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操練28期 渡辺晃さん2022年03月19日 14時20分37秒

浅川さんの加賀・15空時代の写真に、
「えっ!? あの人がっ!?」
って人が写っていました。

海軍の有名人というか、海軍航空隊の至宝的搭乗員です。

源田実さんの『海軍航空隊始末記』(文春文庫)によると、従来3000メートル付近からの水平爆撃の精度が10%、あるいはそれを切るぐらいだったのが真珠湾の少し前(16年になったころか?)には劇的に改善したんだとか。
それには布留川泉大尉の貢献が大きかったらしいです。

『四月下旬、赤城が南九州の訓練地に向って回航する途中、標的艦摂津に対して爆撃演習が行われ、その第一回目に九機編隊の赤城艦攻隊は三〇〇〇メートルの高度から摂津を攻撃して九発のうち四発の直撃弾を得た。第一回目の報告を聞いた時、「まぐれ当り」と私は思ったが、同日中に、第二、第三回の爆撃を実施して、そのいずれもが三発ないし五発の命中弾をえたるのみならず、・・・・

―――(中略)―――

「一体どこにこの原因があるのだ」
私は布留川大尉に聞いてみた。
「最大の要素は操縦者です。従来は、爆撃は爆撃照準手がやるもので操縦者は単に車引きの範囲を出ていないという考えでした。これではほんとに良い爆撃は出来ないのです。操縦者の操縦法が精密爆撃の成績を左右する大きな要素であることが判りました」
布留川大尉が引連れて共に赤城に乗込んで来た渡辺一飛曹は、彼の飛行機の整備は決して整備員委せにすることなく自分で主要な点を実施した。殊に操縦装置において然りである。操縦索の張り工合など自分で自分の気に入るように調整し、一度その調整が終わったならば他人がこれに触ることを厳に警戒した。燃料の消費に伴って生ずる飛行機の釣合安定度の変化に関しても、どのタンクがどれだけ減れば、操縦にどう影響するかというようなことを、精密且詳細に検討して爆撃操縦に適用した。自分自身の精神的肉体的調整に留意したことはもちろんである』

何年も前に読んだこの箇所、ひどく感動したことを覚えています。
プロ意識というか、自分の責任に対する姿勢とか。
ここに出てくる「渡辺一飛曹」、この人が浅川さんの写真にたくさん写っていました。


浅川さんの写真に「渡辺晃さん」という人が何枚も写っていることは気づいていましたが、まさかこの人が赤城嚮導機のあの渡辺さんだということにわたしは全然気づいていなくて、いつものことなのですが、Kさんに指摘されて気づいたのでした。

『艦船模型スペシャル』2022春号に掲載された、浅川さんの加賀時代のこの集合写真。
ここで紹介しようと思って、
「写っているのはどなたかなー?」
と探っていました。
どうしても自分で納得できない部分があり(メンバー的に写っていてもおかしくない渡辺晃3飛曹が最初どこにいるのかわからなかった)、「ぜったいに写っているはず」といろいろ見ている過程でKさんにもお助けを求めました。懸案は無事に解決でき、更にKさんから、
「渡辺晃3飛曹は真珠湾時の赤城の水平爆撃隊の嚮導機、渡辺・阿曽(弥之助)コンビの渡辺さんですよ」
と指摘をいただき、
「あっー! ホンマや!」
とようやく気づいたわけです。



古い順に。
兵のペンネントが「大日本軍艦加賀」。
背景は皇居の二重橋。右端にガイドさんらしき女性も写っています。
これもそのうち紹介しようと思っていますが、下士官の中には浅川さんはじめ、同じ艦攻分隊の面々が。記名はありませんが、何名かお顔でわかる人がいます。

この写真も最初、渡辺さんはいないと思っていたのですが、どうも、前列中央チョイ左でしゃがみこんでいる兵の人↓っぽい。
軍帽のかぶり方を見ると、のちの精密機械のようなイメージの渡辺さんではなく、そこらへんのあんちゃんみたいです。 ※イメージです

