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筑波空時代の乙6期山岸昌司さん2024年10月29日 13時53分23秒

最近見せてもらった写真に、筑波空時代の山岸昌司さんがたくさん写っていました。


これらの写真にたどり着くまでのいきさつは書き出したら長くなってしまうので、失礼を承知でちょっと割愛。
簡単に説明すると、操練23期の住友清眞さん(艦攻操、20年3月27日、横空大分分遣隊、大分飛行場にて戦死)のご遺族の方が仲介してくださって操練32期の中島義喜さん(艦攻操、戦後生存)のご家族所有のこれらの写真を紹介させていただけることになりました。
住友さんと中島さんは生前とても親しくされていたそう。
そのご縁のおかげでこれらの写真にめぐり合えました。
ありがとうございました。
※左・中島義喜さん、右・住友清眞さん



画像はすべて筑波海軍航空隊です。
山岸さんは教員。
写真の下に書いているクラスは受け持ったクラスです。そのクラスの集合写真からです。

操練50期



乙8期

乙8期行軍。



甲3期



操練53期



操練54期



操練56期





スナップ写真から。
時期場所ともに不明。
雰囲気から大洗の海岸かな?という気もしたのですが、わかりません。
写真持ち主の中島さんは後列の左端に座っておられます。

山岸さんは中島さんの右の方で、両隣の教員さんの肩に腕を回している人。
山岸さんの左の人は筑波空の集合写真によく写っているんですが、どなたか不明。




これも時期場所ともに不明ですが、飛練生が行きそうな場所としては日光・華厳の滝っぽい。
どうでしょうか。

左端が中島さんですね。右端が山岸さん。



宴会写真!
顔ぶれから筑波空教員の宴会写真と思います。
乙5期の大林行雄さんや冠谷悟さんらしき方も写っています。


中島さんと山岸さん。
山岸さん、宴会時には先輩によく絡まれています(笑)




知っている人?が写っているとうれしいです。



※画像は中島さんご家族、住友さんご遺族ご提供

操練28期 渡辺晃さん 練習生時代2024年10月14日 09時51分36秒

以前にちょっと書いたことがある渡辺晃さん
艦攻操縦員で、13年ごろは加賀・15空と浅川さんと同じ隊で、浅川さんの写真にたくさん写っていました。

のち、真珠湾攻撃時には赤城の水平爆撃隊の嚮導機操縦員。

19年10月の台湾沖航空戦、攻撃501飛行隊、銀河操縦員として戦死されました。




知人が渡辺さんの練習生時代の写真を所有していて、紹介を快諾いただいたので紹介させていただきます。


階級は不明。
ペンネントは霞ヶ浦海軍航空隊。

ちょっと感想としてはおかしな感想なんですが、
「あ、軍帽、ふつうにかぶっている」

軍帽をきちんとかぶっている渡辺さんを見たのは初めてかも。





3等航空兵の渡辺さん。
ペンネントは見えないけれど、後ろの飛行機は「カ」。

笑顔がいいです。





2等航空兵の階級章をつけた渡辺さん。
鹿島神宮でしょうかね。





階級章は見えませんが、ペンネントは大村海軍航空隊。
左袖も見えませんが、おそらく航空の特技章付きでしょう。
大村時代には完全に軍帽は傾いていたということで。






個人写真。
写真館の刻印はありません。
階級章などもなし。
例の廣岡写真館店頭でのコスプレなのか、それとも隊内の写真なのか?
ちょっとどういう状況なのかわかりかねます。



こちらは廣岡写真館の刻印入り。
階級章もペンネントも見えませんが、廣岡ということは霞ヶ浦でしょう。
横顔写真はレアかなと思います。わたしはあまり見たことがありません。

ここらへんから若干軍帽が傾き気味です。



わたしが見た渡辺さんの写真はわりと若いころの写真ばかりです。
ベテランになっている渡辺さんの写真って見たことないです。
どんな感じになっているのか見てみたい。



※画像はМさんご提供

奥宮正武さん2024年09月01日 11時29分02秒

去年、偵練27期の藤波貫二さんのお孫さんからご提供いただいた昭和11年頃の龍驤艦爆隊の集合写真。

ブログで紹介した当時にKさんから「奥宮正武さんが写っているのでは?」とご指摘をいただいていたのですが、自分でちょっとwikiを見て、「似ている」と思っただけでそれきりになっていたようです。
(検索しても出てこない)




最近、この写真に関して、別の知人Tさんからも「奥宮正武さん」とご指摘を受けたので、紹介しておきます。
イス列の中央あたりに座っています。
海兵58期出身。


戦後も活躍された方で、わたしの本棚にも著書が!
いまパラパラめくってみたら、ご本人の若いころの写真(大尉の階級章)が掲載されていました。

龍驤集合写真の人、奥宮さんで間違いないでしょう。

偵27 藤波貫二さん まとめ2024年06月29日 00時51分56秒

あちこちに書いている藤波貫二さんに関して、ここにまとめました(リンク集)。


20221129
甲3鹿熊粂吉さんご遺族所有の写真の中にあった集合写真です(Оさんご提供)。
この写真を公開したときには藤波さんは「ではないか?」の状態だったのですが、のちにお孫さんからコメントをいただき藤波さんと確認できました。
このブログで最初に藤波さんに触れた記事。




