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今日のきんちゃん2021年08月01日 10時58分41秒

ゴールデンウィークぐらいから調子が悪くて、もう死んじゃうかなと思っていたきんちゃんですが、最近は好調です。

おエサ探し中。


体やヒレに赤い斑点(充血?)ができて、底におなかをつけてじっとしていることも多くて、ホントに「こりゃ松かさになって死ぬかもな」と思っていたのですが、塩浴したら一時持ち直しました。

徐々に塩抜きをしていたらまた充血が出てきたので、またまた塩濃度をあげて、それ以来ずっと0.5%の塩漬けです。好調。
たまに粘膜保護剤を入れてあげています。

ひと月ぐらい前か、投げ込み式ろ過装置では水の汚れが取れないので、外掛け式のろ過装置も設置しました。

たまに暴れて底に体をこするので、底砂は入れないまま。
かわりにバクテリア繁殖用の小石パックを入れています。

筑波海軍航空隊百里原分遣隊教員室 か?2021年08月03日 21時33分39秒

浅川さんのネガの中に、百里原の教員室で撮られたのではないかと思われるものが数点ありました。



これは浅川三雄教員(乙2)ご本人。
ポーズから、同じときに連続して撮られたものと思われます。



乙3期の金子光夫教員。
善行章2線、二等航空兵曹。

同じときでしょう。撮影者のポジションもほぼ同じようです。





この真新し気な板壁の部屋を「教員室」と判断したのは、下の2枚の写真からです。



ネガ袋の書き込み「中村氏」。
善行章2線、一等航空兵曹。
特技章は残念ながら桜の上の部分しか見えていないので飛練か操練かわかりません。


ネガ袋の書き込み「杉尾氏」。

おお! 宮崎県出身の乙5期の戦闘機乗り・杉尾茂雄さん(戦後生存)ではないか!

善行章1線、三等航空兵曹。




後ろの板壁に引っかけてあるノート拡大。これから「教員室だろう」と判断しました。
どうやら昭和14年の第四分隊の分隊人事日誌、消耗品請求簿。
中が見たいですね~(・∀・)

分隊人事日誌の方は拡大したら上下二段に氏名らしきものが並んでいるのはわかるのですが、何と書いてあるかまでは見えません。残念!( ;∀;)
壁には他にもプリント類が貼ってある様子。
マリコさーん、拡大鮮明化頼む!(笑)







「中村氏」ですが。
昭和14年に善行章2線・一等航空兵曹ということであれば、飛練だと乙1か乙2でしょうか。
乙1に中村氏はいません。
乙2には3人いるのですが、卒アルから全員お顔がわかります。該当者なし。
ということは操練かな?
操練21期の中村克男さん、操練24期の中村土五郎さん(艦攻操)、操練26期の中村辰男さん(艦攻操)あたりが候補かなと思うのですが、これ以上は不明、ということで。
※中村氏に関して訂正があります。
後ほど訂正します。→訂正記事書きました



杉尾さんは『日本海軍戦闘機隊2』【エース列伝】によれば、飛練卒業後、12空、本土帰還、12空、3空、202空、海口空、神ノ池空、201空、筑波空、となっています。

この中の「本土帰還」ってところに百里原教員時代が入るのだと思います。

同期生・角田和男さんの『修羅の翼』(光人社)によると、
「(昭和14年12月15日の)翌日、百里原航空隊行の十一名はトラックで送られた。わたしはすでに一分隊に編入が決まっていた。山口兵曹長、西川一整曹、大坪一空曹、原田二空曹等、世話になった教員方が多かった。分隊長は関衛大尉、分隊士青木予備中尉、篠原空曹長、一色空曹長等の錚々たるメンバーに引き合わされた。飛行隊長は後に世話になった玉井浅一少佐であった。
百里原空は開隊されたばかりで、先着の杉尾茂雄や井上朝夫は、飛行場整理の土方仕事もだいぶ長くさせられたとのことだった」


玉井さんが飛行隊長だったということなので、「お! 写っているのかな?」と思って、浅川さんの集合写真を探したのですが、よくわかりません。
ウィキペディアに掲載されている写真の人を探しているんですが、写っていないんじゃないか?


