意」の信号が来た。息を呑んで投下把柄を握って待ち構える。「投下」、嚮導機の爆弾がフワリと落ちるのを見て、私は投下把柄を引っ張った。そして急いで座席に寝そべって、下方の窓から、爆弾の行方を見守った。徹甲爆弾四発は、鼻づらを揃えて伸びて行く。世に、いま落した爆弾が、あたるか、あたらないかを見守るほどのスリルはない。やがて伸びてゆく爆弾の直線上に、メリーランドが近寄って来る。爆弾は次第に小さくなって、またたきすれば見失う。目を凝らしながら、息を呑む。ぞくぞくするスリルである。やがて爆弾はけし粒ほどとなったと見た瞬間、メリーランドの甲板にパッパッと二つの白煙が立った。
「二弾命中」
徹甲爆弾は、装甲甲板を貫徹して、艦底で炸裂するように、〇・五秒の遅動信管を装備してあるので、上甲板に命中した瞬間には、パッと白煙が上がる程度であった』

淵田さん目線の嚮導機の姿――あれを渡辺さんが操縦していると思うと感慨深いです。もうあんちゃんなんて言いません。

ちなみに淵田機を操縦している松崎大尉は、真珠湾攻撃80年BS1スペシャル「生きて 愛して、そして」で、可愛い妻へ、と奥さんに手紙を書き送っていた松崎三男大尉です。




真珠湾の後、いったん内地に戻ってラバウル攻撃、ポートダーウィン攻撃、チラチャップ攻撃、印度洋・・・・。
ミッドウェイのときも赤城にいたと思うのですが、詳細不明です。
同じ赤城艦攻隊だった松田憲雄さんの手記を読んで、
「渡辺さんも同じような状況だったのだろうな」
と想像するのみです。

その後、しばらく前線から離れていたように思います。

いつの間にか中攻の操縦員になっていて、19年4月の701空(幌筵)の行動調書に渡辺晃飛曹長のお名前が出てきてビックリ。
13年当時の加賀の艦攻操縦員の写真に写っている中で、浅川さん、渡辺さん、西さん、少なくとも3人が中攻に機種転換されたよう(いずれちゃんと紹介したい)。


その後、またまたいつの間にか機種転換されていて、19年の10月には銀河の操縦員になっていました。


19年10月  攻撃501飛行隊  台湾沖航空戦


渡辺さん、戦死日がわからないんですよ・・・・。

わからない、というのは、わたしが「わからない」という意味合いが強いです。

13日か14日らしいのですが、どちらかなのか?

Yさんにご教示いただいた攻撃501飛行隊の戦闘詳報によると14日になっています。
けっこうはっきり、疑いをさしはさむ余地なく「14日」になっています。
なのにどうして13日説があるのか?

いちおう(←わたしに理由がわかるかどうかわからないけれども)検討してみました。




K501の19年10月12日~16日の搭乗員です。
本当は中隊・区隊をちゃんと表記した方がいいんですが、搭乗員の動きを見たくて作った表なので動きがわかる程度の表になっています。

当初銀河31機で動き始め、この間、補充なしで消耗していく様子がわかるかと思います。

上の表も、下の図も、自分が渡辺さんの動きを整理するために作ったものなので、他人には非常にわかりにくいものかもしれません。スイマセン。
あと、相手の米側のことはまったく調べていません(語学能力的事情)。
粗ばかりだと思うので、転載禁止でお願います。

12日、鹿屋から出撃
渡辺さん、米夜戦と交戦して電信員・長澤尚上飛曹が機上戦死しています。


13日、鹿屋帰艦組には入らず台南残留。




14日、台南から出撃。未帰還。


特別根拠もなく「搭乗員は機に固定」という前提で機番号を振っています(便宜上)。
戦闘詳報には基本、損失機の機番号しか書かれていません。最終的に損失機になってしまって機番号がわかるものがあるので、「固定」という前提で機番号を振っています。この間の戦闘で損失機にならず機番号がわからないものは機長名で表示しています。

