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乙2期 工藤修さん2021年07月10日 13時56分10秒

『日本海軍戦闘機隊2 エース列伝』にも名前を連ねている工藤修さん。


わたしが9期の関係者として工藤さんのことを認識したのはこの写真です。
原田要さんに見ていただいたときに、この中の一人に「乙三期? 工藤さん」と書き込まれていました。

確認作業途中で、原田さんが「工藤さん」と書きこまれていた人物は乙3の徳永有さんだったとわかりました。
乙3期に工藤さんという人はいないので、おそらく乙2期の工藤修さんを誤認されたものと推測しました。
この写真の中に、工藤さんがいる?

最初は後列左から3人目が工藤さんと思っていたのですが、これは今回浅川さんの写真を見て行くうちに平塚萬蔵さんのようだと考えを改めました。

じゃあ、工藤さんは?
後列左から6人目の人かなあ?
全然自信ないです。
工藤さんはお顔がけっこう四角いんですが、この人、飛行帽のせいかどうか面長に見えますよね、
別人かなあ?

もしかしたら、ここには工藤さんは写っていないのかも? に傾いています。




工藤さん、時期順に。

【予科練時代】横須賀。
予科練入隊時の乙2総員集合写真。
みなさん、まだ学生服(私服)です。






【飛練時代】霞ヶ浦
なんかすでに矢玉の中をくぐってきたような貫禄ですが練習生です。






飛練卒業後は戦闘機。
実施部隊は大村空、13空、加賀、赤城。 ※エース列伝


【教員時代】百里原
1空曹(教員)時代でしょう、工藤さん。
写真背景の説明はないですが、おそらく隊外(下宿など)で撮られたオフショット。
貫禄です。

こちらも教員時代ですが、個人的に遊びに行っているのか水戸行軍の引率かわかりません。




操練54期集合写真より空曹長の工藤教官。

なぜか下士官時代の工藤さんは集合写真には写っていません。
冒頭の9期操偵検査時の集合写真が工藤さんなら14年6月には百里原にいたはずですが、あれ、ちょっと自分でも自信がないので・・・・。

すぐ上の6×6ネガの工藤教員は時期不明ですが、下士官時代(15年5月より前)に百里原に着任していたことは間違いなさそう。




兵曹長4人の記念写真。 ※撮影時期がわからないので空曹長か飛曹長か判断できません。
(16年6月に航空科→飛行科に変更)


後ろにちょっと写っている食堂。
「(木へんの漢字)本屋 食堂」。上に「TS」って書いてあります。

「槌本屋(T)食堂(S)だな!」
と思って検索を掛けたのですが出てきませんでしたorz
これで出てきたら逆にビックリですけどね!(笑)

「じゃあ」、と攻め方を変えて一緒に写っている杉から検索してみました。
見つけました。
筑波山神社でした。
なるほど。
兵曹長4人は長靴に杖?を持っています。
平地の神社に行くのにこの格好はないですよね。筑波山にも登ったのかな?


食堂は杉本屋食堂。いまも同じ場所にあります。
TSは何の略? 筑波山神社(T)の杉本屋食堂(S)か?
問い合わせていないのでわかりません(^^;)


4人の顔ぶれ。左から。
乙3徳永有さん

不明(練習生の修業記念集合写真の方には写っていないようにあります)

乙2浅川三雄さん

乙2工藤修さん

この顔ぶれを見て「おっ!」と思いました。
何枚もある浅川さんの集合写真で、工藤さんと徳永さんが一緒に写っているのって、1枚もなかったんですよ(9期操偵検査を除く)。

なので、同じ練習生クラスを担当しなかったのかなと思っていました。
筑波山神社、もし練習生の引率で行ったのだとしたら、同じクラスを担当したこともあったのかな?
それとも個人的に4人でお参りに行ったのか?

それと、不明の兵曹長さん、どなたかご存じありませんか?
「見たことある!」ってヒト、大募集です。





『予科練外史』(倉町秋次)に予科練時代の工藤練習生のことが出ています。
予科練のラグビーについて書かれている4巻です。

「昭和九年二月十日(土曜)の午後、夏島グラウンドと呼ばれていた横須賀航空隊陸上飛行場のはずれで、予科練二期対横浜高等工業学校戦が行われた。当日の主審は横浜高工出身、横浜ラグビーO・Bメンバーの杉浦要次氏、予科練側のメンバーは次の通りであった。

FW

毛利
飯窪
工藤
由良

原田
松永

HB
平野
小山内

TB
児玉
東山

後藤

FB
林(次)

一時半キックオフ。ボールは冷たい潮風を衝いて、抛物線を画いてとんだ。
すべり出しは順調で、前半は十一対六でリードしたが、後半になると、スクラムの突込みにいささか鋭さが欠けたように感じられた。しかし、何とか持ち堪えて三対三の同点で笛が鳴った。
試合終了と同時にフォワードの工藤修練習生が、
「勝ったぞ!」
と一言を残して病室に運ばれて行った。前半二十分過ぎに右肩の鎖骨を折りながら同僚にも秘して試合を続けていたのである。」

この対外試合に関し、ラグビー部指導教官の阿部清機関大尉が記した所感も記載されています。7項目。大変興味深い内容です。反省点の方が多いです。文句なくほめているのは1つだけ。
「六、終始剽悍執拗なりしは可なり。」
「可」と言っているけれど、これはほめの「可」です。

そして最後の7項目目。
「七、骨を折り、肉を傷つけてまでも続行せよとはいはざるも、工藤が右鎖骨々折のまま奮闘したるは、ラガーとして称讃特記せらるべきものなり。
但し、軽々に取り扱ふべからざる身体なれば、臨機賢明なる判断に従って為すべし。」
これはほめているかどうか微妙です。「但し」つきですからね・・・・。
ラガーとしてはほめているけど、軍人の身体の扱いとしては、、、、ってところなんでしょうね。


そして『予科練外史』は工藤さんの最期にも触れています。
「工藤南溟に散る
第一巻にも触れたが、この日から八年後、昭和十七年三月三日朝、工藤修の属する三空の零戦九機は、陸偵に誘導されてクーパンを発進、長駆豪州北西部の要地、ブルームを攻撃し、邀撃の戦闘機四機と交戦、三機を撃墜、飛行艇二四機を銃撃により炎上させた。が、二小隊長の彼は銃撃中に被弾自爆。開戦以来の彼の殊勲は、聯合艦隊司令長官に認められ、全軍布告(第四号)二階級特進の栄誉が与えられた。」


大正4年、大分県生まれ。戦闘機。


※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族ご提供
秦郁彦・伊沢保穂『日本海軍戦闘機隊2 エース列伝』大日本絵画