Google
WWWを検索 ひねもすを検索

操練54期 山崎市郎平さん2023年07月04日 11時10分16秒

山崎さんは〔山崎市郎平〕カテゴリがあるのでそちらを見てもらえばいいんですが、↑このタイトルでは書いていなかったなーと思って。


大正9年生まれ、東京都出身。
12年志願兵(水兵、整備兵)、操練54期(飛練3期)、戦闘機。
飛練卒業後は横須賀空、4空、台南空、251空。

中練、百里原航空隊修業記念。



これは16年5月1日に下士官に任官したときの記念写真かなと思います。袖の特技章がまだ整備のものです(3等整備兵曹)。
5月26日に操練(飛練3期)を卒業してようやく3等航空兵曹に。

これは大分空で戦闘機の実用機訓練をやっていたころの写真ですが、このころの山崎さんはクラスの”期長”です。
同期の吉田一平さんによると、
『山崎期長は大変温厚な、そして人情味のあるやさしい方であった。少々早とちりでそそっかしいところはあるがそれは愛嬌』だそうで(笑)



想像ですが、16年の夏ごろかなあ???


【台南空時代】
ラエ。

ラエ。

ラバウル、8月4日集合写真。

山崎さんはこの写真↑のあと負傷→病気→内地送還されたために11月の251空集合写真には写っていません。



17年冬~18年春ごろでしょうか。



山崎さんといえば4空時代のニューギニア島での遭難生還事件が有名です。
同隊で同年兵だった石川清治さんが戦後に書かれた手記に詳細が書かれていて、それを読んだときに山崎さんの誠実さや二人の友情などに感動したものです。

のちにその一件に関して、山崎さん本人が書いた手記がご実家に残っていることがわかりました。
以前、ブログで取り上げています。


※一部現在使われない用語があります。当時そのままの表現で書いています。


たぶん、これ、遭難からそう遠くない時点で山崎さん本人が書かれたものだと思うんですよね。
こんなん言ったら怒られるかもしれませんが、戦後、何十年も経って書かれたものは記憶違いなどもあるかと思いますが、当時書いた日記とか報告書を兼ねた手記はかなり正確に書かれているんだと思います。

その後、さらに驚くことがあって。
当時山崎さんと同隊だった方にお話をうかがう機会があったのですが、この遭難事件のことを覚えておられて。というか、山崎さん本人から事の顛末を聞かれたようで。
「こうだったらしいよ」
と話してくださったのですが、生還記の内容をご存じないその方が話されることがいろいろと一致していて鳥肌が立ちました。さらに、生還記に書かれていないことまで言われていて(本人から直接聞かれたのでしょう)、ホントにビックリしたことがありました。
いかだ※下りの途中に小さな滝があって何とか落ちずに済んだが落ちていたら命がなかったって山崎さんが話をしていたそうです。 ※生還記では丸木舟




ちなみに「市郎平」という名前ですが、本人は「イチロー」と呼んでくれと周辺にお願いしていて、なのに仲間は「イチロベー」と呼んでいたらしいですが、ご遺族の方によると「イチロヘー」らしいです(^^;)

温厚なやさしい人だったようです。
山崎さんの性格に関してまとめた記事はこちら





18年7月4日  251空  ソロモン(コロンバンガラ島)


朝起きて仰ぐ青空ラバウルのガダルカナルの攻撃日和







※画像は山崎さんご遺族、丙3本田秀正さんご遺族、浅川さんご家族、武田信行氏ご提供