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15空ベテラン偵察員2023年02月19日 11時41分49秒

最近、ちょっとわけあって鶴勝義さんの写真を探していたのですが、以前見逃していたかも?って写真を見つけました。

乙2浅川三雄さんのアルバムに貼られていた写真です。

この写真なんですけど。おそらく15空時代。
浅川さんの写真って、同輩とか後輩の写真が多かったので、これもそうかなと思って、
「誰やろ? 15空にこんな人たちいたっけ? よくわからんな」
で、諦めていました。
言い訳していいですか? もともとなのか経年の為か、あまり鮮明でなくお顔もよくわからなかったんですよ(^^;)
おまけに笑顔だし(^^;)


最近、鶴さんの写真を探していて、
「あれ? この右端、鶴さんやな」
と気づきました。

あらためて他のふたりもよく見たところ、
「佐賀さんと谷口さんではないか?」

佐賀睦夫1空曹。
乙1期。15空当時電信配置。
名簿上では電信員配置の中では同期の赤松作さんの次にお名前が書いてありますが、15空解隊時点での飛行時間は佐賀さんの方が多いようです。
戦後生存。


谷口惣一郎1空曹。
偵練22期。15空当時偵察配置の次席搭乗員(先任は偵練21期の扇喜茂芳1空曹)。

真珠湾攻撃時は蒼龍艦攻隊長井彊分隊長の偵察員(雷撃隊指揮官機)。

20年5月22日  攻撃704  沖縄


鶴勝義1空曹。
偵練23期。15空当時偵察配置の3番目。

真珠湾攻撃時は加賀艦爆隊偵察員。

17年2月19日  加賀  ダーウィン攻撃





まあ、いうたら上の写真は15空のベテラン偵察員3ショット写真ってところでしょうか。
浅川さん写真の中ではめずらしい”先輩だけ”写真です。
どうして上半身脱いでいるのか、そこらへんはわからないですがいい写真ですよね。みな笑顔でリラックスした様子です。
これの鮮明なヤツ見たいですね。




上の写真じゃお顔わからんやん、て方のために、よくお顔がわかる写真も出しておきます。
13年11月明治節の5分隊(艦攻隊)集合写真。


佐賀さん。

谷口さん。

鶴さん。

こうして見るとやはりベテランの風格が漂っています。



※画像は浅川さんご家族ご提供

加賀飛行機隊 16年1月2022年10月23日 21時14分07秒

※202210271040追記があります。赤字。


先日の戸塚道太郎少将の飛行服写真は加賀飛行機隊の16年1月の集合写真からです。
「初飛行」らしいです。飛行初めっていうんですか。
この写真は野原忠明さん(操45)の遺品の中の1枚で、ご遺族の方が大事に保管されてきたものです。

もうちょっとわかってから出そうかと思っていたのですが、ここのところ行き詰っているのでもう出しちゃいます。

ここに写っている中で一番のお偉いさんは先日紹介した戸塚少将。


階級章がスゴイですねー(;・∀・)
わたしがいままで見た飛行服姿の中で、一番高位の階級章です。

で、次が大佐の階級章をつけているこの人だと思うんです。戸塚少将の左隣りに座っています。
山田定義大佐ですね。のち25航戦、西澤さんたちの親分。
当時加賀艦長。

救命胴衣までつけているので「えー!」と思いました(語彙力)。
わたしがいままで見た救命胴衣姿の人で一番高位の人。

艦長の左隣りにふたり中佐がいます。階級的には副長では?と思うのですが(氏名は把握)、その方のお顔がわからず現時点では保留。
艦長の隣の人。

さらにその外側の人。




戸塚さんの右隣りに座っている人も幹部だと思うんですが、階級章が見えません。
襟巻をして、一見搭乗員風です。飛行眼鏡がないですが。

この人の外側(右隣り)に飛行長の柳村義種中佐らしき方↓が座っているので、それ以上の立場の方と思うんですけどね。
この人が副長だろうか?




