Google
WWWを検索 ひねもすを検索

アルキメデスの大戦2019年07月27日 23時53分01秒

前に映画を見たときに予告で流れていました。

見に行かねば!

ということで、行ってきました。
アルキメデスの大戦。


いままでヒミツにしていましたが、じつは菅田将暉くん、けっこう好きなんですよ。
歌っている菅田将暉くんが好き💗

あー、いま若手で一番顔が好きなのは科捜研の女に出ている蒲原刑事です💗

それはどうでもいいんですが。





おもしろかったです。

またひとつ知識を得ましたよ!

ときは昭和8年。
菅田将暉扮する櫂(かい)さんは、東大を一身上の都合で退学し、酒席で芸者を独り占めして騒いでいるところに山本五十六さんに「芸者を譲ってくれ」と乱入されたことが縁で、その高い数学力を買われ、請われて海軍に入ります。東大中退からいきなり海軍主計少佐です。こんなルートが本当にあるのかどうかは突っ込まない方がいいかと(笑)




映画の間、櫂少佐の軍帽がずーっと気になっていたんですよ。

士官帽です。

白い線が入っていたんです。

「こんな軍帽、見たことねーぞ(-_-;)」

きっと主人公を目立たせるためのデザインだな!(・∀・)

と、

思いませんよ。さすがに。


終わってすぐに検索しました。



ありましたー!
零戦の会の会長・神立尚紀さんのツイッターに書いてありました!
主計科士官の軍帽には白線が入っていたそうです。17年4月まで。

最後に、山本さんが連合艦隊司令長官として大和に乗り込んでくるシーンがあって、そのシーンの櫂中佐(9年経って中佐に進級していた)も白線が入っていました。
このシーンは17年2月、白線あり、ってことですね。

恥ずかしながら、いままで古い時期の主計科士官の軍帽とか見たことがなかったので、白線入りの軍帽のことは知らなかったです。

ひとつ勉強になりました!

設定はけっこうハチャメチャだったけど、細かいところの再現力が高いって不思議な映画でした。



2030からの上映を見たんですが、すごい人でした。半分以上埋まっていたんじゃないか?


おもしろかったのは、

櫂少佐の、武器・メジャーを手にしたときの変態ぶり。

櫂少佐お世話担当の田中少尉。いいコンビでした。

海軍映画を見ていたはずなのにいつの間にか池井戸ドラマになっている。

会議中にシマハンと山本さんがけんかを始めるシーンが特にツボで、一人だったら笑い転げたと思うんですが誰も笑っていなかったので、
「ここは笑うところじゃないのか」
と必死でこらえました。

二人の日記2019年07月17日 21時54分52秒

昨日の訪問、始まりは2015年に見せてもらった1枚の写真です。


左は9期の藤原国雄さん。台湾沖航空戦で戦死された中攻偵察員です。

奇しくも4年前の昨日(2015年7月16日)、藤原さんのご実家にうかがって遺品を見せていただきました。
台風予報で、「電車、走るかな?」と心配しながらの訪問でしたが、幸い、お墓参りのときにパラっと来ただけ。昨日と似たような状況でした。

見せていただいた藤原さんの遺品の中に上の写真がありました。
この写真の存在はそれ以前にご遺族の方に写メで見せてもらっていたので知っていましたが、現物で階級章や裏書まで確認できたのはこの訪問のときです。

阿見の小船井写真館撮影。
裏書によると左から、「藤原」「木下」「大野」。
階級章は藤原さんが2空、木下さんが1空。
これで真ん中の人が9期生ではないとわかりました。
甲3期の木下広吉(ひろきち)さん。藤原さんと同じ長野県出身。真珠湾攻撃、赤城の艦爆で戦死されています。偵察員です。

ここまではブログに書いています。
このあとのこと、ブログに書いていませんよね、たしか。
書いて忘れているんですかね? 検索しても出てこないんで・・・・。たぶん書いていないかと。


2年以上前の話です、木下さんの姪御さんと連絡が取れて(ヒトに仲介を頼みました)、この写真も送らせていただきました。

そのときに、写真の右端の大野さんと木下さんの関係もわかりました。
(これはわたしの個人的心情で内緒)

せっかく連絡が取れたのでお墓参りに行きたいですね・・・・、と同じ長野県の山岸昌司さん(乙6)の姪御さんと、お父さんが甲3期の教員(真珠湾時は赤城乗組)をしていたSさんとそんな話をしていたのですが、立ち消えになっていました。






