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メスリ山古墳 桜井茶臼山古墳2023年06月30日 11時03分05秒

6月9日の話です。

橿原神宮前駅前でレンタサイクルを借りていろいろまわってきました。
(↑打ち間違いではありません。「橿原神宮前」という駅の駅前という意味です)


まわったところ(太字はすでに書いたところ)
五条野丸山古墳(欽明天皇陵か?)
キトラ古墳・四神の館(白虎壁画公開が6月18日まで)
岡宮天皇陵
束明神古墳(草壁皇子墓か?)
文武天皇陵
高松塚古墳壁画館(御墳印をもらいに)
中尾山古墳(文武天皇陵か?)
野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)
石舞台古墳(御墳印をもらいに)
岡寺(ランチ&参拝)
安倍文珠院(機位不明に陥り気がついたら門前にいた)
谷首古墳(機位不明に陥り気がついたら石室前にいた)
メスリ山古墳
桜井茶臼山古墳
宮内庁書陵部畝傍監区事務所(御陵印をもらいに)
橿原考古学研究所付属博物館(沖ノ島展が6月18日まで)



お昼からまわったところを書きますね。
といっても、迷ってうろうろしているうちにたまたまそこに出てしまったというところもありますが、盛るために「まわった」なんて言っています。



岡寺を出たあと、飛鳥寺の横を北上し、奈文研飛鳥資料館、葛ソフトの天極堂を横目にひたすら坂道をこいでこいでこいで、山田道を越えて桜井に入りました。

明日香から桜井に行く最短ルートかなと思ってここを選んだのですが、アップダウンがあってバッテリーをだいぶ消耗してしまいました(^^;)




スマホの位置情報はオンにしておいたのですが、赤信号で止まったときにスマホチェックして・・・・みたいな感じで相変わらずのこんもり航法主体で走っていたら、見つけました!


見事な3段築成!
メスリ山古墳キター!!(・∀・)
確認の為スマホをチェックしたら全然違う場所でしたorz
(メスリ山の前方部は2段築成)


安倍文珠院の脇で、なんかただの崖だったみたい(;・∀・)

奈良あるあるなんですが、ただの森が古墳に見えたり、ただの小丘が古墳に見えたり(笑)
※けっこうホンマの古墳だったりするのが奈良



せっかく来たので文珠院の入り口の石碑だけ撮ってきました。
中に入ったら古墳(文珠院西古墳、文珠院東古墳)もあったんですけどねー。
一度行っているので、とりあえずメスリ山古墳に行くことを優先してさようなら~(-ω-)/



迷って半泣きで自転車走らせていたら、遺跡看板らしきもの発見!
今度こそメスリ山来たか!?
と思いきや、「谷首古墳」と書いてある。
巨石の横穴式石室が開口していました。
しかし、今回はメスリ山古墳に行くことが目的だったので写真だけ撮ってさようなら~(-ω-)/



その後、あらためてグーグルマップを凝視し、どうやらこっちのこんもりがそうらしいと気づき、近づいたのですが。

こんもりは見えているのですが、接近する道がわからない( ;∀;)
たぶんこのこんもりです。
周辺(墳丘の南側)をウロウロしたのですが、接近する道が見つからず。
こんもりの下の住宅地もうろついてみましたが、墳丘に入る道がわからず。

いくら探しても見つからないのでもうあきらめて次の目的地・桜井茶臼山古墳に向かうことにしました。

諦めたときに限って見つけちゃう案内看板。

桜井茶臼山に行くために大通りに戻ったら、交差点に「こっち→」って矢印がありました。
今度こそたどり着けました!(^o^)


北側から接近しないといけなかったみたい。
今度こそ正真正銘、前期古墳の段築。
大きすぎて全体が入る写真が撮れないほど。
めっちゃ残っていましたよ。

しかし、解説板が見当たらず。

くびれ部の近くに墳丘に登れるような小道があったのですが、墳丘上は果樹園?みたいな感じになっていたので私有地かも?と思って登りませんでした。
帰ってきて調べたら国史跡だったので、入って大丈夫だったのかな。
しかし、午前中に束明神古墳で盛大に滑っていたので、入ってよかったとしてもやっぱり登らなかったかな。


これは橿考研の博物館に展示されているメスリ山墳頂部の円筒埴輪です。

これだけ見ても大きさがわからないと思いますが、吉野ヶ里の石棺の幅の倍ぐらいの直径があります。デブなわたしでも余裕ですっぽり入れる大きさです。寝返り余裕。
「どうやって作ったん?」ってレベルのおばけ円筒埴輪です。
日本で一番デカイ円筒埴輪じゃないかと思います。
被葬者もただものではないですよね~



メスリ山古墳に辿り着けてホッとしたところで、次は桜井茶臼山古墳に向かいます。

茶臼山古墳は、たぶんあそこらへんだろう、という場所はおおよそ見当がついていました。
そこを目ざしてGO!

