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乙5期 大林行雄さん 冠谷悟さん2022年06月19日 21時42分22秒

浅川さんの写真です。

15空時代の写真の中に、乙5の大林行雄さんと冠谷悟さんの写真がありました。
おふたりとも艦攻操縦員です。

九江。
左が大林さん、右が冠谷さん。
おふたりとも軍刀を手に、救命胴衣に拳銃を差し込んでいます。
機番号は、10-37?
最後の数字は右上がカーブの数字。なんだろう?

この写真、おもしろいです。
大林さんは旧型の飛行眼鏡、冠谷さんは新型の飛行眼鏡を装着しています。
実施部隊ではちょうど入れ替わりの時期だったんでしょうか。
今度、15空飛行眼鏡特集でもしましょうかね(時期の幅がありますが)。



我ガ三番機操縦員大林氏
だそうです。

この写真、いいですね。
97艦攻の胴体がお尻から鼻先まで写っていますし、胴体の下の地面に爆弾(60キロ?)が置いてあるのも見えます。
出撃準備中ですかね。



こちらは冠谷さん。
冠谷さんが座っているのは、なななんと爆弾!?(;゚Д゚)
これまた出撃準備中でしょうか。
軍刀を持っていますが、一番上の写真で冠谷さんが手にしている軍刀とは別物のような気がします(柄の長さが違う?)
どっちかというと、大林さんが持っている軍刀に似ているような? これと同じような軍刀(柄に白布巻き)を持っている浅川さんの写真もあります。
同じものなのか、似ているだけなのかはわかりません。
もし同じものだとしたら、「撮影用」に用意してあったりしたんでしょうか。それともどなたかの持ち物を「貸して」「貸して」と借りて撮影に臨んでいたのでしょうか。




おふたりとも15空開隊時の集合写真には写っていません。
たぶんアレ、13年6月末か7月初ぐらいじゃないかと思うのですが、おふたりが飛練を卒業したのが13年3月15日らしく(15空搭乗員名簿、アジ歴)、それから実用機の延長教育をやっていると思われるので、15空途中で合流されたのでしょうね。
乙5の方、15空搭乗員名簿によるとあと3人いらっしゃるようなのですが(児子力さん、橋本富吉さん、角崎良次さん)、3人のお名前が書かれた写真はありませんでした。
お名前がないだけでどこかに写っているのかな?




13年11月明治節の集合写真。
大林さん。

冠谷さん。




冠谷さんは戦後ご健在だったようです。



大林さんは、練習航空隊で教員をされたのち、飛龍。


17年6月5日  飛龍  ミッドウェー


先日紹介した赤松作特務少尉(友永丈市大尉偵察員)と同じです。
艦攻隊2度目の攻撃で還らぬ人に。

原田要さん(操35、戦闘機)の『零戦 老兵の回想』(桜の花出版)、
『わたしは自分の母艦である蒼龍がやられてしまったので、唯一健在であった飛龍に着艦しました。ところが、またもや被弾が激しく、零戦は即座に海に捨てられました。

とうとう乗る戦闘機がなくなってしまった私は、艦橋で飛行機の発艦と着艦を手伝いました。その時、ちょうど敵機動部隊攻撃に飛び立つ友永丈市大尉を見送る場面に遭遇しました。その攻撃隊の中には、私と同年兵の大林君もいました。私の姿を見つけた大林君が別れを告げに来ました。「俺は行く。もう帰らないと思う」と、血の気がなく、諦めたような表情でした。
友永大尉ら攻撃隊が発艦した後、整備の人が「友永機は燃料タンクに被弾して、片道燃料しか積まずに出て行った」と話しているのを耳にしました。片道燃料ということは、生きて帰る望みは無い訳ですから、ある意味これが特攻の先駆けではないかと思います。大林君も帰ってきませんでした』
※原田さん8年兵、大林さん乙5(9年入隊)なので同年兵ではないそう(Kさんご教示)


原田さんは長野の出身の戦闘機乗り、大林さんは香川の出身で艦攻操縦員。
どこでご一緒だったのだろうか?




以前、香川県の乙飛生ご遺族の方が送ってくださった田村神社の海軍少年飛行兵の碑。
大林さんのお名前もあります(最下段右端)。


※画像は乙飛生ご遺族、浅川さんご家族ご提供。Kさんご教示。