時は流れて――。

今年の予科練慰霊祭。

思わぬところから木下さんのことが話題に。



慰霊祭の前日、山岸さんの姪御さん、小板橋博司さん(乙6)の大甥の方、谷川澄男さん(丙2)の息子さん、戦史研究家のYさんと落ち合って土浦周辺をまわっていました。


小板橋博司さん、群馬、偵察、艦爆→月光
19年11月8日  ビスマルク諸島北方海面に於いて戦死



慰霊祭当日は混雑するだろうからと、土浦駐屯地内の戦没予科練生の慰霊顕彰施設・雄翔館にも行きました。

館内を見学していたところ、山岸さんが驚いた様子で近寄ってこられ、
「ママさん、小板橋さんが木下さんをご存じみたいですよ」
と。

雄翔館に木下広吉さんの紹介パネルが掲示されているんですが、小板橋さんがそのパネルをじーっとご覧になられたまま、
「木下さん、博司と仲が良かったんですよ。博司の日記にも木下さんのことが書いてあります」
とおっしゃるではないですか。びっくりしてですね。

小板橋さんの方は真珠湾攻撃時翔鶴の艦爆隊。

じつは小板橋さんは真珠湾直前に翔鶴に転勤になったのですが、それ以前は赤城の艦爆隊でした。

そのとき持参されていた小板橋さんの日記も見せてもらいました。

昭和16年11月24日

矢張赤城の連中は話せる。
語り得る木下。

この日は千島列島単冠湾にて、赤城艦上に各空母の搭乗員たちが集まり長官訓示、真珠湾の模型の見学などをした日。
小板橋さんは古巣の赤城の人たちとの再会を喜んだよう。

そして木下さんは真珠湾攻撃で戦死・・・・。

翔鶴隊だった小板橋さんは、直後は木下さんの戦死を把握していない様子。


年が明けて17年1月14日。ラバウル攻撃のため進出したトラック島で書かれた日記。

金も名も
    命も要らぬ南の日
友の仇をいづくや
         うたなむ

木下、彼こそ同期生以外で語り共に談じ得た心の友だった。
然し今は亡し。布哇の空に散ったのだ。
安らかに冥せ、木
の霊よ。
今、俺達はトラックに来てる。
仇を取る日も近い。
優しき友、太田
(誠一さん? 赤城の同僚、真珠湾で戦死)。今は亡し。

何惜からむ 此の命
  南の夜の空清し
一.飛ぶぞ南の空高く
   散った八日の友
   今いづこ
   明日も天気だ
   星空清し
二.我の愛機は日の丸高く 
   来たぞS日の
   れいめいは
   うてと鴎も空馳せる


※どちらも前後にほかの記述もあるのですが木下さんの部分だけ。句読点はわたしが入れました
※一部小板橋さんご遺族ご教示



お二人はそういう仲だったのですね・・・・。
「木下さんのご遺族の方と連絡取れますよ」
と、小板橋さんに話したところ、
「教えてもらえないだろうか」
と。

そりゃそうですよね・・・・。

すぐに木下さんに連絡して、小板橋さんが連絡を取りたがっているとお伝えしました。
了解いただけたので小板橋さんに伝えました。


木下さんと小板橋さんのご遺族の方で直接お話をされ、墓参が実現することに。

わたしも便乗させてもらうことにしました。
山岸さんも「ぜひ同行したい」ということで、昨日、6期のご遺族お二人とわたしとで木下さんの墓参に行ってきました。

木下さんのお墓に咲いていました。
ネジバナ、ネジリバナっていうらしいです。わたしは初めて見ました。小さな可愛い花です。


これも木下さんのお墓にて。




木下さんの姪御さんが大切にされている広吉さんの写真。
左手前が姪御さん。

木下さんは7人きょうだいの末っ子らしく、みなからかわいがられていたとか・・・・。
その分、幼い甥っ子や姪っ子を自分の弟や妹のように思ってかわいがっていたのではないかと想像します。


木下さんの遺稿集も見せていただきました。
木下さん戦死後に、遺書や日記をお兄さんがまとめられたものです。
日記部分は飛練を卒業した16年3月末から9月まで。あと飛練鈴鹿時代のがちょっと。
小板橋さんの日記が翔鶴転勤後の16年11月20日からなので時期的にまったくだぶってはいません。


木下さんの日記をパラパラと見ていたら・・・・小板橋さんのお名前がありました。

七月十七日
―略―
午后一二一五より二〇〇〇迄外出許可。
板橋兵曹と延岡市へ行く。
近代的の工業都市の景は
上空より二、三回観たが
地上より訪問すると別にその感なし。
中央通りのみ近代的の観あるが、
一歩裏道へ入るともう古代の感。
ただ得るものなく三時間を過す。
夕食を摂って帰隊する。

富高基地です。
「板橋兵曹」はたぶん小板橋さんのこと。日記原本から写すときに「小」を書き忘れたのかなと思ったのですが、小板橋さんのご遺族の方によると戦友からは「板橋」とも呼ばれていたらしいので、もしかしたらもとから「板橋兵曹」と書かれてあったのかもしれません。