柳村義種中佐。
加賀飛行長。
だと思うんです。
252空司令時代の集合写真のキャプションが正しければ。





階級章は写っていませんが、柳村さんの一つ外側に座っている人。
これ、源田実少佐じゃないですかね? 
写真を何枚か見たんですが似ているような気がします。
『海軍航空隊始末記』(源田さんの著書)を読むと、このころ、一航戦の参謀ですよね。一航戦司令官の戸塚少将が写っているので、源田さんがいても不自然ではない。
源田さん、救命胴衣・飛行眼鏡だけではなく襟巻まで着用してフル装備です。雰囲気だけだと現役の飛行機乗りです。
343空司令時代のエピソードにも「自分で操縦して・・・・」みたいな話があるので、”雰囲気だけ”じゃないですね。






ここから先は搭乗員の方々なのでお顔だけ。
舟木忠夫少佐(兵64)。
飛行隊長兼分隊長。艦戦。


橋口喬少佐(兵56)。
飛行隊長。艦攻。

真珠湾直前の加賀艦攻隊集合写真の橋口さん。


西原晃大尉(兵58)
分隊長。艦爆。

13年5月、加賀飛行機隊総員写真(浅川さん所有)の西原さん。


牧野三郎大尉(兵60)。
分隊長。艦爆。


佐藤正夫大尉(兵63)ですかね????


イス列でわかったのはこの方々です。
橋口さんと西原さん以外は書籍の写真と見比べてのことなので・・・・。どうですかね?





イス列の方々に注記を入れてみました。
この集合写真、イス列の方々、めっちゃ序列順に座っていると思うんです。
こういう集合写真の序列順というのは、イス列中央が一番エラい人。そこから外側にむかって階級が下がっていくと。
中央が戸塚司令官(少将)、隣が山田艦長(大佐)、そして脇に中佐や少佐といった幹部らしき方々。さらに脇に飛行隊の飛行隊長、分隊長。こんな感じかな。

牧野大尉の外側のおふたりは飛行隊の分隊長だろうか?
わたしがピックアップした中に、牧野さんの後輩の分隊長がふたりいるので、そのふたりの可能性が大いにあると思っているのですが、いかんせんお顔がわからないorz
竹内定一大尉(兵62)と山上正幸大尉(兵63)なんですが、どなたかお顔をご存じないですか?
3列目の中央にも大尉さんがおふたりいるので、もしかしたらそちらかもしれません。


源田さんの『海軍航空隊始末記』にこんな記述があります。15年終わりごろから16年初めごろにかけての記述の中にある一節です。
加賀の艦攻隊や戦闘機隊には、先人未到の境地を開拓するために、万難を排して目的に邁進する「躍起者」が相当いた。被照射中の雷撃は容易なものではないが、努力によって解決出来ないものではない。竹内定一大尉、鈴木三守中尉などという命知らずの猛者が、従来の八百長的雷撃から、真に実戦的な雷撃法を確立すべく毎夜のごとく猛訓練を続けた。延岡市にある旭ベンベルグの工場に依頼して各種の光芒遮蔽ガラスを用意して実験を進めた。当初は短時間の照射で中止し、光芒数もせいぜい二本か三本であった。それが回数を重ね経験を積むに従って腕前を上げ、年度も後半期になると、我々が待望した無制限照射も、加賀攻撃隊の集団雷撃を阻止することは出来ない程に成長した。
その間において、この夜間雷撃を推進する中心人物であった竹内定一分隊長が、夜間訓練のための発艦に当ってエンジン故障のため海中に墜落し、尊い犠牲となったことは痛ましい限りであったが、後に残った人々は、いささかも士気を沮喪することなく、竹内分隊長の屍を越えて前進した。


竹内大尉(16年2月22日 事故死)はこの集合写真に写っているんじゃないかと思うんですよね。

※竹内大尉の殉職に関して、知人Oさんから新たに情報提供がありました。
防衛研究所の殉職者名簿には「16年2月21日」に殉職されたという記載があるそうです。わたしはこれは見ていませんでした。
わたしはアジア歴史資料センターの叙位に関する資料の中に、竹内大尉が16年2月22日に従六位に叙されたという資料があったので、この日が亡くなられた日なのだと解釈してブログにそう記述しました。
現時点(10月27日)でどちらが正しいのか、わたしには判断がついてません。




