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鹿屋空の一式陸攻2020年02月01日 23時25分08秒

今日は自分が「これは何だ?」と思ったことをつらつらと書き連ねたにすぎません。
読んで役に立つ話でもないので、お時間の無い方はスルーしてください。

何日もかけて書いたり消したり、追加したり修正したりをくり返しているので、文章のつじつまが合っていないところがあるかもしれません。







大澤さんの写真の中にこんな写真がありました。

わたしは初めて見たような気がするんですが。

手前に飛行隊の幹部らしき方々、その後ろに飛行服の搭乗員14名、さらにうしろに隊員らしき方々がずらずらと。

中央で一歩前に出ている人、先日検索して出てきた亀井凱夫大佐(3空司令)に似ているような気もします。

が。
人物にピントが合っていないんですよねー。
搭乗員たちもよくわかりません。
14名って何だろうな?
戦闘機の編制だろうか?
戦闘機3機×4小隊+陸偵1機(2名)で14名とか。
哨戒の直かな?

人はたくさん写っているんですが、残念ながらお顔は判然としません。
ピンぼけしているんです。

でも、中央の人物が亀井大佐だとしたら3空の写真なのかな?
大澤さんが所有していたものだし。

この整列は何かの祝祭日でしょうか。わからないですが。





人物はピンボケなんですが、なぜかずっーと向こうの方にピントが合っていてですね。

テントの向こうに一式陸攻11型の尾翼と主翼が見えているんです!
機番まで見えますぜ! 「K‐353」。
その右側にもちょっと方向を違えた尾翼の先端が見えています。テントの向こうに最低2機は駐機してあるようです。


Kですよ、K。Kと言えば鹿屋空。

佐藤暢彦さんの『一式陸攻戦史』に、
「(鹿屋空の一式陸攻の)垂直尾翼に横線1本が入った機体は2中隊機とされる」
という記述(写真のキャプション)がありました。


「おおっ! 鹿屋空の第2中隊の使用機なのか!」


あれ? 待てよ。
第2中隊?

前述の佐藤さんの本には「二中隊長の東大尉」という記述もあります。
東森隆大尉です。
わたし、この人のことを書いたような気がしていたのですが、ブログ内検索しても出てきません。
なんかさらっと知っている人のように書いているでしょう?
知っているんですよ、お名前は。
藤原国雄さん絡みです。
藤原さんがご両親にあてた直筆の遺書が残っているんですが(19年10月13日に戦死する直前ではない、もっと前のもの。鹿屋空から高雄空に転勤した際か?)、そこに東大尉のお名前が出てきます。
「自分をこの配置に付けて下されし東森隆大尉に深く御礼申し上げます」




佐藤さんの本に、鹿屋空の編制が出ています。

司令 藤吉直四郎大佐(兵44)
副長兼飛行長 入佐俊家少佐(兵52)
飛行隊長 宮内七三少佐(兵56)
1中隊長 鍋田美吉大尉(召予2)
2中隊長 東 森隆大尉(兵65)
3中隊長 壹岐春記大尉(兵62)
4中隊長 池田拡己大尉(兵65)
5中隊長 森田林次大尉(兵63)
6中隊長 田中武克大尉(兵62)

中隊一つ9機編制です。3機小隊×3。

開戦時、比島イバ飛行場を攻撃したのは4中隊、5中隊、6中隊。
マレー沖海戦に参加したのは1中隊、2中隊、3中隊です。




以前、鹿屋空の9期生のことを書いたときに、鹿屋空は「本隊」と「支隊」にわかれて行動していたと書いているんですが、その「本隊」にあたるのが1、2、3中隊、「支隊」にあたるのが4、5、6中隊です。