ただ、「固定」という前提とはいえ、実際は若干搭乗員の入れ替えがあります。
たとえば・・・・
隊長・丸山宰平少佐(操縦)の機が、台南空不時着時に大破し使用不能になったようです。
そこで、翌日、自分の偵察員(加藤正一中尉)と電信員(奈良宏上飛曹)を台南に残し、代わりに機体無事だった平山繁樹上飛曹機(14日出撃時の丸山少佐搭乗機のO-35機ではないかと推測)の操縦員(藤井鎮上飛曹)を降ろしてその機の偵察員(平山上飛曹)と電信員(中村博信上飛曹)を乗せて鹿屋に戻っているんですよね。
なぜ、自分の偵察員と電信を連れて帰らずに平山さんと中村さんを連れて帰ったのだろう?とずっと考えています。平山さんの最期に関わることなので。
想像なんですが、自分が鹿屋に戻った後の台南に、加藤正一中尉を指揮官として残しておく必要があったのだろうか?ぐらいしか思いつかないんですよね・・・・。
ただ、加藤正一中尉と奈良上飛曹は14日に渡辺さん操縦機で出撃しているので、もし平山さんたちが台南残留組になったとしても渡辺機で出撃――ということになっていたのかな。

いや、そもそもなぜ可動全機で鹿屋に帰らなかったのか、という疑問もあるわけですが・・・・。
台南の方が戦場に近いからか。

ちなみに阿部芳包上飛曹(9期)も12日の攻撃に参加していますが、高雄不時着時に魚雷誘爆炎上、搭乗員無事、でその後、身動き取れずになっているようです。
ドーリットルのときも書いたのですが、魚雷抱いたまま夜間着陸させるってふつうなんですかね?




表やら図やら作ってみて、結局、14日出撃に矛盾はないのではないか?
13日に、鹿屋発進の6機に呼応して台南から出撃した可能性もなくはないのかもしれませんが、戦闘詳報に書かれている通り14日ではないのかな?

結局、よくわからなくてスイマセン。


※画像は浅川さんご家族ご提供。Kさん、Yさん、ご教示感謝

九江飛行場ニ於テ2022年03月13日 00時11分56秒

浅川さんの15空時代の写真、たいへん興味深い写真がたくさんあります。
ほとんど紹介できていないのですが・・・・。

中でもわたしがビックリした五指に入る1枚↓

『九江飛行場ニ於テ 戦線餘暇ノ排球』

昭和13年です。

貴重な97式1号艦攻のすぐ横でバレーボールに興じる隊員たち。

もし、近所のガキどもがこの距離感でうちの車の横でバレーボールしていたら、
「コラァー!!」
って言いますよ、絶対(笑)

司令に怒られなかったのか。



飛行場はだだっぴろはずですが、どうしてここにコートを設置したんでしょうね(^^;)

撮影時の錯覚で、ホントは100メートル向こうの飛行機がすぐそこに駐機してあるように見えるだけです。
って話じゃないですよ、これ。
ホントにすぐそこにあります。

もう1枚あります。


クロスにスパイク打つ猛者とかおるんかな。
方向舵とかにバコーン!とか(;゚Д゚)

整備の人もまじっているんですかね。
壊したら自分で直す、みたいな。
直せる人だけスパイク打ってイイとか。
いやいや(ヾノ・∀・`)




バレー、楽しそうだな~(*´ω`*)

というより、

飛行機、大丈夫か!?(゚Д゚;)

という衝撃写真でした。




※画像は浅川さんご家族ご提供

操練49期 御手洗六夫さん2022年02月23日 17時04分16秒

飛練10期(予科練乙9期主体)の実用機・攻撃機教程の大分での修業記念集合写真。
ここに9期以外の練習生が3人写っています。

3人は下士官です。
どうしてその人たちが練習生であるとわかったかというと、大分から移動した先の木更津(大型機講習)の集合写真にも写っていたからです。教員ではなく練習生であると判断しました。



最初にわかったのは8期の岡宮祐さん
2列目左から2人目。
岡宮さんは9期の予科練時代操縦分隊集合写真にも写っているので、予科練時代に合流したものと思われます。
飛練10期谷田部(中練)の集合写真にも写っています。


8期卒業アルバムの個人写真を見せていただき最近になって判明したのが本村静夫さん
2列目右端。
本村さんはおそらく飛練のどこかの時点で飛練10期に合流したのではと思っています。
中練は筑波。




もうおひとり。
8期卒アル個人写真にいないように思い、もうあきらめていました。
この人。
2列目右から2人目。




大分から移動した木更津大型機講習の集合写真。

3列目左から2人目。

袖(階級章や善行章)、大分写真はまったく写っておらず、木更津写真の方はかすかに端っこが写っているのですが、ちゃんと見えず判別不能。



12日の夜遅くに、判明しました。


きっかけは町元さんのご遺族の方が、「あの人、○○さん(8期生)では?」と連絡をくださったことでした。
結論から言うと、その人ではなかったのですが(いくつか理由がある)、この検証過程でまたまたいつものKさんに頼ってしまい、Kさんとやり取りしている間に判明してしまった―――という次第です。
ふたりで会議して判明したのではなく、Kさんご指摘で判明したってのがホントのところです。