20230506
藤波さんと確定しました、ということで書いた投稿。



20230708
ご遺族の方から提供していただいた飛曹長時代の藤波さん。




20230709
同じくご遺族ご提供の1飛曹時代の家族写真。




おそらく機番号だけは合っていて、あとは想像の「藤波機」。
大多和達也さんの『予科練一代』(光人社NF文庫)を参考にして、何種類か描いてみました。




20230715
ひとつ前に描いた藤波機のうまく描けていなかった点をYさんに話したら、
「こうしたらいいんだよ」
と教えてくれはったので修正しました、って話です。




20230715
艦上と思しき場所で、飛行服姿でのツーショット写真。
一緒に写っている人の飛行靴に所属とお名前が・・・・。
「タ」「マ」「斉藤」。





20230717
操練を卒業して、龍驤に勤務する前に配属されていたと思われる多摩。
ツーショットの写真のもう一人が斉藤さんでした。フルネームをご存じの方からのご教示あり。



20230717
操練に採用される前の長門時代の写真に関して。




20230718
藤波さんの龍驤時代(昭和11年頃)の話。






20230804
ご遺族の方に提供していただいた写真の紹介記事。藤波さんまとめ、みたいな記事です。
たぶんわたしの手元にある藤波さんが写っている写真はほとんどここに出してあると思います。






過去記事を見返していたら、1枚だけ紹介していない写真がありました。
装備の様子から、練習生時代の航空隊近辺の写真館かなあ?
と思っているのですが、どうでしょうか。





そしてここからはまだブログに書いていない話。
(ご遺族の方には気づいたときにメールでお知らせしてあります)

藤波さんは真珠湾時の蒼龍艦攻隊水平爆撃隊の第2中隊の嚮導機偵察員ですが、同じく蒼龍艦攻隊水平爆撃隊の第1中隊の嚮導機の偵察員は金井昇さん(偵35)です。
真ん中の人です。
以前、この宴会の金井さんのことを「しらふで上機嫌な金井さん」みたいな紹介をしてしまって、あとで真実を知り大いに反省したことがありました。
日記によると、じつは金井さん、お酒、好きそう。たぶんこのときも飲んでいたでしょう。
そして、「上機嫌」どころではない大問題が発生していた最中だった・・・・。
いまとなってはこの屈託なさそうな笑顔の下にどんな心の葛藤を抱えていたのだろうと・・・・、笑顔がまぶしいだけに涙が出そうな苦しい気持になります。
(大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』講談社現代新書)


この金井昇さんの昭和16年の日記(ご遺族所有、Оさんご提供)の2月23日に藤波さんのお名前が出ていました。

「一日がかりで藤波さんと編隊爆撃の弾着整理をした」
この前後、蒼龍は台湾のあたりにいたみたいです。
飛行機隊は訓練しつつ。
11分隊と12分隊の偵察斑班長としてなのか、第1中隊・第2中隊の嚮導機としてなのか、藤波さんと金井さんは一緒に作業をしなければならない時間もあったのだとわかります。


藤波さんのお名前が出ているのはこの一箇所だけです。
基本的に金井さんはあまり蒼龍の同僚の名前は書いていないです。たまーに出てきますが。

藤波さんのお名前は一箇所しか出てきませんが、蒼龍の嚮導機としては一緒に動いていたのではないかと思っています。他の水平爆撃隊隊員たちとは別行動で特別な訓練や競技会などに参加されている様子。藤波機のペアも一緒だったでしょう。

それをまとめようとしているのですが、11月の途中で作業が進まなくなってしまっています。
なんかこう・・・・残りひと月・・・・読みたくないというか・・・・。
いや、やりますよ。最後までやりますけど。
もう少しお待ちください。


※画像は藤波さんご遺族、9期生ご遺族、Оさんご提供

宇佐に行ってきました2024年03月28日 22時37分19秒

最近、ちょっと立て続けにご遺族の方から何件かご連絡いただいて。

2月の初めにはある操練出身の搭乗員のお孫さんからご連絡をいただきました。

その方の記事を書いていたというわけではなく、ある9期生が戦死したとき同じ飛行機に乗っていたということで、9期生の個人紹介記事にその方のお名前を書いていました。それを見て連絡してきてくださったんです。


わたしは操練の方の情報はほとんど持ち合わせていないのでそのことを告げた上で、軍歴申請の話やアジ歴の資料の検索のしかたなどをお伝えしました(戦史研究家Tさんのご協力で空母に乗っていたことまでわかったので)。一般的な話、っていうんですか。