↑ここでは9期生の所属中隊を書いていませんが、うちわけはこんな感じ↓です。
<本隊>
1中隊(鍋田中隊)  (偵)新井誠二さん、川原与三郎さん、仲野修さん、鈴木光雄さん
2中隊(東中隊)   (偵)牛澤四郎さん、藤原国雄さん、高坂浪次さん、畑中嘉夫さん、
             (操)今村文三郎さん、鹿島長重郎さん、木下光三さん
3中隊(壹岐中隊)  (偵)三浦光雄さん、鈴木俊夫さん、小薬武さん(8期)、、岡本清見さん、篠原藤市さん

<支隊>
4中隊(池田中隊)  
5中隊(森田中隊)  (操)小林為雄さん、杉本栄さん
6中隊(田中中隊)  (操)谷口十七夫さん、中門清司さん 


もし、上の写真が3空と鹿屋空が一緒にいる写真だったらダバオかケンダリ―かな?と思うのですが、とすると一緒にいる鹿屋空は4、5、6中隊ということになります。

写っている鹿屋空の陸攻尾翼は拡大するとこんな感じです。左が機体前方になります。
垂直尾翼のマーキングを見てほしかったので、手を抜いて、機体尾部の窓は省略しています。ホントは格子状?窓になっていて機銃がついています。



もし、ダバオとかケンダリ―だったら、どうして本隊の2中隊機があるんだろう?
と不思議に思いました。


で、家にある本を探して、尾翼マーキングが写っている鹿屋空陸攻の写真を探してみました。
佐藤さんの解説にしたがって中隊別に出してみました。
※機番号は全部「K-353」になっていますが、写真に写っていた実際の機番号はイラストの右枠に書いてある番号です。スイマセン、イラスト手抜きしました。

横線1本は2中隊機と書いてあったのですが、横線1本にも2種類あって、やや下の方に横線1本(便宜上「2中隊A」と呼称)というタイプと、もっと上方に横線1本(便宜上「2中隊B」と呼称)というタイプがありました。
前縁に白線?が入っているタイプと入っていないタイプがあるみたいです。文林堂の『世界の傑作機59 一式陸上攻撃機』にはこの白線のことが「共通標識」と書かれているのですが、わたしにはこの「共通標識」の意味がわかりません。分類したらわかるかとも思ったのですが、上の通り、ありなしの違いはよくわかりません。

横線の位置も、だいたいこんな感じ、と適当に描いたので、実際はもっと厳密に位置が決まっているのかもしれません。

ちょっとサンプルが少ないですね。もっと集めないとなんとも。
当事者、関係者が「これはこういうことだよ」とご教示くださると一番いいのですが。



疑問があるんですが、この法則(線なし・・・1中隊、線1・・・2中隊、線2・・・3中隊、線3・・・4中隊)でいくと5中隊は線4本、6中隊は線5本ということになるのでしょうか? スペース的にどうなんでしょうね? 5中隊、6中隊の横線が何本あるのか、佐藤さんの本には出ていなかったように思いました。
うちにあった鹿屋空陸攻の写真の中にも、横線が4本、5本入った機体は見当たりませんでした。

何が言いたいかというと、上の写真に写っているK-353号機は線は1本だけれど、本当に2中隊の所属機なのか?
支隊の4、5、6中隊の所属機の可能性はないのか、ということです。


数字部分は「3○○」と決まっているように思えます。
3の次の数字が若い方、K-315とかK-322(上の図の2中隊A・横線下方タイプ)、ここらへんが2中隊機で、3の次の数字が「5」、K-353、K-357(2中隊B・横線上方タイプ)が5中隊か6中隊の所属ってことはないんでしょうかね。
となると近藤1飛曹撮影の機体が問題になるわけですが(^^;)

K‐357号機ですが、佐藤さんの本には2中隊の近藤義宣1飛曹撮影、ということで掲載されています。時期や場所は書かれていません。自分操縦の操縦席から僚機を撮ったということでしょうかね。
同じ写真が世界の傑作機の方にも出ていて、こちらのキャプションでは、「ガ島攻撃の帰途か?」として場所はソロモン、時期は17年9~10月となっています。
後者の場合、いったん内地に戻って再編した後の鹿屋空なので中隊編制もかわっているんじゃないか?(詳細に見ていませんが) その場合、当初の中隊標識がそのまま運用されていたのかは疑問です。