わかってみると。
この人の練習生時代の写真が、わたしのフォルダに入っていました。
この人。

操練49期の御手洗六夫さん。
大分県出身。


操練49期。
そーなんです、乙2浅川三雄さんの受け持ちクラスです(百里原)。
これも浅川さんの写真。浅川さんはこの時飛曹長に任官後で”浅川教官”になっています。

この中にいたんですよ。
飛練10期操縦・攻撃機、大型機講習最後の不明者(中攻操縦)。

なんだろう・・・・出会っていたのに、いままで気づいていなかったというのが、何ともことばで言い表せられない感情です。




17年4月18日  4空  土浦附近  不時着








17年4月18日、この日はドーリットル空襲があった日で、B25が発艦した敵空母を求めて、木更津基地から木更津空(17機)、4空(5機)、三沢空(8機)の一式陸攻が雷装で出撃。
また、直掩隊として6空の零戦12機、館山から加賀の零戦12機も出撃しました。

しかし、零戦の方が航続距離が短いわけで、零戦隊は途中で引き返し(誘導隊として三沢空の3小隊2機も引き返し)

残りの攻撃隊は1630ごろまで敵空母を求めて進撃しましたが結局見つからずに木更津に引き返しました。

夜になり攻撃隊は木更津に到着、着陸を開始したところ、木更津空1中隊3小隊1番機の向笠進一1飛曹機が事故を起こし滑走路上で火災発生。
木更津に降りることができなくなった残りの機は霞ヶ浦の飛行場に行くように指示され、そちらにまりました。

御手洗さんが副操をしていた4空機(以下、機長のお名前(河野貞吉1飛曹:主操)を取って「河野機」と表現)は霞ヶ浦航空隊に着陸しようとして霞ヶ浦湖畔(土浦海軍航空隊付近?)に不時着(墜落?)。
御手洗さんを含む搭乗員4名が戦死。





おおまかな流れだけを書きました。

これ、ちょっと引っかかった部分があって10日以上調べているのですが、調べれば調べるほど混乱してしまい、結局、よくわからないまま書いています。
最後まで読んでもらっても結論はありません。



河野機が不時着するにいたった遠因は、木更津基地で起こった着陸時の事故です。
この最初の事故(向笠機)が起こった時間と、河野機が霞ヶ浦で事故を起こした時間・場所がわからないのです。
御手洗さんの最期に関わることなのでできたら突き止めたかったのですが・・・・。




佐藤暢彦さんの『一式陸攻戦史』(潮書房光人社)。
(零戦隊が引き返し)その後も陸攻部隊は進撃を続けたが、途中天候不良となり、中隊ごとに分離、約七〇〇カイリまで進出した時点で索敵攻撃を断念、午後四時半前後に反転、帰投コースに入り、各部隊はバラバラに午後十時過ぎ頃、木更津上空に到達した。
この日は晴天の暗夜で月もなく、灯火管制もあって真っ暗だ。偵練三十五期出身というベテランの向笠一飛曹は、T式無線帰投装置でJOAKが流す軍艦マーチを受信しながら木更津上空に辿り着いた。しかし主操の尾崎二飛曹が夜間の着陸に自信がないという。基地からは魚雷を積んだまま着陸せよと言ってきており、過荷重での着陸に向笠一飛曹も一抹の不安を感じた。
着陸誘導コースに入って一回目はやり直し、二回目はエンジンを絞るのが早すぎ、落下着陸となってしまった。一飛曹が「あっ」と思った瞬間、接地と同時に両方の主脚が破断、そのまま滑るように滑走路の中央付近で停止した。エンジンのスイッチはオフにしたものの、魚雷の頭部が衝撃で割れ、摩擦熱で火薬に引火して飛行機はたちまち火を噴いた。火達磨の機から搭乗員はかくも飛び出した。しかしこの事故の炎によって、機位を確認して基地に戻ることができた機体もあり、何が幸いするかわからない』