しかし、なるべく国道を通りたくないわたしは裏道に入って迷ってしまい、寺川沿いをうろうろしまくってようやく裏から桜井茶臼山古墳に到着しました。
前方部端は国道にかかっています。



前方部端。
画像のすぐ左は車通りの多い国道165号線。

国道(南西方向)から見た桜井茶臼山古墳。
左側が後円部で右側が前方部です。
前方部の方が高いように錯覚しますが、傾斜地(後円部側に寺川があり、低くなっている)に築造されているのでここから見たらこんな感じに見えます。

桜井茶臼山古墳は従来、柄鏡形前方後円墳という前方部が開かずまっすぐのびるタイプの墳形と言われていたのですが、最近の測量調査で、前方部の先端近くがゆるく撥形に開いている案も示されています。箸墓ほどあからさまな撥形ではないですが。

宮内庁から陵墓指定されていないので測量調査だけでなく発掘調査も行われていて(2009年)、石室の様子や副葬品もある程度判明しています(残念ながら盗掘済みですが)。

そんな中で注目なのが鏡!
前期古墳から銅鏡が1面でも出たら「おおっ!」ってなります。
5面出たら新聞1面トップでしょう。
最近の発掘で鏡がたくさん見つかった古墳といえば柳本古墳群にある黒塚古墳です。
未盗掘で銅鏡34面。すごい!! フィーバー来ましたね~。※画像はレプリカ

桜井茶臼山古墳からも鏡が出土しているのですがなにせ荒らされたあとなので破片が多いです。が、分析の結果、なんと、81面!! これ、最低枚数です。副葬されたときは81面以上あったのでしょう。未盗掘で発見されていたらどんな騒ぎになっていたことやら。
ほぼ小さな破片ばかりなのですが、見る人が見たら鏡種や同笵鏡までわかるみたいですよ。すごいですねー。

ちなみに桜井茶臼山古墳の竪穴式石室は黒塚古墳の竪穴式石室のように断面三角形っぽい形ではなく(持ち送りという)、雪野山古墳の石室に近い形です。これよりもっと垂直に立ち上がっています。上と下、幅一緒じゃないのってぐらいまっすぐです。
石室の断面形だけでも注目してみたらおもしろそうですね。わたしはそんな余力ないけど。

先日、吉野ヶ里遺跡の箱式石棺に赤色顔料が残っていたって話題になっていましたが、わたしが見てもよくわかりませんでした。担当者の方が指差してくれてやっと「ああ、これかあ」って感じで(^^;)
前期古墳の未盗掘墳だったら上に出した黒塚や雪野山みたいな感じで赤色顔料が残っています。
これなら「指差して」とリクエストしなくてもわかりますね。







ところで。

「メスリ山と桜井茶臼山、初めて行って来たよー(・∀・)」
って投稿をしようとしただけなのに、行ってから20日以上も時間がかかってしまいました。

初期ヤマト政権におけるこれら2古墳の立ち位置を、古墳に興味ない人に軽く説明しようとして泥沼にはまってしまった――という(笑)

うまく説明できんので「そうだ! 図で説明しよう!(・∀・)」となって、図作成に熱中してしまっていたというのがホントのところです。
たぶん見ている人いないだろうな~と思いつつ(笑)



ここ半年ほど、わたしは電動レンタサイクルで大和盆地東南部(天理市南部・桜井市北部)の初期大和王権の墓域と言われている地域をうろついてきました。
昔から前期古墳好きと自称していながら、行ったことがなかったんですよね、あそこら辺の古墳。
もぐりだ(´・ω・`)



箸墓古墳が古墳の始まりというのは大方の研究者の一致した見解だと思います(ホケノ山などに関しては議論あり)。

大和盆地東南部の初期大和政権の大王墓の変遷としては、
箸墓古墳→西殿塚古墳→行燈山古墳→渋谷向山古墳
というのはほぼ異論なしの説なんですが、ここに桜井茶臼山とメスリ山を加えるかどうかで議論があります。