ふつうに考えれば、1つの中隊は9機編制なのでたとえば1中隊だったら301~309で足りるわけです。
が、実際残っている写真は301~312まであります。300から314まであったのか? 
しかし日々戦闘をしている間に、喪失機が出る場合もあります。
喪失機の機番号を使いまわすということであれば、1中隊9機分の番号を用意しておけば足ります。
が、喪失機の機番号は欠番にする、というのであれば、1中隊の機番号として300?~314まで用意しておくことは理解できます。
ここでなぜ1中隊の最大数字を「314」と仮定したかというと、佐藤さんの本に「315」号機が2中隊東大尉搭乗機として紹介されていたからです。それを信じる前提で、1中隊機は314まで、と。
同じように、
2中隊機は315~329。
3中隊機は330~344。
4中隊機は345~359。
5中隊機は360~374。
6中隊機は375~389。
喪失を見込んで15機分の番号なら6中隊で90個。300番台でたります。



この想像を踏まえて整理し直すとこんな感じです。


この表で「5中隊」としているマーキングの鹿屋空機が存在するのではないか?

上の横線が若干下気味なのが本隊(2・3中隊)、上気味(尾翼後縁上部の屈曲部に合わせて引かれている)なのが支隊(4~6中隊)ってことはないんでしょうかね?

4中隊機では?と疑っているK‐357号機を、開戦のころ2中隊員だった近藤1飛曹が撮影している点がやっぱり引っかかりますが。


しかし、この説、パッと見て「3中隊機だ!」「5中隊機だ!」とわからないのが難点ですよ(^^;)
二つを見比べるぐらいしてやっと、「あ、上のラインの位置が微妙に違うのか」ってわかるようじゃあ、中隊識別の役に立ちませんよね。





いま、巖谷二三男さんの『雷撃隊、出撃せよ!』文春文庫を見返していて、わたしに都合のいい記述を見つけました!!
K‐310号機の写真のキャプションです。巖谷さんによると、
『鹿屋空第1中隊所属の一式陸攻。K‐310の機体は、従来マレー沖海戦に於ける第3中隊長壹岐春記大尉の搭乗機、といわれてきたが、当日大尉が搭乗したのは331号機だったことが航空記録から判明している』
この本、壹岐さんの監修です。
3中隊長壹岐大尉の搭乗機が331号機! わたしが想定した3中隊機の番号の範囲に入っています。331号機の写真はないのかーい!? 横線が見たいー!




以上のことは思いきり想像まじりで書いているんで、もし、「実際はこうだ!」をご存じの方がいたらぜひご教示いただきたいです。

マーキングの実際をご存じなくても、上に出した以外の鹿屋空の機番号の写真を見たことがあるって方がいたら、ぜひ情報をいただきたいです。






時期もはっきりしないし、中央の軍人さんが本当に3空の亀井司令かどうかもわからないので、「ダバオかケンダリ―」というところも崩れるかもしれません。


何かわからないかなーとつらつら考えていて、こういう可能性はないだろうか、という程度の話です。なので引用や転載はしないでね(笑)

結果、確たることは何もわからなかったけれど、この写真のことを調べようとして鹿屋空は6中隊あって、尾翼を見ればどこの中隊所属かわかる、ということを学んだぐらいの感じでしょうか(^^;)






飛行機、まだ写っています。
「おおー! 零戦だ!」

ちょうどのところ(尾翼)にテントが重なっていて機番が見えねー!( ;∀;)

3空の所属機かどうかわかりません。



これも飛行機でしょうか?
画像の右端。
主翼の端部が写っているんじゃないかな?