佐藤さんの著書には、当日の陸攻隊の行動はここまでしか書かれていません。
このあと、降りられなくなった残りの機が霞ヶ浦にまわって、河野機が事故を起こすのです。


当日、河野機の偵察員で事故の生き残りである網谷英二1飛曹(甲1)の回想(『甲飛の黎明』)。
(引き返しが決まり)思わずほっとして機内では出発時の緊張も忘れて、一時は私語も出て、ひたすら夜間の洋上飛行を続けた。反転してから約二時間飛行したころにわれわれは、黒く横たわる房総半島に出合い、更に管制下の木更津空の発光信号が、我が機に向けて連続してあり、私は主操縦のK飛曹長に知らすと同時に、再び機首を持ち上げ大きく飛行場上空を旋回しつつ、次の地上の信号を待った。地上から『直ちに霞ヶ浦空に向かえ、事故発生着陸不能』との信号を受け、再び我が機は、闇夜の霞ヶ浦空に向けて飛行した。
当日、米軍機による本土初空襲があったため、地上の灯火管制は厳しく、時たま、地上より警備隊の信号灯か、上空防衛機の接近する灯火が夜空に散見する程度だった。
やがて眼下に、霞ヶ浦湖畔が見え出したが、霞空上は暗く、我が機は湖上より湖周をまわりつつ、着陸地の指示信号をさがし、待ち続けた。灯火管制下の地上は、数条の光が忙しそうに走りまわっていたが、飛行場の誘導灯は見られず、わが機は尚も、湖上をまわりつづけていた。そろそろ誘導灯もつくころと思った時、とつぜん前面計器盤に『赤灯』がつき、燃料欠乏を知らせていた。後席の搭整員からも、着陸まではもつが、注意せよといってきた。操縦席は再び緊張した。その時やっと霞空の誘導灯が点灯した。すかさずベテランの主操縦K飛曹長は、湖周より進入コースに向けて機首を下げつつ、一、二回左右に方向修正を行い誘導コースに乗ったと思われた時、とつぜんバリバリと、物凄い大木を切り裂くような音がしたと思った瞬間、我が機は地上に激突したのか、私は、前後不覚になったのだ。魚雷を抱いたまま、闇夜の湖畔に、思わぬ不時着事故となったのだ。後日病室で聞かされた話では、
一、不時着時間と場所は、当日二二〇〇ごろ、霞ヶ浦湖畔の「阿見浜辺」近辺。二、救護班の話では、即死者三名、重傷者二名、軽傷者一名。重傷者二名中一名は、入院後死亡し、他の一名は私にて、軽傷者一名の搭整員は帰隊後戦死す。』
※「K飛曹長」は河野1飛曹のこと
※即死―河野貞吉1飛曹、秋山謙吾1整曹、御手洗六夫2飛曹
翌日死亡―入江一安2飛曹
重傷―網谷英二1飛曹、鳥越八郎1飛
軽傷―奥貫高重3整曹
(Kさんご教示)



当日、三沢空1小隊2番機の偵察員だった天野環さん(丙5)もこの日のことを手記に残されています(Tさんご教示)。
それによると二十一時頃木更津上空で旋回待機中に滑走路で爆発火柱を見て霞ヶ浦にまわったとのこと。
河野機の事故のことは触れられていません。




木更津で事故が起こった時間は、
『一式陸攻戦史』―――午後十時過ぎ頃
天野さん手記―――二十一時ごろ
さらに、下に挙げている3隊の行動調書を検討した結果―――2100ごろ(検討過程は省略、時系列まとめを参照してください)


霞ヶ浦で事故が起こった時間は、
網谷さん手記―――二二〇〇ごろ
4空の行動調書―――2200
木更津空の行動調書―――2300
『予科練外史』4(Tさんご教示)―――2300


というわけで、いったい事実はどうだったのか、よくわかりません。



河野機が不時着した場所に関しても、正確な場所はわかりませんでした。
網谷さんは回想に「阿見浜辺」と書いています。

当時、土浦海軍航空隊で教育中だった予科練生2人が事故翌日の日記に不時着機のことを書き残しています。乙15期・木村孝正さん(予科練平和記念館収蔵の日記)と乙16期・鷲一郎さん(倉町秋次『予科練外史』4)。
ふたりとも内容は同じような感じです。
加賀の戦闘機は木村さんは「練兵場」(伝聞)、鷲さんは「練兵場の病室の横」に不時着。「病室」というのは現在の武器学校に残っている医務科棟のことでしょうかね。

あと、木村さんは「湖畔に残骸」、鷲さんは「中攻も一機燃料不足のため昨夜二三〇〇、湖岸に不時着」(伝聞)。おそらくこちらが河野機のこと。鷲さんの方は不時着理由を「燃料不足のため」とまで書いています。そして時間の記載も。「二三〇〇」。