「この人たちが写っているのだろう」
という人たちを何人かピックアップして写真も集めたのですが、比較してもよくわからないんですよ(^^;)
とくに書籍の写真なんかは。

「えー? どの方かなあ?」
って感じです(^^;)


以下、画像の色味で判断してください。
黄色っぽいのが16年1月加賀飛行機隊写真から。
赤っぽいのが真珠湾直前の加賀艦攻隊集合写真から。



鈴木三守中尉(兵64)と三上良孝中尉(兵65)はわかりました。
鈴木さん。



三上さん。

これぐらいはっきりしているとわかりやすいんですが。

写っているのでは?って方で他にお顔がわかっている士官の方は、二階堂易中尉(兵64)、渡部俊夫中尉(兵65)、福田稔中尉(兵65)、坂井知行中尉(兵66)、相川嘉逸中尉(兵66)、下田一郎中尉(兵66)などいるのですが、もとにした写真が書籍の写真だったり、いまいち鮮明でなかったりして見つけられずにいます。

相川嘉逸さんなんか、ネットでいくら検索してもお顔が出てこず諦めていました。
別件でYさんにお尋ねごとをしたところ、
「彗星の本(Yさん著作)、手元にない?」
と言われ、
「あります」
肝心の質問ごとは解決しなかったのですが、全然別のページに自転車にまたがる相川嘉逸大尉(523空飛行隊長)の写真が!!
ただ、書籍の写真だし、飛行帽&ちょっと小さい写真で、うーん、「かなりMMKだったろう」(個人の感想です)とは思ったのですが、加賀の集合写真の「この人だ!」ってところには至っていません。








3列目に注記を入れてみました。
3列目の右の方に下士官の吉野治男さんがいるのですが、ここはちょっとイレギュラーかなと思います。なので、吉野さんの両隣の人たちももしかしたら下士官兵の人かも???? 階級章は見えません。


それ以外は基本的に序列順では。
中央に大尉さんがふたりいます。
大尉さんたちの左が鈴木中尉(兵64)で、反対側の右が三上中尉(兵65)なので、大尉さんたちは兵63期かそれより上の人なんですかね。
鈴木さんと三上さんの外側の人たちはおふたりの同期か、それより後輩の人たちかなと思います。
空曹長の方がどこにいらっしゃるのかよくわからないんですよね。3列目の端の方なのかな? それとも4列目以降にいるのか? 


2列目(イス列)紹介部分に、
「山上正幸大尉(分隊長)、どなたかお顔をご存じありませんか」
と書いたところ、知人Tさんから情報提供がありました。
その情報を検討した結果、
3列目の中央にいる大尉さんおふたりのうち右の方が山上大尉だろうと。

なので3列目はこういう状態で並んでいるということになります。






下士官兵の搭乗員たち。
写っている人で、たぶん間違いないんじゃないかという人だけ。

加賀戦闘機隊(真珠湾時二階堂易大尉中隊)の面々。
甲斐巧さん(乙8)

稲永富雄さん(乙7)

鈴木清延さん

五島一平さん

豊田一義さん(甲1)

石川友年さん

長浜芳和さん

戦闘機隊の人たちは最前列の左の方に固まって座っているのですが、ヒトに指摘されるまで全然気づきませんでしたorz
豊田さんの写真なんか穴が空くほど見ているはずなのにorz
甲斐さんなんか救命胴衣の記名がはっきり「甲斐三空曹」と読めるのにorz

というか、加賀戦闘機隊、ブログで取り上げています。
ここら辺に書いています→加賀戦闘機隊加賀戦闘機隊 撮影時期

ほぼ、真珠湾時の二階堂中隊です(豊田さんは転出)。
16年1月写真では、この写真に写っている北岡誠一さんと坂東誠さんが写っていないようにあります。




艦攻隊の人は、真珠湾直前の集合写真でかなり探したので、わかる人もちらほら。
松本光さん(乙7)


卒アル


王子野光二さん(乙7)


卒アル


田中一則さん(乙8)




吉野治男さん(甲2)





中川一二さん(操48)
この人、救命胴衣の記名が見えています。「中川三空曹」。

真珠湾直前艦攻隊のこの人ですよね。



この人も救命胴衣の記名が見えています。山本■■■。三空曹かな?
山本静男さん(偵43)か?