土方仕事は全員でやったのか、乙5が隊で若輩扱いで主にさせられたのか(^^;)
写真ではわからなかったですが、開隊早々はそういうご苦労もあったのですね。



※画像は浅川さんご家族ご提供

オニオンリング2021年08月04日 23時05分35秒

パパがブログの書き方に注文をつけてきましてね。


「仲良し一家のことも、海軍の記事ぐらいの長さで書け」

と。




日曜日のお昼、パパがまたオニオンリングにチャレンジしました。

前回の。
これはまだ”天ぷら”感があったのですが、今回のはまわりカリカリの衣で、めっちゃオニオンリングでした。

玉ねぎは淡路島産のサラダ玉ねぎ。

ちなみにちょこっと写っているごはんは、白いご飯に、もち麦と古代米(モリカ)を混ぜています。




というわけで、オニオンリングはこれ以上引っぱれないので(^^;)


今日はパパの誕生日でした\(^o^)/

晩ごはん、昨日の残りのカレーがありました。

春海「もしかしてカレーうどん?」  
※カレー2日目は簡単にカレーうどんやカレーパスタになることが多いのです。

ママ「いや、今日はコンソメバターライスを炊いてオムライスして、カレーをかけるってのはどう?」

春海「賛成! 賛成!(・∀・)」

パパの誕生日だからね、ちょっとはね。
玉ねぎをみじん切りして炒め、バターとコンソメと一緒にしてごはんを炊きました。



パパはちょっと遅かったので、先に春海と二人で食べて、あとから帰ってきたパパは一人で食べました。

食べ終わったパパ。

「今日はパパの誕生日やったのに、昨日の残りのカレーやった」

となんか不満そうに言うんですよ。※個人のイメージです

ママ「オムライス、不満なん?(怒) 中身、何かわかってる?」

パパ「え? いつものもち麦ごはんやろ?」

ママ「今日はもち麦ごはんじゃないわっ!(激おこ)」


自分が何を食べたかもわかっていないんですよ!?

険悪な雰囲気で一日(パパ誕生日)の終わりを迎えた仲良し一家でした。

筑波航空隊百里原分遣隊の「中村」教員2021年08月05日 13時27分14秒

先日、真新しい板壁の教員室で撮られた「中村氏」に関して、「訂正があります」と書いた件です。


「中村氏」


昭和14年に善行章2線・一等航空兵曹ということであれば、飛練だと乙1か乙2でしょうか。
乙1に中村氏はいません。
乙2には3人いるのですが、卒アルから全員お顔がわかります。該当者なし。
ということは操練かな?
操練21期の中村克男さん、操練24期の中村土五郎さん(艦攻操)、操練26期の中村辰男さん(艦攻操)あたりが候補かなと思うのですが、これ以上は不明、ということで。


と、書いているんですが、Kさんから「操練には該当者はいません」とのことで(^^;)
逆に、乙2の中村吉兵衛さんではないか?
とご教示いただきました。

先日、思いきり「乙2には(中村さんが)3人いるのですが、卒アルから全員お顔がわかります。該当者なし」と書いていますが。
このとき乙2の3人をちゃんと出せばよかったですね。

中村正三さん

中村太門さん

中村吉兵衛さん。


この3人を拡大して、「中村氏」と並べて時間をおいて2回見比べたのですが「該当者なし」にしてしまったわたしorz
穴があったら入りたいです、マジで。

Kさんに言われてあらためて中村吉兵衛さんと「中村氏」を見比べました。

「あー・・・・、同じ人だわ・・・・」



んで「5年の月日が」とかなんとかKさんには言い訳したのですが、あとで画像を集めてみたら、吉兵衛さん、予科練時代から言い訳できないほどかわっていませんでした。




というわけで、中村吉兵衛さん。

予科練時代
総員集合写真

予科練時代
剣道の防具に「中村」と書いてあります。

艦務実習



霞ヶ浦飛練
名札に「中村」、


いずれも飛練。


艦攻操縦員なので大村延長教育でも浅川さんとご一緒だったかと思い写真を探したのですが、いまのところ見つけられていません。


浅川さんの百里原の集合写真にも写っていませんでした。

が、知人所有の百里原・操練46の集合写真には写っていました。



19年6月19日  601空(翔鶴発艦)  マリアナ沖海戦  行方不明



橿原神宮の瑞鶴の戦没者名録です。クリックしたら拡大します
川崎まなぶさんの『マリアナ沖海戦』によると吉兵衛さんは翔鶴発艦のようですが、この瑞鶴の戦没者名録はマリアナ沖海戦での601空の戦没者の名前も刻まれており、吉兵衛さんのお名前もあります。
乙2の同期生、浦田豊志さん、笹岡芳信さん、円城寺逸馬さん、加賀三郎さんのお名前もあります。
※原田賢次郎さんのお名前が見当たらない