結局、この写真に写っているもので動かぬ事実は鹿屋空の「K‐353」号機だけです。
それが零戦と一緒に写っている、ということもまあ事実として認定していいですかね。

はて、どこの戦闘機隊のものなのか? 場所は? 時期は?
うーん(^^;)





※画像は大澤さんご家族ご提供
参考文献
佐藤暢彦『一式陸攻戦史』潮書房光人社
『世界の傑作機59 1式陸上攻撃機』文林堂
巖谷二三男『雷撃隊、出撃せよ!』文春文庫

3空の零戦2020年01月28日 20時36分01秒

今日は大澤さんの遺品の中にあった3空らしきある写真に関して書きかけていたのですが、もう少し調べてから・・・・になってしまいました。


かわりにこれを。

たぶんわたしが調べることはないと思われるので(^^;)

けっこう有名な写真ですよね。

『日本海軍戦闘機隊2【エース列伝】』の橋口嘉郎さんの項に掲載されています。
「本写真に写る3空の「零戦」21型[X-183]号機は、派手な桜の撃墜マークを11個も垂直尾翼に記入した機体として以前から有名。銘板から三菱製造5404号機とわかる。動翼部分が暗く写っているが、これは影になっているだけ。橋口2飛曹の愛機の1つ」
というキャプションがついています。



銘板の話が出ているのでこれも出しておきますね。
めっちゃ鮮明に写っています。


水平尾翼の下には、



ちなみにこの桜マーク11個。
搭乗員個人の戦果ではなく、この機体で墜とした戦果だそうです。




※画像は大澤さんご家族ご提供

第三海軍航空隊 16年12月8日2020年01月25日 15時24分10秒

大澤さんの写真の中にこんな写真がありました。


同じ写真が大日本絵画『日本海軍戦闘機隊【戦歴と航空隊史話】』に掲載されていました。
その説明文の一部。
「昭和16年12月8日、ハワイ作戦と呼応して行われたフィリピン侵攻作戦のため高雄において出撃前の訓示を受ける3空の搭乗員たち」




当時の3空の司令は亀井凱夫大佐です。
wikiに写真が出ています。たぶん中央で一種軍装で答礼をしているのが亀井大佐でしょう。

居並んでいる搭乗員たち、ぜんぜんどなたかわからないです。
出撃組は亀井大佐と向かい合ってカメラに背を向けている集団だろうと思います。

たぶん、それ以外の後ろ姿の中に9期の人たちもいると思うんですが。
先日書いた森田勝さんのほか、茂木義男さん、佐藤昇さん、野村茂さんが当時3空所属で高雄にいたはずです。
さすがに後ろ姿ではわかりませぬ(^^;)
飛行靴に記名している人がいるようですが、ぼやぼやでまったく読めません。

向こうに写っている格納庫みたいな建物。そこに増槽らしき物体も写っています。


こちらは外壁。かかっているのは落下傘の縛帯でしょうか。


搭乗割が書かれているんじゃないかと思われる黒板も写っています。見たい!(・∀・)




※画像は大澤さんご家族ご提供

松田憲雄『雷撃機電信員の死闘』光人社NF文庫2020年01月14日 10時40分54秒

森史郎さんの瑞鶴、読んでいます。
17年10月26日です。瑞鶴の艦爆隊と翔鶴の艦攻隊がホーネットを攻撃中です。
出てくる攻撃隊の人たちがどうなるかわかっていながら読むのはつらい・・・・。



読んでいたら、翔鶴艦攻隊の登場人物に聞き覚えのある人が出てきました。
電信員の松田憲雄3飛曹です。
本棚を探したら手記がありました。
南太平洋海戦時の記述をご本人はどう書いているのかな・・・・と思ってパラパラめくっていたら、9期生のお名前が。

翔鶴艦攻隊時代で、覚えている下士官の人・・・・と名前を挙げている中に村上守司さんのお名前がありました。
松田さんは13年6月に海軍に入ったそうで、13年6月入隊の9期とは「海軍歴同期」ですからね。←※Kさんからの指摘で訂正しました
階級も一緒だし。
村上守司さん。予科練時代。
南太平洋海戦で戦死。