古墳が築かれた場所――箸墓古墳(単独)や大和・柳本古墳群からは離れた場所に立地。
墳形――2古墳とも前方部がまっすく延びる形態で、他の大王墓の形態とは異なっている。

位置関係はこんな感じです。
※古墳の大きさはイメージです(スケール関係なし)

実際に行かなくても、地図を見ただけでわかると思うんですが、桜井茶臼山とメスリ山は明らかに他の大王墓とは別地域にあります。
水系的にも違うのかな。そんなに大きな川ではないですが。いやそもそも当時もこの流路だかったのかどうか調べていないですが。

墳形もわかりやすい柄鏡なので、興味ある方は検索してみてください。「桜井茶臼山 墳丘測量図」とか「メスリ山 墳丘測量図」で出てくると思います。






そもそも「大王墓」とは?

その時期で一番大きな前方後円墳、だそうです(←詳しい人による)。




主要古墳の変遷図としては白石太一郎先生の変遷図が有名で、そこに研究者の自説や最新の調査結果を加えて改変したものがいくつも存在します。
ネットで「いいのないかなー?」っていろいろ見ていたら、大阪大学のサイトにわかりやすい白石図(改変版)が載っていました。
それを勝手に下敷きに使わせてもらい、ただの考古ファン・ひねもすまま説を加えた大和盆地東南部の前期古墳変遷図を作ってみました。
自他ともに認める珍説だと思うので引用転載厳禁でお願いします。


阪大図になかった大和古墳群萱生支群(マバカ、馬口山、ヒエ塚)も加えています。いちおう報告書なども見たんですが時期的にあっているのかどうかわかりません。いつものように「※イメージです」「※あくまで個人の感想です」程度の話でお願いします。もしかしたら「※個人の願望です」ってレベルかもしれません。

大王墓の流れはいじっていません(^^;)

変遷図を見ると、白石先生は箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山という流れを考えておられるようですね。


大和盆地東南部の大王墓の流れ(桜井茶臼山・メスリ山の立ち位置)に関して、いろんな先生方の説がまとめられた論文がありました(岸本2008)。
さらにそれにわたしが勝手に追加したものがこれです↓
岸本さんの表には岸本2008と東影2012はなかったので、わたしが加えました。
桜井茶臼山やメスリ山が他古墳の下に並置してある説に関しては、大王墓とみなさないということですよね。王権の流れは上の段、と。



わたしが最近話をした詳しい人も、白石先生と同じ説で大王墓6古墳という話でした。
変遷表で表現するとこういうこと↓
6古墳は時期的に重なっていないと。



地図で説明するとこんな感じです。




その一方で、王権は箸墓→西殿塚→行燈山→渋谷向山と移ったという説もあります。
桜井茶臼山とメスリ山は大王墓ではない、と。
変遷図で表すとこんな感じでしょうか。
桜井茶臼山もメスリ山も同時期にもっと大きな古墳(大王墓)が存在。
こうなると2古墳は王権内では「有力豪族」とか「大王の家族」という位置づけになるのでしょうか。
岸本さんは副葬品の軍事的色合いが濃いことから「王族将軍」という書き方をされています。

桜井茶臼山もメスリ山もただの豪族でないことはたしかでしょうね。墳丘の規模だけでなく埴輪も副葬品もすごいんで。


わたしには大王墓6古墳なのか大王墓4古墳+豪族2古墳なのかの判断はつかないので両説紹介しました。





桜井茶臼山とメスリ山に行ったので色塗りしました(*´▽`*)



※参考にした論文、発掘調査報告書は割愛

戦闘303の搭乗員たち@温泉2023年06月30日 16時40分46秒

温泉堪能中の搭乗員たち。
左から川東政己上飛曹(甲10)、岸本博春2飛曹(特乙2)、谷水さん。

この写真に書き込みはなかったのですが、これとは別の写真に同じ人物が川東さんと岸本さんである旨、記入されていました。

同じときに撮ったんだろうなという別の温泉写真には近藤政市少尉ほか長髪の人(大津留分隊長?)なども写っていて、階級関係なしで温泉を楽しんでいる様子がうかがえます。



霧島の林田温泉と書かれた写真があるので、これも同じところかも。