誰一人階級章や善行章がはっきり見えないのでわたしの想像ですが、13年の2月3月ぐらいかな?
手袋をしている人がいるので、相当寒いのかな?
渡辺さんも手袋をしています。




最初に出した加賀の集合写真の渡辺さん。
いました。
最初、違う人と取り違えていました。
あの写真を照合するのに、当時の加賀艦攻隊の編制表を穴があくぐらい見て、おおよそ「このメンバーだろう」と推定できたのですが、そのメンバーに入っているはずの渡辺さんがいない!と自分の中で大騒ぎ。
「おかしい、そんなはずはない。写っているのでは?」
確実に渡辺さんであるという写真(浅川さんの写真の中に記名入りがあった)を集めて見比べて、ようやくこの渡辺さんを見つけることができました。
13年初夏。


たぶん上の写真と同じときに撮られたと思われる飛行機隊の総員集合写真の渡辺さん。




15空編成時に撮られたと思われる分隊集合写真。
加賀の同じ分隊からそのままスライドしている人が多いです。
13年6月かな?

軍帽のかぶり方はやっぱりあんちゃんっぽい(笑) ※イメージです

この写真、同じ写真がアジ歴に記名入りで出ています。
ただ、写真も文字もぼやぼやしていて判読(判別)困難です(渡辺さんはちゃんと「渡辺」と読める状態です)。
浅川さんの残した十五空アルバム(印刷物)に分隊ごとの名簿が掲載されているので、それを参考にしながら他の人たちは照合しました。整備の人も写っています。


15空時代。
これはみなさんの格好から夏かなと思います。
後ろは飛行場の指揮所か搭乗員待機所っぽい。

ぼんやりしていてわかりにくいですが、後列左端が渡辺さんに似ている気がします。
帽子をかぶっていますが、かぶっているというか乗っけているだけというか。
いつもの渡辺さんだなあ、という感じです。 ※イメージです

首に紐をかけていて何かをつるしています。何をつっているのか? ちょうど前の人の頭で見えません。
15空の飛行服の人たちの写真に、拳銃を携帯しているものが何枚かあるのですが、渡辺さんの場合、ちょっと見えている部分からは拳銃ではないように思います。



15空時代。
たぶん浅川さんのmyカメラで撮られたもの。
「九江市街ニ於テ  馬場(左) (注記なし 中) 渡辺(右)」
時期は不明ですが、1種なのでまあそんな時期なのでしょうね。

やっぱり軍帽のかぶり方があんちゃん。 ※
ちなみに、きちんとかぶっている左端の人は浅川さんの予科練同期生・馬場常一さん(偵)です。
浅川さんも馬場さんも軍帽はきちんとかぶる派です。

渡辺さんが右手の人差し指に包帯を巻いているのがちょっと気になります。
この頃から整備は自分でやる派で、飛行機をいじっていて怪我したのでしょうかね。まさかバレーボールでつきゆ・・・・・、いや、まさか。

残念ながら真ん中の人は現時点でどなたか不明です。
15空の13年11月集合写真(↓次の写真)に写っているのですが、編成時の記名入り写真にはいないようにあります。
今後の課題ということで。



13年11月明治節の分隊集合写真(十五空アルバムの総員集合写真に撮影時期が書いてありました。服装などから同日撮影と判断)。

やっぱり帽子があんちゃんぽい渡辺さん。 ※


15空艦攻隊が解隊したあとは赤城に転勤されたようです(アジ歴の搭乗員略歴)。
これが13年の年末です。
そこから3年、源田実参謀も感嘆するほどの水平爆撃の神業操縦員に成長されていた渡辺さん。
あの文章でとんでもなく神経質で謹直な人なのだろうと思っていたのですが、浅川さんの写真の渡辺さんはあんちゃんみたいでちょっと雑な、ものにこだわらない雰囲気さえあります。
更なる妄言を許してもらうとしたら、ちょいかわいい感じすらしますよね。しかし、じつは浅川さんより年上です。







真珠湾攻撃総隊長の淵田美津雄さん(赤城・水平爆撃隊隊長)の手記『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(中田整一編 講談社)