松田さんは南太平洋海戦を生き延び、教員配置に。
大井空上海分遣隊に勤務します。
「上海時代の同年兵教員で、遠藤秋章一等飛行兵曹(乙九期出身)という人がいた。同じ教員同士で気があってよくお喋りをしたのだが、この人は、中肉中背、色白の坊ちゃん風で、おとなしいが一度やりかけたことはやり抜く責任感の強い男だった。
彼は、十九年十一月、海軍飛行兵曹長に任官、終戦時には、第七〇一海軍航空隊「彗星」艦爆隊隊長機の偵察員配置だった。
八月十五日正午すぎ、第五航空艦隊長官宇垣纒海軍中将は、部下特別攻撃隊員の後を追って沖縄の米軍艦船に特別攻撃をかけることを決心して、「彗星」艦爆隊中津留大尉に出撃を命じた。
「彗星」は二座機、操縦は中津留大尉、後席は遠藤だから、長官の乗る席がない。長官は遠藤に、
「自分が乗るから降りるように」と命じた。
しかし、遠藤はこの命令を拒否して譲らない。押し問答の挙句、狭い後席に太った長官と遠藤が同席で出撃、敵艦に突入して戦死したという。戦後、中島、猪口両氏共著の『神風特別攻撃隊』を読んで、このことを知った。
すでに戦いは終わっていた。彼はこれを知りながら、若い情熱の赴くままに長官と行動を共にして散っていったのである。上海時代を知っている私は、
「遠藤、よくやったと言ってやるのが本当だろうが、惜しいやつを死なした、生きていて欲しかった」と語りかけた。」

松田さんは「十九年十一月、海軍飛行兵曹長に任官」と書いていますが、これは間違いだと思います。
遠藤さんは戦死時飛曹長ですが、いつ飛曹長に進級したのかはわたしは把握していません。が、何もなければ9期は20年5月1日に飛曹長進級なので、遠藤さんひとりが19年11月に飛曹長に進級したというのは考えづらいです。
遠藤秋章さん。3飛曹時代。

先日もテレビに8月15日の出撃時の写真が出ていて、遠藤さんの姿がそこにありました。
わたしは松田さんが言われるように「若い情熱の赴くまま」征ったとは思っていません。




それから762空攻撃708時代の記述。
台湾沖航空戦の際、
「攻撃七○八飛行隊でも、藤原などの同年兵や先輩、後輩の多くが自爆した」
と書かれていました。
松田さんの同年兵の「藤原」、フルネームは書かれていませんが、おそらく9期の藤原国雄さんのことと思います。

藤原国雄さん。飛練時代。


9期のことを調べ始める前に読んだ手記はもう一度見直す必要があるかも。
9期生が登場していることを見落としていました。




瑞鶴、南太平洋海戦に戻ります。



※画像は9期生ご遺族ご提供

大友文吉分隊長2020年01月09日 13時58分24秒

今回のタイトルは迷いました。
「大友文吉分隊長」にするか、「森史郎『空母対空母 空母瑞鶴戦史 [南太平洋海戦篇]』光人社NF文庫」にするか。


年末に注文しておいた本を昨日取りに行ってきました。

ネットで注文したら、希望の本屋に届けてくれるというサービスを利用しました。
送料・手数料みたいなものはかかりません。本代だけです。


どうしてこの本を購入したかというと――
平山さんのことを調べていて、どうしてもわからないことがあったからです。この本には書いてあるんじゃないかと思って取り寄せてみました。
結果から言うと、「わかりませんでした」。

何を知りたいのかというと、
南太平洋海戦後、帰ってきた瑞鶴の飛行機隊はどこに行ったのか?
です。

瑞鶴自体はトラック経由で呉に帰ってきたと、ネットにもこの本にも書いてありました。

じゃなくて、飛行機隊、搭乗員たちはどこに帰って来たのか。

艦隊と一緒に呉に帰って来たのか、それとも近海のどこかで発艦して陸上の基地に向かったのか。

アジ歴でも探してみたのですが、わたしの能力では見つけられませんでした。
わたしの検索のしかたが悪いんですよ、たぶん。
以前も、わたしが見つけられなかった資料をKさんが「ここに載っていますよ」とさらっと教えてくださったことが・・・・(^^;)

