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偵練35期 金井昇さん2021年12月22日 23時17分55秒

14年前、ブログを始めた直後に書いた記事再掲。


『大正8年5月10日、長野県生まれ。
昭和9年6月、横須賀海兵団入団、通信兵を経て昭和11年10月、35期偵察術練習生。12年7月、首席で卒業。
館山、大村航空隊、「蒼龍」、横須賀航空隊、特修科練習生爆撃課程、「赤城」、「蒼龍」・・・・
というところがかれの経歴です。

「水平爆撃の名手」「機動部隊の至宝的搭乗員」「艦隊随一」「蒼龍飛行機隊の象徴」「日本海空軍第一人者」「名人」「海軍の至宝」・・・・かれのことを褒め称えることばを拾っていったらきりがないぐらいいくらでも出てきます。
かれは編隊の水平爆撃の照準を一手に任されている「嚮導機」の爆撃照準手です(九七艦攻)。高度3000㍍ほどのところから、地上の施設や海上の艦船めがけて爆弾を落とすのです。(B29のように雨霰のごとく無差別に落とすのとは違い、1個~数個の爆弾を目標を決めて落とすのですから至難の業です)
「蒼龍」では操縦・佐藤治尾飛曹長とコンビを組み、上に挙げたような賛辞を一身に集めたのです。その爆撃命中率の高さから、山本五十六連合艦隊司令長官や南雲忠一中将から賞状や短剣を授与されたという話もあります。

かれの一世一代の舞台は真珠湾攻撃でした。
真珠湾に向かう蒼龍の格納庫では、四六時中飛行服を身にまとい、愛機の偵察席で爆撃照準の訓練に取り組む彼の姿が目撃されています。(「赤城」水平爆撃隊の嚮導機・渡辺-阿曾コンビのエピソードとして、源田実参謀が「操縦索の張り工合など自分で自分の気に入るように調整し、一度その調整が終わったならば他人がこれに触れることを厳に警戒した。燃料の消費に伴って生ずる飛行機の釣合安定度の変化に関しても、どのタンクがどれだけ減れば、操縦にそう影響するかというようなことを精密且詳細に検討して爆撃操縦に適用した」と述べています)
それだけの成績を残すのは、天性のものだけではなく、不断の努力や研究があったということです。

佐藤-金井コンビは真珠湾でも敵主力艦2隻に命中弾を与える殊勲を挙げました。
『(前略)・・・・全精神を目標に集中して居るので、付近で炸裂する高角砲の音も耳に入らず、目標以外の何物も目に入らず無念無想だた狙って居る。目標のみ目と心に映ず、此の時既に命中の自信を得たり。
今度は絶対に大丈夫と前席に伝え、確信と余裕を以て更に懸命の保針を『頼みます』、心で伝う、以心伝心二人の心は一つになって居るからすぐ通ずる・・・・(後略)』(金井日記)

真珠湾攻撃を終えた機動部隊は12月23日には日本に凱旋帰国する予定でした。
ところが、「蒼龍」「飛龍」の2隻だけが帰途ウエーク島攻撃を命じられ、機動部隊とは別行動になります。
12月22日、真珠湾攻撃から2週間後・・・・。
この日も水平爆撃の嚮導機として出撃した佐藤-金井コンビは、ウエーク島上空で指揮官機と入れ替わった途端、上空の雲間から指揮官機めがけて降ってきた敵戦闘機に銃撃されてしまいます。
おそらく操縦・佐藤飛曹長が被弾したのでしょう。真っ赤に染まった風防の中から、金井兵曹は隊長に向かって笑顔を見せ、手を振りながら海に落ちていったということです。


参考文献:森史朗『運命の夜明け 真珠湾攻撃 全真相』、源田實『海軍航空隊始末記』、押尾一彦・野原茂『日本陸海軍航空英雄列伝』、森拾三・大多和達也手記』






この投稿をした後、『航空母艦蒼龍の記録』に掲載されている金井兵曹の日記も見ることができました。
真珠湾前日、12月7日の日記です。(掲載日記は送り仮名はカタカナ)
『―略―