そして、そのときに、「もし差し支えなければお写真を見せていただけないでしょうか?」とお願いしてみたところ、飛行服姿のかっこいい写真が送られてきました。

写真を見たときに、
「あれ? この人、見たことある!」
と思ったんですよね。

写真は飛行服の上半身のアップ写真だったのですが、左袖の腕章がちょっと見えていて、「教員だな」ってのはそれでわかりました。飛行眼鏡が新型のものだったので、16年とか17年とか、それぐらいだろうか? とある程度絞った上で手持ちの集合写真を探してみました。

そしたら、Оさんご提供の氏木平槌さんの宇佐時代の教員教官集合写真に写っていました!
他にも、乙10期久保伊勢市さんの飛練16期艦爆艦攻専修生の修業記念写真(17年3月)にも教員として写っていました。
すぐにお孫さんに送って見ていただいたところ、
「祖父に間違いありません」
とのこと。

で、それをきっかけに、お父さん(搭乗員の方の長男さん・故人)が幼少期のこととして宇佐での思い出話をしていた、ということを思い出され、宇佐にゆかりがあったことが確定しました。

「宇佐は近いんで行ってみます!」
と言われたので、
「じゃあわたしの知人が宇佐にいるのでおすすめの場所を聞いておきましょう」
と、宇佐在住の戦史研究家・織田祐輔さんに連絡を取り、事情を話しておすすめの場所を教えてもらいました。

「仮設だけど宇佐市平和資料館がいいですよ」
とのことだったのでお孫さんにお伝えしました。

そのあとで織田さんが、
「お孫さんが宇佐に来られるのなら、わたしが案内しましょうか?」
と言ってくださって。
「なら、伝えます!」
と伝えようとしていたら、伝える前にお孫さんから、
「今日宇佐に行ってきました!!」
はやっ!
ってなりました(笑)

じつは織田さんが・・・・とお伝えしたら、お孫さん、来週もう一度行く、と。そのときぜひ織田さんに!と言われるので、
「では直接織田さんと連絡を取って調整してください」
と双方で連絡が取れるようにして、わたしは引きました。

引いたと言っても、仲介から引いただけでわたしも連絡は取っていましたけど。

いいな~。お孫さんに会えるのか。織田さんが案内してくれるのか。

と、お孫さんも、織田さんも羨ましくって。



双方で調整した結果、14日になりそうだと。


「その日、わたし、休みやん!(・∀・)」→行こっ!

先に織田さんにそれを伝え、それから便を探しました。

春休み前だったので、ガラガラだろうと思って夜行バスで行こうとしたら、満席orz

船も思ったよりお高いorz

やっぱり諦めます、と織田さんに連絡したら、織田さんがいろいろ便を探してくれたんです。
北九州経由で行くバスに空きがある、って。

「なんと!」
それをきっかけにまたいろいろと探し始めたら、さんふらわあの弾丸往復が残席わずかで残っていたんです。
「これだー!!」
ってすぐに予約しました。










3月13日、仕事終わりにそのまま大阪南港へ。


さんふらわあ受け付き窓口横のガストで晩ごはんを食べてから乗り込みました。


別府行き。むらさき。



昔みたいに大部屋はないんですね。
一番下のクラスがひとり分のベッドスペースでした。2段ベッド。わたしは下段。
カーテンでプライバシーは守れるし、なんと! 液晶テレビ付きですよ!(*´▽`*)
あれ、水曜日でしたよね。ゴロゴロとなんだコレミステリーを見ながら船旅。



終わってから、大浴場。
前に春海と乗ったときに比べてだいぶ混んでいました。
お約束、ご当地アイス(笑)
これ、めっちゃおいしかったですよ♪
真っ白で、シャリシャリしていて、わたしの好きなアイスでした。



乗ってからわかったんですが、どうしてこの時期にバスもフェリーも混んでいるのか。
たぶん、大学生の卒業旅行です。
そういうグループがわんさかいました。
わたしも大学卒業時は考古学研究室の同期生たちと城崎温泉に1泊旅行に行きました~





早朝、別府着。


バスで駅に移動。

朝ごはんは別府駅の中にあるカフェでテイクアウトして、宇佐に向かう特急ソニックの中で食べました。
ツナとチーズのトースト。



0830宇佐に到着。
「USAだ! 撮らなきゃ(義務感)」


駅まで織田さんが迎えに来てくれていました。

お孫さんたちとは1030に平和資料館で待ち合わせだったので、それまで織田さんに宇佐神宮を案内してもらいました。


初・宇佐神宮。



つづく。



※操練出身搭乗員さんのお名前を出していないのは、のちほどちゃんとその方の紹介記事を書こうと思っているからです。
※お孫さんは姉妹で、最初連絡をくださったのは妹さんのほうで、のちにお姉さんとも連絡を取るようになりました。お二人はわたしよりちょっと年上の方とちょっと年下の方です。