もし、南太平洋海戦後の瑞鶴の搭乗員たちがどこに向かったのかご存じの方がいたら教えてください<(_ _)>






で、大友文吉分隊長です。

この方です。卒アルから。
9期の予科練時代の操縦分隊の分隊長です。航海の教官。
当時、少佐。

なんで唐突にこの人の名前をタイトルにしたのかというとですね、今回取り寄せた本、読み始めたしょっぱからこの人の名前が出てきて仰天した、と。

1942年9月10日、南雲艦隊がトラック泊地からソロモン海に向かうシーンから話が始まっているんですが、そこに、
『外洋に出て、野元為輝艦長から操舵の指揮を託された大友文吉航海長が、旗艦翔鶴からの速力指示を高い声で操舵員につたえた』
という記述が!

野元艦長というのは瑞鶴の当時の艦長です。ですから「航海長」は瑞鶴の航海長です。

「なんと! 大友分隊長は瑞鶴の航海長になっていたのか!」

ビックリしました。

島田さんの日記(15年11月4日)によると、大友分隊長は9期卒業直前に水路部に転勤されているんです。その後どうなったか・・・・。検索すらしていませんでした。
が、昨日、これの記述を見つけてビックリしたので検索してみたところ・・・・。

戦後もご健在だったらしく、海兵の後輩の方が書かれた故人を偲ぶ手記の中に大友さんのお名前が出ていました。

大鳳にも勤務されていたらしいです。
大鳳はマリアナ沖海戦で森田守さんが発艦した空母です。
そのとき、大友さんもおられたのか?
大鳳時代は副長だったように書かれてあります。

人柄は温厚だったとも。


終戦後は特設潜水母艦筑紫丸の艦長をされていたようなネット記事も出ていました。






島田さんの日記に出てくる大友分隊長関連記事
14年3月1日。
予科練が横須賀から霞ヶ浦に移転。
『運送指揮官大友少佐、補佐官中矢兵曹長指揮によった。』

14年7月16日。
『行軍
六時 湖水にて遊覧船に乗りて香取・香島(鹿島)参拝行軍が実施された。宇土特ム大尉、大友少佐、寺島特ム少尉等教官等交りて水郷の水の都ののんびりした中を取りて参拝した。』

14年9月8日
『近頃時間的観念がないと注意を受ける。整列に遅れたりする者が多いからである。又大友少佐より隊を編制した場合、各自の行動をゆるさない。各自の行動は烏合の衆と同じである。注意を要す。』

15年2月5日
『精神教育
二十一分隊(大友少佐)
我が国は唯今物質的に非常な不自由をしているのである。此れを見るに我が帝国の勢力が此事変に於いて此れだけ衰弱したと考へる者もあるかも知れんが此れは大きな誤解である。』

15年7月22日
『精神教育は大友分隊長の「大死一番」について

15年7月24日
『朝の課業整列の際に大友分隊長より総員に水の節水について自重を望むと!!』

15年7月29日
『精神教育は休暇中の注意事項を話された。
大友分隊長より
㊀機密保持励行の事
㊁女に対する事
以上の事は厳守して萬遺憾なき様にしなければならない。次いで宇土分隊長より以上二項も呉々も注意する様に。また飲食等にも注意する様に!!』

15年9月8日
以前書きました。日曜の外出時のこと。
『隊門を出て自動車に乗ろうと思ったが当直将校大友少佐に歩いて行く様に注意され、本間、大塚、戸川と土浦に徒歩で、土浦で戸川と二人で食べる位の程度で帰る。』

15年9月9日
『精神教育は大友少佐の「公益優先」について。ドイツが如何に滅私的精神が強いか、我が国にのみあると思ったが此れ系統に於いても・・・・。唯国家あるのみのドイツ国民、此れならばこそ落下傘部隊も生れたのである・・・・。』