 晴れの攻撃、皇国の興廃を決する重大なる攻撃を前にして、準備は既に十二分に整いたり。即ち、今迄航海中は毎日布哇(ハワイ)攻略に対する、研究会が搭乗員室において開かれ、われわれ搭乗員は普通の演習より以上に、攻撃について種々知り得て今や何事の不安も疑心もない。

 既に諜報等により敵艦の碇泊位置、数、艦名まで知り得たので、他方又自分個人としての心構え、職務に対する為し得る限りの準備も十分終わり我が愛機の座席には八幡宮のお札を安置し、単冠(ヒトカップ)湾出港以来毎日拝しつつ、「鴻毛の軽き我が身はいかになりますとも必ず投下する爆弾が是が非でも命中させてください」、必ず真心こめてお祈りした。

 飛行長も「長い間飛行出来ないので勘が狂いはしないか」と非常に心配して居られた。飛行長にいわれるまでもなく、これは自分が一番気掛かりになって居る事柄である。

 仕方が無いので幾分の足しになると信じて、毎日座席内に入り照準器を覗く事にした。なるべく実感の出る様にと思って飛行服を着け、伝声管を着け、空中で照準するときの気持になって照準投下の練習をした。馬鹿らしいようにも見えるが真剣だ。

 艦内で出来得る事はその他すべてやった。為し得る事はいかに小さい事といえども皆終わったはずだ。自分は尽くすべきを完全に尽くしたのだ、これ以上いかんとも為し得ざるのだとの確信あり。あとは明日最善を尽くしてやるのみなり。

 ―略―』






金沢秀利さん(乙8、真珠湾時飛龍艦攻電信員)がご自身の手記『空母雷撃隊』(光人社NF文庫)に金井さんのことを書いています。

開戦前、金沢さんは爆撃訓練のために横須賀基地に行きました。そこには、飛龍だけでなく、蒼龍、赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴の爆撃機代表も揃っていました。
ちょっと引用。

『金井上飛曹(このころは「上飛曹」ではなく「1飛曹」)は、特修科爆撃同期生中、爆撃技術成績は断然優秀であるばかりでなく、作業の余暇には、読経三昧にふけり、酒杯を手にせず、大言壮語することもなかった。また、訓練中使用する三十キロ演習弾の運搬は主として電信員の役で、偵察員はほとんど休養し、飛行場に弾が来てから、ちょっと手伝う程度が普通であるのに、運搬も弾作りも、投下器に取り付けることもやり、喜怒哀楽の表情を見せない人であった。しかも、柔和な仏像を思わせる―いってみれば、匂うがごとき美男子であった』




技倆だけでなく、人格的にも素晴らしい人であったのは間違いないです。












島田さんの遺品の中に蒼龍艦攻隊宴会写真を見つけたときから、
「この中に金井さんもいるんだよな?」
とは思っていました。


ずいぶん前に知人から見せてもらっていた海兵団時代の金井さんの写真(ジョンベラ)や、『日本陸海軍英雄列伝』に掲載されている金井さんの飛行服写真を見ながら、どこだどこだ?と探していたのですが、わかりませんでした。



先日、BS1スペシャルの『生きて 愛して、そして』の中に金井さんのご実家訪問シーンがあり、お仏壇に飾られたが下士官時代の遺影が映し出されました。

あの写真を見て、ようやく「これが金井さんか!?」と。
トリミングした真ん中の人。
これ、金井さんですよね。

宴会写真でいうと、最前列の左端の方です。
両隣の人はどなたか不明ですが、左は兵、右は下士官ですね。両腕をかれらの肩にまわして上機嫌のように見えます。

金沢さんの回想が本当なら、金井さんはお酒を飲まないということなので、この日ももしかしたらしらふで上機嫌にしているのかも。
「喜怒哀楽の表情を見せない人」なんてことはないですね。笑顔はふつうの青年です。



金井さんの最期は、目の前で目撃してしまった島田さんの日記の記述が一番近いのかなあ、といまは思っています。


※画像は9期生ご遺族ご提供