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乙9期 隅倉慧さん2021年10月12日 21時01分00秒

2015年の夏、それまでわからなかった9期生のお顔と氏名が一気に解決したのは、隅倉さんが残されていた氏名入り班写真のおかげでした。

隅倉さんは数少ない9期の生存者のおひとりです。

入手した住所にダメもとで手紙を出してみたところ、ふだんそこに住まわれていない息子さんがたまたま行かれてわたしの手紙を見つけてくださったようで。
連絡をくださいました。

残念ながらその時点で隅倉さんは亡くなられていたのですが、息子さんがいろいろよくしてくださってアルバム類を見せてくださったほか、9月には島田直さんのご遺族の方も紹介していただき、墓参にも連れて行ってくださいました。熊本の名所も案内してもらいました。当時はまだ熊本地震前で、熊本城でお月見のお茶会にも参加。


その後、土浦の予科練慰霊祭にも来てくださいました。







隅倉さんのアルバム、氏名入り班写真以外にも興味深い写真がたくさんです。

同期生の個人写真以外にも、実施部隊時代の戦友の個人写真もたくさん貼られています。
9期の方は見ただけでどなたかわかるのですが、実施部隊時代の戦友の方々は「〇〇兵曹」という書き込みだけではわたしにはどなたなのかさっぱりわからないんですよね。紹介したいのですが・・・・。行動調書を見ても姓しか書かれておらず。かろうじて階級がわかったぐらいです。
ちょっとだけ、Kさんご教示でどなたか判明した人がいるのでまた紹介させていただこうと思っています。



今日は隅倉さんご本人。

すみくらさとしさん。

熊本県出身、偵察、水上機。

鎮海空、第11特別根拠地隊、936空、312空、横須賀空。


予科練1学年時。横須賀。
一緒に写っているのは7期の西義武さん。
西さんの階級(1空)から察して、8月15日は卒業式当日でしょう。


これは霞ヶ浦海軍航空隊時代。
14年6月の操偵適性検査。

これも同じく操偵適性検査。班写真。2班。
一種軍装の下士官は予科練の教班長(引率)と思われます。


14年夏。
熊本県民の集い。8期生卒業に際しての送別会のようです。



ペンネントは霞ヶ浦海軍航空隊。
14年12月29日。
前列左と真ん中が12期の田島忠盛さんと吉永博行さんのようです(どちらがどちらなのか不明)。右端は10期の古本克己さん(582空)。
後列左が隅倉さんで右が島田直さん。



想像ですが、習志野演習かな?
ピンボケしていますが、この写真、何がおもしろいって、書き込みによると「林教員」が撮ってくれた写真なんだとか。

「林教員」、島田さんの日記に名前が出てきた林正義教員のことかもしれません。
撮影者がわかる写真ってなかなかないのでおもしろいです。


これは2学年時の班解散会。
これも島田さんの日記に記述がありました。15年6月2日。
前の学年時の班のみなであつまってワイワイやっているところです。




このタイプの写真、偵察専修生だけあります。
3学年時の班の一部かな?
しゃがんでいるのが本間秀人さん。後ろに立っている左から谷村博明さん、植松繁さん、高橋兼春さん、隅倉さん、国本力さん。




1空の階級章をつけています。
善行章はないかな?
小船井写真館の刻印があるので、予科練3学年時(15年)の夏か。




これは鈴鹿の飛練時代。二見の夫婦岩。
一緒に写っているのは同郷の島田直さん。
善行章もついているし、16年の6、7月。




これは特技章が見えないので、もしかしたら任官記念(16年10月1日)かも。
飛練博多時代。



ここからは実施部隊時代。
飛練卒業後すぐ配属された鎮海空時代。



隅倉さんの階級章から17年の夏でしょう。


17年秋のシンガポール。


隅倉さんがどこにいるのかわからんのですが、演芸会の出し物っぽいです。

手拭いをかぶって浴衣着てザルを持っている人がいます。ドジョウすくい?



これは前線の基地かなあ?



これも前線の雰囲気ですね。
搭乗員整列。出撃前か後かわかりませんが。
背後に水上機が写っています。






南方の基地のようです。

隅倉さん、首輪のついたおサルさんを抱っこしています。
隊のペットでしょうか。



18年、936空時代。



20年8月25日 熱海にて
終戦直後です。
兵曹長の階級章をつけています。


9期生は戦没者も多く出しましたが、生き残った人たちもほとんどの人がどこかしら怪我をしていました。
本間猛さんが手記(『予科練の空』)に、
『クラスの飛行練習生卒業者は百九十一名、そのうち戦死者百六十七名をかぞえ、その戦死率は八十七パーセントあまりである。クラスの生存者二十余名も、そのほとんどが戦傷病を受けて、そのために生き残り得たのである。したがって、全戦期を通じて戦傷病にもかかわらず、五体満足で生還し得た者は百九十一名中、三、四名に過ぎない。私は幸いにも、奇蹟的に五体満足で生き残り得た数名の中の一人である』
と書いていますが、隅倉さんもそのおひとりのようです。

途中で兵役免除になっていたら病気だとか怪我だとかわかるときがあるのですが、逆に終戦まで戦われた方は怪我や病気をされたのかされなかったのか、わたしではなかなか把握困難です。
隅倉さんは息子さんが教えてくださったのでわかりました。
あと、もうおひとり、石田さんの息子さんが戦後に会われたことがある9期生存者の方は戦闘で大けがをされていたとのことでした。



隅倉さんの軍服。
士官の二種。
9期の方が実際に着ていた軍服って、初めて見ました。感無量です。




戦後は戦友会にも熱心に参加されていたようで、その際の写真もたくさん見せてもらっています。

二十歳前後の写真はしっかり把握できているはずなのですが、ぶっちゃけおじさんになった9期生は「これ・・・・どなただっ!?」って人が(^^;)
逆に全然変わっていない人もいるんですけどね。隅倉さんは変わっていなかったです。


息子さんは、熊本で9期会があったときに集合場所の護国神社まで慧さんを送って行き、そこで9期の方々と会われたことがあるそうです。
熊本に行った際は、その護国神社にも連れて行ってもらいました。
「おお! ここに9期の方々が・・・・」
とひたってきました。



※画像は9期生ご家族ご提供