七月二十九日
朝食後トラックにて延岡に向ふ。
天孫降臨の聖地、高千穂に向ふ。
バスに揺られること三時間近く。
沿道、美しき川。流れ。
鮎釣る船浮かぶ。
―略―
三時近く(高千穂を)出発する。
この附近、相当高地と思ひしに、
四百米近く、
余りにも低いのに一驚した。
天孫降臨の地、高千穂。
いろいろと往時を偲ぶものあり。
高千穂峡も行かず、
昼食後帰投する。
延岡の市にて、
小板橋兵曹と一緒になり、
行動を共にす。

※句読点はわたしが入れました

遺稿集の日記は毎日分はありません。
木下さんが毎日書かなかったのか、それとも遺稿集を編まれたお兄さんが取捨選択されたのか、それはわかりません。




小板橋さんの赤城時代の日記がないので、木下さんのこの日記の記述は、小板橋さんのご遺族の方はうれしかったんじゃないかと思います。

逆に、木下さん戦死の報に接し戦友がどんな思いでいたか、そういうことも木下さんのご遺族の方に伝わってよかったんじゃないかと思います。

小板橋さんの日記と木下さんの日記。
何と言ったらいいですか。
”つながった”というんですかね・・・・。


小板橋さんが乙6期、木下さんが甲3期なので海軍歴は3年違います。
木下さんの日記の時点で階級も小板橋さんが1飛曹、木下さんが2飛曹ですが、お二人とも大正8年生まれで誕生日がほぼひと月違い。
海軍歴や階級を超えて何かと気が合ったのかもしれません。




木下さんが、自分は散っても魂は故郷に帰る、と遺書に書いていたその故郷。





昨日対応してくださったのは木下さんの姪御さんですが、めっちゃ歓待していただきました。申し訳ないぐらい(^^;)

お手製のおやつ(クルミをお菓子にしたの)とか銘菓・あんず姫とか。
ご自宅で取れた野菜を豊富に使ったお昼ごはんとか!

木下さんの遺稿集などスキャンさせていただいたのですが、スキャンしているときと墓参のとき以外はずっと何か食べていたような感じで(^^;)

おまけに朝採れのキュウリまでいただいてしまいました!
トゲがめっちゃ鋭かったです!
今日の晩ごはんでいただいたのですが、食感が良くって、たぶんわたし一人で1本分ぐらいボリボリ食べてしまいました。


※日記は小板橋さん、木下さんご遺族ご提供。画像は6期生ご家族、木下さんご遺族、藤原さんご遺族ご提供

予科練戦没者慰霊祭2019年06月05日 15時07分09秒

2日は、陸上自衛隊土浦駐屯地の武器学校内の雄翔園にて、予科練戦没者慰霊祭に参列してきました。


気温も日照具合も、数日前に比べるとずいぶん過ごしやすい気候でした。

日の丸飛行隊の慰霊飛行や陸海自衛隊による厳粛な慰霊行為、来賓・ご遺族代表によるあいさつ、地元婦人会の舞踊などを経て、最後はひとりずつ献花して滞りなく終わりました。


座席表に、わたしがいままで交流がなかった9期のご遺族の方のお名前があったので、お話をうかがえないものかと待っていたのですが、結局参列されませんでした。
8期のご遺族の方も。座席表にお名前があったのでぜひ写真をお渡ししたいと思っていたのですが欠席でした。
どちらもご高齢の方だと思うので、1年に一度の機会を待っていずにこちらから動いた方がいいだろうか?



今年初参列のご遺族の方が言われていたのですが、ここで予科練戦没者の慰霊祭が執り行われていることを知らなかった――と。

他にもそういう遺族がいるかもしれないからぜひブログでアナウンスしてほしいと言われました。

慰霊祭を主催している公益財団法人海原会のサイトがありますので、ご遺族の方で慰霊祭参列ご希望の方はぜひ連絡してみてください。

毎年5月下旬の日曜日が多いですね。
今年は6月初でしたが。






慰霊祭のあとは会場を移して直会。

指定席でした。「歴史研究家」某女はご遺族の方々とは離れてしまいました。

が、向かいはよく知っている○さんでした。
関東の方なのですが1年に2回ぐらいは会っている・・・・。つい先月も会ったばかりで(^^;)

前日懇親会に参加されていなかったご遺族の方とお話をしたかったので、食べてから移動しました。

あまりたくさんの話も出来なかったので、あらためてゆっくり話をする機会があるとよいなと思いますが。

二日間、お世話になりました。
ありがとうございました。

同級生のおじさん2018年12月08日 13時02分40秒

先週の土曜、京都で中学の同窓会をしました。
わたしは出身は九州ですが、関西に何人かいるのでたまに会っています。
今回は忘年会も兼ねていて10名集まりました。
そのうち4名が30数年ぶりの再会でした。