この方、救命胴衣の記名が見えています。
「増田一空曹」と書いてあるように見えるのですが。
艦攻隊の増田吉蔵さん(偵51)でしょうか。なら二空曹とかいてあるんですかね?

真珠湾直前の艦攻隊集合写真ではこの人が増田吉蔵さんらしいのですが、
似ている気もしますが。

偵練51期まで16年1月写真に写っているんですかね。そこでちょっと引っかかっています。
(乙は8期まで、甲は2期まで写っている)





町元善春さん(乙8)によく似ている人も写っているのですが、うーん、どうかな????
卒アルの町元さんとはめっちゃ似ている思うんですが・・・・。







「真珠湾直前の艦攻隊集合写真に写っている人だなあ」
って人も何人かいます。







他人の空似かもしれませんが。
似ているなあ、と思いながら見ています。






艦爆隊の方はお顔がわかる人がほとんどいないのですが、ご当人の野原忠明さん(操45)は他の写真と見比べて、この方だろうと思います。


あと、『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』に写真が出ている中島米吉1空曹(乙4)はこの方かな?
4列目の中央あたりにいらっしゃいます。
階級章は見えません。



この集合写真、わたしからしたら搭乗員のバランスがとっても悪いです。
飛行隊の集合写真って一般的には士官は少ないです。多くが下士官兵。しかしこの写真は他の写真に比べると士官の比率がとっても高いように感じます。
色分けしてみました。はっきりしているだけで下の図のような感じです。
黄色・・・・搭乗員ではないであろう士官
緑・・・・搭乗員であろう士官
青・・・・准士官かも?
赤・・・・下士官兵搭乗員
氏名とお顔から判断した人と見えている階級章から判断した人がいます。

士官の人がイス列(2列目)だけではなく立ち列(3列目)にまでいて、たくさん写っています。3列目の色がついていない人たちもどなたかわからないだけで士官の搭乗員だろうと思っています。


イス列の源田さんと艦爆の牧野大尉のあいだの人(2列目右から4人目)、緑にしていますが(この人は少佐じゃないか?)、搭乗員なのか幹部の人なのかわかりません。
あと、イス列で色を付けていない人が1人いますが(右端)、3列目まで士官がいるのでおそらくイス列は全員士官と思います。階級章が見えないので色を付けていないだけです。
准士官の方々が・・・・いるのかいないのか。いないはずはないと思うんですが、はっきり階級章が見えている人、あるいはお顔でそれとわかる人がいません。一人だけ、「もしかして准士官の階級章?」って人がいるのですが一部だけしか見えていなくてちょっとはっきりしません。4列目の左端の方にいる青い方です。







さらに機種別で色分けしてみました。はっきりわからない人もいます。
※山上大尉を加えたものに差し替えました

青・・・・艦戦
紫・・・・艦攻
オレンジ・・・・艦爆

艦爆隊の人のお顔がほぼわからない(T_T)

艦戦、艦攻、艦爆全員でこれだけということはないと思うんですよね。搭乗員全員は写っていないんじゃないかなと思っています。
どういう事情で全員写っていないのかはわかりません。
もしかしたら、搭乗員は2回にわけて撮っている可能性もあるかなと思っています。
准士官以上は2回分とも全員写っているけれど、下士官兵はたとえば1回目には艦戦のA大尉の中隊だけ、艦攻のB大尉の中隊だけ、艦爆のC大尉の中隊だけ。2回目に艦戦のD大尉の中隊、艦攻のE大尉の中隊、艦爆のF大尉の中隊――って感じで。
いやいや、もしかしたら3回撮っていて、飛行機隊総員で撮った写真もあるかもしれません。あまりにお顔が小さくなってしまうので、顔が判別できる人数でわけた、とか?
いやいや、さらには艦戦隊、艦攻隊、艦爆隊、という単位でも撮っているかもしれません。


どなたかこれと同じ幹部(戸塚さんや山田さんなど)が写った加賀集合写真を見たことはないですか?