15年9月19日
『航海
大友教官より教官の説明する時に下を見て本を読んでいる者がある。教官の説明する際はよく聞いていなくてはならない。何にも本を読んで解る所は説明しない、と怒ってしまった・・・・。』

15年10月3日
『航海の時間に大友少佐が「日本精神」と云ふ本、紀平博士の書いたもの、結論は「何クソ」であると言はれた。何事も「何クソ」であればよい・・・・。』

15年10月8日
『航海試験・・・・。
大友分隊長より試験前まで未練そうに何時迠も本を見ている。此れは将来お前達が飛行機に乗り出そうとして教員から射撃方法等習っているのと同じである。此うした事はやめろ・・・・。』

15年11月4日
『二十一分隊長少佐大友文吉 水路部員に栄転されて餞けとして一言訓示。
今迠に又此れから守ってもらいたいのは唯々「和」である。「和」を持って此れから行く様に。』


わたしが大友分隊長に共感した点。
試験前まで未練そうにいつまでも本を見ているって注意されているところ(笑)
春海は試験前だろうが試験中だろうがまったく勉強する様子もなく、駅で水泳部員とTikTokやったりしたあげく散々な結果を持ち帰って来るので呆れるばかりですが。毎回ホントに「実力テスト」状態です( ;∀;)
だからと言って試験日に行きの電車の中で単語帳を見ている高校生「すばらしい!!」と思っているかというとそうでもなく、じつは少し呆れている部分があります。
試験というのはふだんの勉強していることが身についているかどうかを確認する場であって、試験のために勉強するのは本末転倒です。
しかし、いまはこの試験の結果の「点数」が人生を左右することにもなるので、とにかく点を取らねばとそのことに一生懸命になってしまいますよね。
一番いいのはやはりふだんからやっていて、テスト前に慌てて詰め込まない、ってことです。一夜漬けみたいなことや試験直前に単語を覚えるようなことをしてしのいでも、結局身に付きません。実体験です(笑)

あとね、教官が説明しているときは本は見なくていい、って話も。





ここまで書いてきて、またあることに気づきました。
この写真、9期操縦分隊の集合写真です。

この写真に、9期の卒業時のものだと添え書きがあるのを見たことがあります。その添え書きはどなたが書いたのかわかりません。
ただ、軍帽のペンネントが「霞ヶ浦海軍航空隊」なので、「卒業時」ではなく「卒業に近い時期」だろうぐらいに思っていました。
※9期の卒業時の所属は土浦海軍航空隊。


大友分隊長が写っていました!

ということは少なくとも分隊長が11月4日に転勤するより前、の撮影ということになります。

もしかしたら分隊長の退隊に際しての記念写真かもな、という気になっています。





9期生存者が戦後に編集した『九期生名簿』。
ここに倉町先生が文章を寄せていますが、大友分隊長のことはどこにも触れられておらず、予科練退隊後のことは今回検索するまでわたしは知りませんでした。

10期の久保さん宅に遊びに行ったとき、当時の分隊長とは戦後も交流があったという話をうれしそうにされていました。予科練においては親みたいな存在だと思います、分隊長。

9期も大友分隊長と戦後も交流があったんです。写真を探したらありました。
見ているはずなのですが、情報量が多すぎて大友分隊長が写っていることを失念してしまっていました。
昭和40年。9期生が卒業記念に植えた土浦の雄飛の松。

添え書きに「大友分隊長をかこんで」と書かれています。
9期会の旗の左で杖を手に座っているご老人のすぐ後ろの白髪のおじさんがそうなんだろうと思います。
明治32年(1899年)生まれらしいので、昭和40年(1965)は66歳です。
9期生は40歳ちょい過ぎぐらいです。



平山さんのことを調べようとして大友分隊長にいっちゃいました(^^;)
これから瑞鶴、読みます。


※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供