そのうちの一人が中学時代同じクラスで、めっちゃ仲良しだった子です。
彼女が、
「(一緒に仲良くしていた)Kちゃんが、ばっさんに会いたがっていたよ! 連絡先、教えてもいい?」
と言うので、
「わたしも連絡取りたいねん! ぜひ、伝えておいて!」
と頼んでおきました。

すると、同窓会の翌日、さっそくKちゃんからメールが届きました。
Kちゃんとは20代前半はまだ連絡が取れていたのですが、気づいたら連絡が取れなくなっていました。
彼女もいまは結婚して九州を離れているそうで。

メールに長々と近況を書くのもアレなのでさらっと済ませ、「インスタやツイッターはやっていないけどブログをしている」とこのブログのアドレスを貼っておきました。
フツー友だちはわたしのブログ、見ないんですけどね(笑)
彼女、見てくれたみたいで、返信に、
「自分は戦争のことはわからないけど、わたしの父の兄も特攻で戦死しています。父は○○に慰霊祭に行っていました」
と書かれていました。

お父さんが慰霊祭に行っていたという地名は海軍の基地があったところでした。
さらに「父の兄」と書かれていたのでKちゃんと同じ姓だろうと思って予科練名簿と海軍特攻名簿で調べたらすぐにわかりました。

「Kちゃんのおじさんってもしかして●●さん?」
と尋ねたら、「そうだ!」と。

もうびっくりしちゃってですねー。

もちろん、中学時代大の仲良しだった友だちのおじさんが海軍の搭乗員だったということにも驚いたのですが、同じぐらい驚いたのは、その数日前に、いつものKさんから情報をもらった9期生と関係がありそうな方だったからです。

同じ時期に同じ航空隊にいたんです。これは確定。

9期生が教員をしていたところで、Kちゃんのおじさんは練習生だったのです。

時期は重なっています。
ただ、その9期生がおじさんのクラスを担当していたかどうかはつかんでいません。
しかし、9期生が他隊に転出した時期と、おじさんのクラスが卒業した時期が一緒なので、担当していた可能性が高いんじゃないかと思っています。

もらったばかりの9期生の足跡と、久しぶりに再会?した友だちのおじさんの足跡が、ある航空隊である時期にクロスしていたことが、奇跡というか、何というか・・・・。お引き合わせか・・・・と思ってしまいました。


そのあと、Kちゃんはお父さんにもいろいろ聞いてくれたみたいで、当時の話など、いろいろ聞かせてもらっています。
お父さんは慰霊祭に参列される中で、お兄さんの元戦友から当時の資料などいろいろもらわれたそうで、それをいまもちゃんと保管されているそうです。
「そんなこと、今日まで知らんかったわー」とKちゃん(^^;)
わたしも知人の戦史研究家さんに特攻出撃当日の戦闘詳報を送ってもらったので、それをKちゃんに送りました。




一番驚いたのはですね。

「いま●●さんのお弔いはどなたがされてるん?」

と聞いたら、

「おばあちゃん(お父さんのお母さん)の家にいるおばちゃん」

とのことで。

彼女のおばあちゃんの家はわたしたちがいた町からちょっと離れています。電車に乗って行かなければならないようなところです。

「たぶん、中学時代、ばっさんも行っているよ、そこに」

と言うではないですか!

中学時代、たしかにその町に子ども(中学の同級生)だけで電車に乗って遊びに行った記憶はあるんです。
メンバーが誰だったか記憶が定かではありません・・・・(^^;)

彼女が言うには、そこに遊びに行って、「おばあちゃんちが近くだから寄って行こう」と言って一緒に行ったメンバーを連れて行って休憩?したって言うんです。

あの家で休憩したとしたら、通されたのは仏壇のある部屋だから、そのときに●●さんの遺影を見ているはずだ、と。


ええええええーーーーー


中学生のころだったら、あまりそういうことに関心がなかったし、ヒトの家の遺影とかあまりじろじろ見ないだろうし・・・・。

いやあ・・・・でも、もしかしたら36、7年ぐらい前にお目にかかっていたのかも・・・・。

じゃあ、もしかして、再会・・・・?

と、とっても不思議な気分に陥ったのでした。

軍艦瑞鶴慰霊祭2018年10月25日 21時57分37秒

良いお天気でした。








橿原神宮は御鎮座百三十年奉祝記念事業として境内の改修工事を予定しています。
慰霊祭とは別件で少し前に封筒が届いていました。
この北参道鳥居の改修も予定されています。


昭和14年建立らしいので、飛練10期生(偵察・鈴鹿)たちが写真を撮ったこのときは出来て間もない時期だったんですね。


飛練10期生たちがたしかにいたこの鳥居の下。
さみしいですが、傷んでいるらしいのでしかたがないですね。

もしかしたら今日が最後になるかも知れないと思って、名残を惜しんで来ました。