(真珠湾上空でいよいよ爆撃開始)
『松崎大尉が声をかけて来た。
「隊長、爆撃嚮導機を前に出します」
「ヨーシ」
爆撃嚮導機は二番機の位置についていた。操縦者は渡辺晃一等飛行兵曹で、爆撃手は阿曽弥之助一等飛行兵曹で、二人は名コンビで、艦隊の爆撃戦技ではいつも群を抜くエキスパートであった。
松崎大尉がチョイと合図した。渡辺兵曹がうなずいた。一番機が高度をチョイと上げる。二番機がツーと前に出て一番機の位置につく。すると一番機がチョイと高度を下げて二番機の位置につく。こうして爆撃嚮導機の誘導の下に爆撃コースに入った。爆撃手阿曽兵曹のだるまサンのような顔が、風防を通して見える。私と目が合ったので、彼はニッコリと敬礼した。私は手を上げて「しっかりやれよ」と合図した。すると彼は「まかせといて」とうなずいた』

『やがて、目標に近づいて来た。嚮導機の針路修正は、いよいよこまかくなって来た。針一本右といった調子である。もう間もなく爆弾投下だと、私は投下把柄を握って、一心に嚮導機の爆弾を見つめる。嚮導機の爆弾が機体を離れるのを見た瞬間に、後続四機は、一斉に投下するのである。
しかし見つめていると、嚮導機は、チョイチョイとバンクした。やり直しである。私はやれやれと思った。またあの弾幕をくぐらねばならんからである。しかし、あとで阿曽兵曹の話したところでは、もうチョイというところで、断雲に遮られて、照準をミスしたのであった。折角、真珠湾上空まで運んできた爆弾を、あたらないのを承知で落す奴はない。満星の照準が出来ないで、三度もやり直した中隊もあった』

『私は爆撃嚮導機に手先信号を送った。
「四番目内側のメリーランドを狙え」
阿曽兵曹はうなずいた』

二度め。
『目標はメリーランド、やがて嚮導機から「投下用意」の信号が来た。息を呑んで投下把柄を握って待ち構える。「投下」、嚮導機の爆弾がフワリと落ちるのを見て、私は投下把柄を引っ張った。そして急いで座席に寝そべって、下方の窓から、爆弾の行方を見守った。徹甲爆弾四発は、鼻づらを揃えて伸びて行く。世に、いま落した爆弾が、あたるか、あたらないかを見守るほどのスリルはない。やがて伸びてゆく爆弾の直線上に、メリーランドが近寄って来る。爆弾は次第に小さくなって、またたきすれば見失う。目を凝らしながら、息を呑む。ぞくぞくするスリルである。やがて爆弾はけし粒ほどとなったと見た瞬間、メリーランドの甲板にパッパッと二つの白煙が立った。
「二弾命中」
徹甲爆弾は、装甲甲板を貫徹して、艦底で炸裂するように、〇・五秒の遅動信管を装備してあるので、上甲板に命中した瞬間には、パッと白煙が上がる程度であった』

淵田さん目線の嚮導機の姿――あれを渡辺さんが操縦していると思うと感慨深いです。もうあんちゃんなんて言いません。

ちなみに淵田機を操縦している松崎大尉は、真珠湾攻撃80年BS1スペシャル「生きて 愛して、そして」で、可愛い妻へ、と奥さんに手紙を書き送っていた松崎三男大尉です。




真珠湾の後、いったん内地に戻ってラバウル攻撃、ポートダーウィン攻撃、チラチャップ攻撃、印度洋・・・・。
ミッドウェイのときも赤城にいたと思うのですが、詳細不明です。
同じ赤城艦攻隊だった松田憲雄さんの手記を読んで、
「渡辺さんも同じような状況だったのだろうな」
と想像するのみです。

その後、しばらく前線から離れていたように思います。

いつの間にか中攻の操縦員になっていて、19年4月の701空(幌筵)の行動調書に渡辺晃飛曹長のお名前が出てきてビックリ。
13年当時の加賀の艦攻操縦員の写真に写っている中で、浅川さん、渡辺さん、西さん、少なくとも3人が中攻に機種転換されたよう(いずれちゃんと紹介したい)。


その後、またまたいつの間にか機種転換されていて、19年の10月には銀河の操縦員になっていました。


19年10月  攻撃501飛行隊  台湾沖航空戦


渡辺さん、戦死日がわからないんですよ・・・・。

わからない、というのは、わたしが「わからない」という意味合いが強いです。

13日か14日らしいのですが、どちらかなのか?