参考までに、昭和13年5月の加賀飛行機隊の総員集合写真です(浅川さん所有)。
これはイス列中央の3人以外は飛行機隊の人たちです。
総員だとこれだけいるんで。

16年1月の加賀飛行機隊写真はどういう理由で人数が少なくて、写っているのはどういうメンバーなのか、気になっています。


ひとりであーだこーだ考えていても前進しないので出してしまいましたが。
今後何かわかったら(訂正含む)また追記するか書き直すかします。



※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、Oさん、愛媛零戦搭乗員会ご提供
Oさん、Tさんご教示

乙2 岡本正人さん2022年10月14日 14時32分46秒

先日、乙2浦田豊四さんのことを書いたときにちょこっと触れた同期艦爆操縦の岡本正人さん。


浅川さんと仲良しだったのか、集合写真以外にもオフショット写真が複数枚ありました。
今日は岡本さんの写真を紹介します。

目が大きくて、写っていたら自然と目が行きます。見つけやすい人です。
まったく無関係の方面の方からご提供いただいた集合写真からも見つけてしまいました。それはあとで。


この方です。
乙2は予科練入隊時の私服集合写真があるので、娑婆時代の姿もわかります。この格好で学校に通っていたのでしょうね。
昭和6年6月。まだかわいらしいです。




予科練時代の総員集合写真より。
横須賀海軍航空隊。



これも予科練時代。
ペンネントは横須賀海軍航空隊ですが、階級章が見えないのでいつ頃の撮影かよくわかりません。





予科練時代の剣道集合写真。




飛練霞ヶ浦海軍航空隊時代。


飛練時代の集合写真より。


飛練時代の行軍の集合写真もあります。



行軍の集合写真は隊内での集合写真と違って背景まで含んで人物は小さいことが多いのですが、浅川息子さんがだいたい見つけて名前を振って下さっているので、わたしは「あー、いるいる」ぐらいの感じで労せずしてここで紹介できているのです(^^;)





延長教育大村海軍航空隊時代。








ここも隊外での行軍写真もあります。



大村時代はオフショット写真があります。
友人 谷本 岡本
左が岡本さんで右が谷本秀幸さん(艦爆操縦 12年9月20日 13空 南京攻撃行方不明)。


友人 岡本


友人 岡本



ちょっともわもわしているんですが、拡大して確認したら右端の和装が岡本さんのような?
下宿でくつろぎ中でしょうか。脱いでいる人もいます(笑)






そしてこれらが最近岡本さんを見つけてビックリした写真。





数年前に知人の紹介で高雄空中攻隊で整備をされていた方のご遺族の方から連絡をいただいたのですが、そのとき見せてもらった写真の中に岡本さんが写っていました。
なんでっ!?
って思いました(^^;)

今回、これらの写真をブログで紹介させていただこうと思って連絡したところ、これらは昭和11年の大村空艦爆分隊での集合写真ということでした。
へえー。
整備の方なんで、艦爆分隊にいらしたこともあったんですねー。





これは知人Wさんからご提供いただいた加賀時代の岡本さん。
12年8月らしいです。



これは先日知人Mさんが「操練42期の教員写真」と見せてくれた集合写真から。
もともとは「浦田さんが写っている」ってことで教えてくださったのですが、岡本さんも写っていました。
13年の前半ぐらいですかねえ。







17年10月26日  瑞鶴  南太平洋海戦



雄飛会戦没者名簿には「翔鶴」と書いてありますが、瑞鶴が正しいです。
アジ歴の瑞鶴飛行機隊の当日の行動調書には「岡本清人」と書いてありますが、「岡本正人」飛曹長です。