正確な場所はわかりませんが、土浦海軍航空隊付近の湖岸――といったところでしょうか。





この日の作戦はたんに「空振り」で済ませられるものではなく、損失は中攻3機(木更津空2機・金華山沖不時着、木更津基地着陸時火災  4空1機・霞ヶ浦湖畔不時着)、零戦1機大破(加賀1機、土浦航空隊不時着)、搭乗員9名戦死(金華山沖5名、霞ヶ浦湖畔4名)。

そもそも、夜間に魚雷を抱いたまま着陸させるというのはどうなのか。
そのことが発端になり夜間着陸の準備ができていなかった他基地にまわった中攻1機と零戦1機までも事故を起こす結果に。


このとき加賀戦闘機隊の一員として出撃していた甲1豊田一義1飛曹の回想も参考までに。
『情報により加賀の戦闘機隊も敵空母を攻撃する掩護をして太平洋を東に飛んだがとうとう敵を発見することが出来ず引返したときは日没後で館山飛行場の発見どころか着陸をする飛行場は灯火管制の為見当もつかなく暫く関東周辺の海軍飛行場とおぼしき地点の上空を飛んでいたところ飛行場らしき地点に点灯されたので高度を下げてその上空を通過して確認し燃料も少ないので飛行場の場周灯を頼りに着陸したのであるがまかり間違えば命はなかった事と今もって思って居る。大体夜間の着陸には指導灯といって飛行機を着陸角度に乗せるための設備が必要なのであるが緊急な着陸であったので間にあわなかったのであろう』


中攻隊は木更津出発から魚雷を抱いたまま8~9時間飛び続けての夜間の帰着。
みな、燃料ギリギリの中、真っ暗な中を上空で旋回待機させられ、どんな心持ちだったろうと、想像するだけで胸がキリキリします。














検討するために参考にしたものを以下に挙げておきます。
行動調書はアジア歴史資料センター。
※木更津空と三沢空索敵隊の編制表は氏名が間違っていたため訂正して差し替えました。
20220224 2244


【木更津空の行動調書より】
※アジ歴の木更津空の行動調書には、一緒に出撃した4空の編制も書かれています。
ここの編制表は分けています。

行動経過概要
1230 基地発進22機
1245 六空戦闘機隊ト合同上空■■(発進?)勝浦ニ向フ
1300 勝浦上空ニテ加賀戦闘機隊十二機と合同予想戦場ニ向フ
1530 陸攻二機誘導ノモトニ戦闘機隊引返ス(六空12機、加賀6機)
1535 木空ノ八七度四八○浬ニテ各中隊散開視界内ニ保チツツ索敵
1538 二中隊三小隊三番機左発動機不調ノタメ引返ス
1545 視界不良ノタメ各中隊分離シ中隊毎ニ索敵進撃
1633 一中隊ハ1200ノ敵母艦ノ推定位置ニ向ヒ附近海面ヲ捜索セシモ敵ヲ見ズ帰途ニ就ク
1628 二中隊木空ノ81度600浬ニテ反転帰途ニ就ク
2015 ニ、三中隊帰着
2100 一中隊帰着 敵ヲ見ズ
2100 戦闘機隊全機帰着但加賀零戦六機ハ霞ヶ浦方面ニ不時着内一機大破搭乗員軽傷
2300 中攻隊四空中攻一機土浦航空隊付近ニ不時着内一機大破搭乗員四名戦死三名重傷 木空中攻一機発動機不調引返シタル後行方不明(木空中攻一機着陸ノ際脚折損炎上) 戦死5名



金華山沖不時着機の生存者は久保雄一1飛曹、島田忠幸2飛曹
戦死者は浜田勇雄3飛曹、森本五郎2飛、細川正己3飛曹、三輪道夫1飛 (Kさんご教示)
戦死者5名ならもうおひとり戦死されているということになりますが、瀬野辰正1整は同年4月25日以降の木空の編制表にお前があります






【4空行動調書より】
同日の4空の行動調書の方は、木更津空の編制は書かれておらず、自隊5機の編制のみ書かれています。

行動経過概要
1230 flo×5木更津空基地発進
1520 2/2D発動機故障引返ス
1630 帰途ニ就ク
2000 木空上空着、着陸不能ノタメ霞空ニ向フ 3/1D木空着陸
2200 1/2D墜落(霞空ノ40度10浬)
2230 一小隊二機霞空着