※画像は浅川さんご家族ご提供

飛練10期 谷田部航空隊のある教員2021年08月06日 11時08分40秒

乙9期は15年11月30日に土浦の予科練を卒業、飛練10期生として操縦専修生たちは筑波と谷田部、偵察専修生たちは鈴鹿へと移動しました。


今日の話題は谷田部の集合写真。

あまり谷田部の教員のことを話題にしたことはないんですが、今日は教員の一人について。

最後列の右端に写っている教員さん。
まあ、だいたいこういう集合写真は椅子列中心に隊の幹部、その両脇に分隊長・分隊士(教官)、そして教員。
椅子列におさまらなかったらすぐ後ろの立ち列も教員さんがいることが。

しかし、最後列の一番端っこに教員がいる写真ってまずないんですわ。

んで、気になっていました。

やさしそうな男前教員でしょう?
※個人の感想です



こちらは谷田部の修業記念と思わる集合写真。
この教員さんは2列目の教員の集団にいますが、教員の中では一番端っこにいます(2列目右から3人目)。

これら2枚から、たぶん、教員の中では下の立場なんだろうな。



もう1枚ありました。
池田和義さんが持っていた飛練のペア写真。
前列左から西山昇さん、教員さん、新井正美さん。
後列左から池田さん、田中茂雄さん、鹿島長重郎さん。


この教員さん、1種軍装の教員さんと同じ人よな?

いま、やや自信を失っているところですが、たぶん同じ人と思うんです。


救命胴衣に記名もなく(練習航空隊はふつうない)、
「だれかわかることはないんだろうな」
とあきらめていました。






浅川さんの百里原の写真がきっかけでどなたかわかりました!
なぜ唐突に浅川さん!?(/・ω・)/





この話、しましたっけ?
浅川さんの写真の中に期別不明の集合写真がありました。
わたしは完全にお手上げだったので、Kさんに見てもらったところ、
「操練46期じゃないか」
と。

操練46期の太田敏夫さんらしき人が写っていると。

坂井三郎さんの『大空のサムライ』で有名です。
台南空の三羽烏ということで。えーっと、坂井さん、西澤さん、太田さんですか。


たしかに!
練習生の太田さん。


その後、他にも操練46期生の方が見つかったことから、操練46期の修業記念写真で間違いなかろうと思います。




太田さんのことはわたしがここに書くまでもなく、海軍航空隊、海軍戦闘機隊ファンの方ならよくご存じだと思います。

長崎県出身。
戦闘機。
『日本海軍戦闘機隊2』【エース列伝】によると操練後は大村空、谷田部空、12空、台南空。

「ん? 谷田部空だって?(;゚Д゚)」


うちにある谷田部空の集合写真を全部見てみました。
飛練某期(飛練10期より前)、飛練16期、2クラス分は空振りでしたが、1クラスによく似た人が。


それが冒頭の写真!
飛練10期!

あれ、台南空の太田敏夫さんじゃないかな?



もし太田さんだったらびっくりです。
ペア写真に一緒に新井正美さんが写っているでしょう?
飛練時代、直の師弟関係?(^^;)

太田さんと新井さんは台南空で再会しています。
新井「あ! 太田教員じゃないですか! その節はお世話になりました!」
太田「おお、新井! 立派な戦闘機乗りになったな! 分隊長に頼んで同じ小隊にしてもらおう!」
新井「はい! よろしくお願いします! どこまでもついて行きます!」
太田「おれから離れるなよ!」
新井「はい!」
→17年5月12日モレスビー攻撃
※もちろん会話は妄想です




台南空時代の下士官搭乗員集合写真(少人数)の太田さん。

座っているのは椅子列。
ベテラン搭乗員です。



戦地で飛練時代の教員と再会――。
うれしはずかしだったろうなー(雛鳥時代を知られている(^^;))。





谷田部には他にものち台南空に配属になった9期生がたくさんいます。

羽藤一志さん

遠藤桝秋さん

久米武男さん

熊谷賢一さん

佐藤昇さん

上田誠さん(ラバウル以前)

新井正美さん

大西要四三さん(所属は千歳空)

木村裕さん

みんな、飛練時代から太田さんを知っていたのかー!?
って思うと、また違う景色が見えてきます。
飛練の中練は7ヶ月ですからけっこう長期間。直接の担当でなくても、よく知っていたことでしょう。
太田さんの方もおぼえていたんじゃないかと思いたい。


太田さんは17年10月21日、ガ島攻撃で戦死。
が、それ以前に、2月24日上田さん、7月20日大西さん、8月8日木村さん、8月14日新井さん、8月26日熊谷さん、9月13日羽藤さん佐藤さん・・・・と帰らぬ教え子を待ちつづけることに・・・・。
もちろん、他の戦友・後輩たちの戦死もこたえたと思いますが、自分が手取り足取りした教え子が帰ってこない状況というのは・・・・。







※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、武田信行さんご提供