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文武天皇陵 高松塚古墳 中尾山古墳2023年06月13日 09時48分04秒

9日のレンタサイクル旅のつづきです。







束明神古墳から無事に生還を果たしたので、次の目的地へ。

再び近鉄吉野線を横断して東側の明日香村側へ行こうと思いました。
「岩屋山・・・・」
ちょっと北にのぼって寄り道すれば岩屋山古墳に行けたのですが、時間がないと思い、最短ルートで文武天皇陵を目ざしました。


つきあたりの坂の上に見えるのが文武天皇檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)。
考古学的には栗原塚穴古墳。




拝所。


夕方、畝傍陵墓監区事務所に寄って御陵印をいただいてきました。



が。
ちょっと複雑な気分です。
このあと発掘調査を経て真の文武天皇陵ではないかと言われている中尾山古墳に行こうとしている身としては、この陵はどんな気持ちで対すればよいのか。
もちろんお参りはしましたけど。
もし中尾山が文武天皇陵であったとしたら、ここに眠る人はいったい・・・・?

岡宮天皇陵と束明神古墳も同じです。
束明神が真の草壁皇子のお墓であったとしたら、岡宮天皇陵とは?
むずかしい問題です。





高松塚古墳。
今回は墳丘とか壁画とかではなく、たんに御墳印をもらいに立ち寄っただけです(壁画館)。




いままで高松塚=壁画という感じで、それ以外はあまり関心がなかったですが、牽牛子塚古墳に行ってからちょっと自分でも終末期古墳を調べてみて、墳形とか横口式石槨とか棺にも関心が沸きました。
あんなきれいな壁画があるとそれだけですごい人の古墳じゃないかと盛り上がりますが、古墳の格としては最上級というわけではないんですよね。
天皇陵クラスの古墳で石槨内部壁面がきれいに残っていたものはなさそうですが、高松塚やキトラクラスであれなら、天皇陵クラスも何かアッと驚くような壁画が描かれていたかも知れないと思わないでもない。
いや、壁画のことはちゃんと調べていないので、壁画古墳が古墳の格なのか、被葬者の特性なのかそこらへんはわたしはわからないまま発言しています(^^;)


次の目的地。
高松塚から遠くないけど別丘陵上の中尾山古墳。
道案内がちゃんとしてあったので坂道をくねくねと下ったり上ったりしながら迷わず行けました。
西から接近したらこんな感じで木々に囲まれていました。
モミジみたいだったので、秋に来たらきれいかも。
しかし、自転車で走っているとクモの巣が・・・・(^^;)

ここは発掘調査済みです。
八角形墳。
埋葬施設は横口式石槨で(下の案内図参照)、サイズから棺ではなく蔵骨器(火葬)があったのではないかということです。



こちらが本当の文武天皇陵では?といわれています。

では、さっきお参りした文武天皇陵は?
古墳だとしたらどなたか別の方が葬られているということになります。
立派な拝所がありみだりに立ち入れないように周囲に柵もあります。つねにお掃除もされて清浄な雰囲気でした。

そして中尾山古墳。
もしかしたら文武天皇の御陵かもしれないのにわたしなんでもけっこう近くまで接近できます。
散策ルートからそれているので誰も来ないようなちと淋し気な場所でした。高松塚周辺はにぎわっていましたけどねー。
いや、逆にこういう静かな場所の方が眠りにつく場所としてはよいのかもしれませんが。



上にも書きましたが、そういう意味では束明神古墳もまったく同じ気持ちになりました。
束明神古墳、いまはこんな感じですが、研究書(『束明神古墳の研究』)に出ている発掘当時の写真を見たらビックリするような立派な石槨でした。切り石を積み上げて家形に作ってるんです。
草壁皇子のお墓と言われたら、なるほど、って感じ。
そう、あとで知ったのですが、束明神の復元石槨が橿考研の博物館にあるみたいなんですよねー。屋外だったみたいでまったく気づいていなくて見ていませんorz また行くか。
先に調べてから行けばいいのに、行ってから本格的に調べるから二度手間三度手間はいつものことです( ;∀;)


束明神も中尾山も築造当時はいまの牽牛子塚みたいな眺望の場所だったのかもしれないなあと思いながら・・・・。


つづく

野口王墓古墳 石舞台古墳2023年06月13日 13時53分58秒









檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)
宮内庁の治定も、専門家の意見も一致している天武天皇・持統天皇の合葬陵です。
考古学的には野口王墓古墳。

八角形墳。
鎌倉時代に盗掘されたときの記録が残っていて、横口式石槨の様子や棺・蔵骨器の様子などが判明しています。
天武天皇が夾紵棺、持統天皇は火葬されて蔵骨器だったそうです。

現代だと夫婦が同じお墓に入ることには何の違和感もないと思いますが、古代(弥生時代、古墳時代含む)は基本的に夫婦は同じお墓に入らなかったようです。
例外はありますよ。ただ、その例外も「夫婦愛」みたいな話ではなさそう。
同じお墓に入るのは基本的には”血縁”みたいです。
天武天皇と持統天皇は夫婦であると同時におじ・姪でもあるので、そういう意味では血縁の合葬ですかね。


高松塚の近くで、キトラ古墳・四神の館のクリアファイルを手に持った女性が歩いていました。
「あ、この人、歩いてまわってはるんや」
と思って気にとめた人なんですが、ここでも遭遇しました。
キトラ古墳からここまで歩くとなるとけっこうな距離です。やりますな~(;・∀・)





拝所前から南方を望む。


正確さに欠けますが、こんな状態でしょうか。






没年順で言うと、斉明天皇→天武天皇→草壁皇子→持統天皇→文武天皇になるので、持統天皇は生前、この場所から息子の草壁皇子、祖母の斉明天皇の陵を見ることができたかもしれないですね。
(牽牛子塚古墳の展望所にあった解説画像では、あちらからは天武・持統陵が見えるように書かれていました)




次は石舞台古墳。

今回は御墳印をもらいに行っただけです。
写真も撮っていなかったです(^^;)

ちなみに明日香の御墳印は1枚300円です。
ここは方墳で巨石横穴式石室、蘇我馬子のお墓と言われています。
どうなんでしょうね。




というわけで、今回は斉明天皇ファミリー――息子の天武天皇、孫の持統天皇、二人の息子の草壁皇子(斉明天皇からみたら孫であり曾孫でもある)、草壁皇子の息子の文武天皇の陵墓をまわってきました。

ここまでで午前中終了。
まだまだ続きますよ。



つづく。