ペアは勝見一1飛曹。
Kさんの話だと岡本さんとはもともとご縁が深かった方みたいです。


橿原神宮の瑞鶴の碑横の戦没者名録
※わたし撮影、赤枠もわたし追加



※画像は高雄空整備Mさんご遺族、浅川さんご家族、知人Wさん、Mさんご提供
いろいろとKさんご教示

乙8期 艦務実習 霧島2022年10月07日 09時46分08秒

8期、操縦専修生の半分の艦務実習記念写真のようです。

裏書『実習航空兵記念写真』。



この写真に写っている人たちの氏名を書き込んだ紙がついていて、「実習航空兵」が8期の操縦専修生半分だとわかります。

椅子列は記名がないですが、たぶんこの艦の幹部の人たちじゃないかな?と想像しています。

ジョンベラが8期生で、左の方にいる下士官(3名)が予科練からの引率教員かな? 下士官3名は名前が書いてありましたが、8期の教員氏名を知らないので、「予科練からの引率教員かな?」というのはわたしの想像です。

写っている8期生は操縦専修生で、以前町元善春さんのご遺族の方に見せていただいた卒アル個人写真コーナーから推測するに、操縦分隊全8班あってそのうちの卒アルページ順の後半半分の4班が写っているようだと。
だとしたら教員がひとり足りないのですが(^^;)


練習生のペンネントは「霞ヶ浦海軍航空隊」です。
なのでこれだけでは実習した艦名がわからないのです。
が、写っている練習生の一人、本村静夫さんがどこで艦務実習したかわかっているので、そこから「霧島」。

8期生が艦務実習をしたのは14年6~7月。
このころ霧島艦長は多田武雄大佐みたいですが(wiki)、写っている最高位の人は中佐の階級章みたいだしお顔も多田さんではなさそう。なので、写っているのは副長でしょうか? 当時の霧島の副長は調べていないのでどなたかわかりません。

わたしは軍艦にはまったく詳しくないので、写真からこの艦が霧島かどうかの判別はまったくできません。
ネットでいろいろ画像を検索して見たんですが、そもそも霧島の特徴を知らないんで判断しようもないという(^^;)






この写真で個人的注目は、甲斐巧さんが写っているってところですかね。
真珠湾時、加賀戦闘機隊のあの甲斐さんです。
戦後の同期生会誌の甲斐さんに対する寄せ書きに「2学年の時神経痛で半年働けなくて」みたいなことが書いてあったので、「そんな状態でよく卒業も進級も影響なかったな」と思ったものです。
卒業間際には艦務実習もきっちり参加できるぐらい回復していたんだなと安心しました。








ちなみに艦務実習は学年によって派遣先が違います。

全部把握しているのは9期だけです。
9期は偵察専修生が山城、伊勢、陸奥。操縦専修生が金剛、榛名です。
山城。

島田さんの日記があるので艦務実習中の日程もおおよそ把握できています。島田さんは陸奥です。




8期は操縦専修生の半分が今回の霧島ですね。あと残りの前半分の班は金剛かな。
偵察で扶桑に派遣されている人がいます。





7期の操縦班の一部は伊勢に派遣されていました。
これは艦長の山口多聞さんが写っています。





『予科練外史』では、5期で長門ってのもあったみたいです。





もっと古い人だと、たとえば乙2ですが。
艦務実習は予科練期間中ではなく卒業後、つまり予科練と飛練のあいだに艦務実習期間が設定されているみたいなんです(浅川さん履歴より)。しかも長期間。

浅川さんは愛宕です。





※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、Mさんご提供。いろいろご教示はKさん。

解決しました―寺社に関するお尋ね―2022年09月09日 19時38分38秒

さきほどアップした寺社に関するお尋ねですが。
知人からの情報提供で解決しました。




千葉県成田市の東勝寺宗吾霊堂でした。
現存します→検索してみてください
江戸時代の義民・佐倉惣五郎(木内惣五郎、宗吾、惣吾※Wikipedia)を祀っているお堂だそうです。

めっちゃ腑に落ちましたよ!

桜に「宗」の文字。
佐倉→桜
宗吾→宗
だったんですね! たぶん。

屋根には他にも「宗」。


操練や普整の人たちも行軍で訪れているそうです。




浅川さんのアルバムでは香取神宮の写真と同じページに貼られていたので、その周辺じゃないかと思って探したのですが、自力では見つけられませんでした。


いやいやいや、うれしいです!(・∀・)
ありがとうございました!