Yさんにご教示いただいた攻撃501飛行隊の戦闘詳報によると14日になっています。
けっこうはっきり、疑いをさしはさむ余地なく「14日」になっています。
なのにどうして13日説があるのか?

いちおう(←わたしに理由がわかるかどうかわからないけれども)検討してみました。




K501の19年10月12日~16日の搭乗員です。
本当は中隊・区隊をちゃんと表記した方がいいんですが、搭乗員の動きを見たくて作った表なので動きがわかる程度の表になっています。

当初銀河31機で動き始め、この間、補充なしで消耗していく様子がわかるかと思います。

上の表も、下の図も、自分が渡辺さんの動きを整理するために作ったものなので、他人には非常にわかりにくいものかもしれません。スイマセン。
あと、相手の米側のことはまったく調べていません(語学能力的事情)。
粗ばかりだと思うので、転載禁止でお願います。

12日、鹿屋から出撃
渡辺さん、米夜戦と交戦して電信員・長澤尚上飛曹が機上戦死しています。


13日、鹿屋帰艦組には入らず台南残留。




14日、台南から出撃。未帰還。


特別根拠もなく「搭乗員は機に固定」という前提で機番号を振っています(便宜上)。
戦闘詳報には基本、損失機の機番号しか書かれていません。最終的に損失機になってしまって機番号がわかるものがあるので、「固定」という前提で機番号を振っています。この間の戦闘で損失機にならず機番号がわからないものは機長名で表示しています。

ただ、「固定」という前提とはいえ、実際は若干搭乗員の入れ替えがあります。
たとえば・・・・
隊長・丸山宰平少佐(操縦)の機が、台南空不時着時に大破し使用不能になったようです。
そこで、翌日、自分の偵察員(加藤正一中尉)と電信員(奈良宏上飛曹)を台南に残し、代わりに機体無事だった平山繁樹上飛曹機(14日出撃時の丸山少佐搭乗機のO-35機ではないかと推測)の操縦員(藤井鎮上飛曹)を降ろしてその機の偵察員(平山上飛曹)と電信員(中村博信上飛曹)を乗せて鹿屋に戻っているんですよね。
なぜ、自分の偵察員と電信を連れて帰らずに平山さんと中村さんを連れて帰ったのだろう?とずっと考えています。平山さんの最期に関わることなので。
想像なんですが、自分が鹿屋に戻った後の台南に、加藤正一中尉を指揮官として残しておく必要があったのだろうか?ぐらいしか思いつかないんですよね・・・・。
ただ、加藤正一中尉と奈良上飛曹は14日に渡辺さん操縦機で出撃しているので、もし平山さんたちが台南残留組になったとしても渡辺機で出撃――ということになっていたのかな。

いや、そもそもなぜ可動全機で鹿屋に帰らなかったのか、という疑問もあるわけですが・・・・。
台南の方が戦場に近いからか。

ちなみに阿部芳包上飛曹(9期)も12日の攻撃に参加していますが、高雄不時着時に魚雷誘爆炎上、搭乗員無事、でその後、身動き取れずになっているようです。
ドーリットルのときも書いたのですが、魚雷抱いたまま夜間着陸させるってふつうなんですかね?




表やら図やら作ってみて、結局、14日出撃に矛盾はないのではないか?
13日に、鹿屋発進の6機に呼応して台南から出撃した可能性もなくはないのかもしれませんが、戦闘詳報に書かれている通り14日ではないのかな?

結局、よくわからなくてスイマセン。


※画像は浅川さんご家族ご提供。Kさん、Yさん、ご教示感謝

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