大破1、戦死4、重傷3









【三沢空の行動調書より】

行動経過概要
1245 木空発進
1300 六空加賀fc隊と合同進撃
1530 fc隊誘導機二機反転セシム予定地点ニ至ルモ敵ヲ見ズ
1630 帰途ニ就ク
2100 木空上空着着陸地点飛行機火災ノ為霞空ニ向フ
2225 霞空着 19日0530木空帰着

1255 木空発進攻撃隊ニ合同スベク八五度六五〇浬迄進出ス
1525 味方潜水艦ヲ認ム粟田丸ラシキモノヲ認ム砲撃ヲ受ク
1644 攻撃隊引返スノ電報ヲ■ケ■(索?)敵ノ要領ニテ第■コースニ入ル
2225 木空上空着
2255 霞空着

1245 木空発進
1535 攻撃隊ト分離戦闘機誘導隊トナリ帰途ニ就ク
1930 木空帰着

3小隊分、1小隊、2小隊、3小隊の分が順番に書かれていると判断したので、間に空白行を入れて見やすくしてみました。
(1小隊2番機の偵察員・天野環さん手記参照、Tさんご教示)





時間が前後しますが、三沢空は午前中から飯塚豊中尉指揮の3機の索敵隊も出しています。
木更津基地で最初の事故が起こった時間推定の参考になるかと思うので挙げておきます。
※木更津空も午前中の早い時間に索敵機を出しているが、今回の検討には関係ないように思うので挙げていない


1135 木空発進 第一索敵機
1519 第二[コース]ニ入ル
1531 第三[コース]ニ入ル
1545 木空ノ八〇度六六〇浬ニテ成田丸ノ炎上中ナルヲ発見
1620 味方攻撃隊六機ト遭遇
2020 木空帰着

1142 木空発進 第二索敵機
1430 木空ノ八八度六四八浬ニテ粟田丸ラシキモノヨリ砲撃ヲ受ク
1545 第二[コース]ニ入ル
1600 第三[コース]ニ入ル
2110 木空上空着
2240 霞空帰着

1139 木空発進 第三索敵機
1405 味方潜水艦一隻ヲ認ム
1443 更ニ同上
1450 同上
1513 第二[コース]ニ入ル
1525 第三[コース]ニ入ル
1900 木空基地帰着












3隊の行動と、三沢空索敵隊の行動を時系列でまとめてみました。
わたしの疑問点など加えています(考えをまとめるために作ったものです)。




回想や行動調書によって食い違いが見られたため、反転地から推定できる帰着時間や、当日の天候状態(周辺の明るさ)などを検討するために作ったのですが、下書き段階で文章量が膨大になりすぎたので今回はばっさりカットしました。作った図だけ載せておきます。

当日の関係地

霞ヶ浦航空隊付近地図。

17年4月18日の月は月齢2.5(絵は特別計算して描いたものではありません、イメージです)。
木更津基地のある千葉の月の入は2035→満月カレンダー




※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族ご提供
※ご教示いただいた、Yさん、Kさん、Tさん、予科練平和記念館・豊崎尚也さん、ありがとうございました。

『艦船模型スペシャル』2022春号2022年02月18日 14時27分00秒

鷲見博さんの加賀の艦橋特集。


わたしは艦船の方はさっぱり無知で知らなかったのですが、加賀の艦橋の姿ってよくわからないらしいです。

それを複数の写真に写った艦橋の部分部分からパズルみたいに復元していく過程が紹介されていました。

ネット検索したら、1/350プラモデルの加賀艦橋の写真が出てきたのですが、ビミョーに鷲見さんの復元とは違うみたいです。
鷲見さんの復元は実際に写真に写っている姿をもとにしているので説得力あります。
「この部分、プラモでは直線やけど、写真で見たら曲線なんやな」
みたいな?



加賀の艦橋と言えば、浅川三雄さんの写真の背後にも一部写っているようなのですが、そもそもわたしはそれが”艦橋”であることに気づいていませんでした(T_T)

ヒトに言われてそれが艦橋であるとわかっても、艦橋のどの部分なのか、まったくわかっていませんでした。

今回、鷲見さんの解説文を読んでようやく艦橋のどの部分が写り込んでいるのか、どの方角から撮られた写真なのかわかりました。

さらに、写っている構造物が何なのかも今回初めてわかりました。





あらためて、ふだん、わたしが写真を見るときは、ほぼ人しか見ていなということがよくわかりましたorz

同じ写真でも、見る人によって、見えている風景は全然違うんだろうなと(^^;)





9期の森田守さんがマリアナ沖海戦で最後に飛び立った大鳳の特集もあり、充実した内容でした。