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春海、再会する2020年02月11日 09時39分07秒

今回の試合は、近畿各地、近畿以外からも参加者がいるような大会でした。
1日目の2コン女子は17組だったか(春海は14組)、2日目の半フリ女子は55組(春海50組)。
1組10コースあるので、おおよそのエントリー人数はわかると思います。

最近は県内ではエントリー人数≒春海の順位ってことはなくなってきましたが、やっぱり県外に出て行くと「エントリー人数≒春海の順位」、こんな感じですわ(笑)


親的には一度ぐらい近畿レベルの大会で決勝に残ってほしかったですが、そんなに都合のいい過疎大会はありませんでした(涙)



1日目、200m個人メドレー。




17組中の14組目のセンターだったので(←)、エントリータイム的には悪くはなかったんですが、
実際に泳いだらひどかったです(-_-;)


2つある黄色いコースのうちの向こう側です。
相変わらずダメダメバッタです。
同じ組の大半は小中学生ですからね(^^;)

背泳ぎでもまったく挽回できず。

平泳ぎでちょっと上がったかな?と思ったんですが。

最後のフリーでヘロヘロになって抜かれ、置き去られてしまいました。小中学生たちに。


2分28秒20。
今シーズンのベストからもだいぶ落ちています。



全体的に悪かったですが、特にフリーでヘロヘロに。

今シーズンのベスト(2分24秒93)と比べても、

       ベスト        今回
バッタ   31.24       31.91
バック  1:07.81     1:09.13
ブレ   1:51.07     1:53.53
フリー  2:24.93     2:28.20

動画も出していません。





2日目の半フリは新しい水着で(笑)

黄色いコース2つのうちの手前側です。
結論から言うと、新しい水着の効果はまったくありませんでした。
28秒47。

これもカーボンなんですけどね。
駅伝のようにはいかんようです(笑)

これは動画を出しています。
↑たぶん高校生活最後の動画です。
もう1レースありますが、それは親は入れないレースなので。






レースは特筆すべきこともないんですが、レース外でそれがありました。

イ○マン時代のコーチと再会したそうです!

春海、イ○マンに入会する前に短期教室に行ったことがあるんですが、そのときに担当してくれたMコーチです。
小学校2年のときかな。
じつはね、わたし、YouTubeあるんですよ!(ヒミツ)
短期教室の動画はこれです。
プールの中ほどで指導しているのがMコーチです。

正式にイト○ンに入会してからもずーっとこのコーチが面倒見てくれました。
担当コーチは何人も変わったんですが、結局、Mコーチが転勤するまで何らかかかわりがありお世話になりました。

他の担当コーチは春海のことは眼中にもなかったですが(←その時泳いでいない泳法の指導をされたり(笑)、タイムを切っているのにレースに出してもらえなかったり。さぼらずに行っていたのに成績が悪すぎて存在感がなかったのか?)、Mコーチだけは春海の長所短所をよくつかんでいて熱心に指導してくれました。

イト○ン時代は、春海はMコーチの指導にこたえるこはできなかったですけどね。



そのMコーチが会場にいたそうで。
たぶんいまの勤務校は他府県なんでしょう。県内の試合では会ったことがないらしいので。
春海の方からあいさつに行ったそうです。
が、すぐに春海がわからなかったみたいで(笑)、認識して「お、お、おー!」って驚いていたそうです。

驚いたポイント、たぶん、

・デカくなりすぎていて誰だかわからなかった。
イト○ン時代はまわりに春海よりデカい子がいましたからね。というか、春海がまだフツーサイズだった。

・人相が変わっていてわからなかった。
当時はけっこうかわいかったんですよ。いまじゃアレですが(笑)

・この試合に出てきていることに驚いた。
県内の試合よりきついエントリータイムがあるので、イト○ン時代の春海なら絶対に出られない試合です。そこにいたので驚いたのではないか?

・これが一番驚いたんじゃないかと思うんですが、「いまだに水泳を続けていたんか!?」
あの当時は真っ先にやめてもおかしくない存在感だったんで(笑)
まさか高校まで水泳を続けているとは思わなかったでしょう。しかも3年ですからね(笑)



コーチに指導してもらっている間はまったく恩返しができなかったけれど、こうやって好きで泳ぎ続けている姿を見せられて、少しは恩返しになったんじゃないでしょうか。
と、思いたい(^^;)

平山繁樹さんの写真102020年02月12日 21時49分29秒

平山さんのアルバムにあったご家族写真。


台紙に書きこみはありませんでした。

小さな子どもさんたちが一緒なので、ご家族が平山さんがいる基地に面会に来たというよりは、平山さんがご実家に帰ったときに撮られたもの、と想像しています。

いつの写真かな?

平山さんの袖が写っていました。

んー、はっきり見えないぞー(´・ω・`)
でも飛行機は1機、縦にレイアウトされているように見えるんですが。3飛曹の階級章です。

これが9期生が実際に袖につけていた3飛曹の階級章です。
飛行機の主翼や尾翼の位置は平山さんの袖の図柄と一致しているような気がします。





ちなみに、平山さんの場合の、使用階級章の想定を図化してみました。
※丸型階級章の図は実際9期が袖につけていたものとは違います
丸いのは旧型、盾型のは新型です。17年11月1日に切り替わったそうです。
ちなみに帽章も。

17年10月31日~18年10月31日までの階級章は上の通りなんですが、2飛曹(11月1日からは1飛曹)に進級したのがちょうど南太平洋海戦の直後でトラック島だったろうと思うんです。
そこで進級日である10月31日にきっちりと階級章が支給されたのかどうか?
支給されたとして、丸いのが支給されたのか、盾型のが支給されたのか?
わたしはつかんでいません。わからないので、いちおう2種類ともあげておきました。

今回は写真の平山さんがつけている階級章の話なので、あれが「3飛曹」の階級章だとしたら、上のことは関係ないんですが。

話をすすめます。
平山さんが3飛曹時代の写真だとします。

進級したのは15年10月1日。
このころ平山さんは宇佐空で実用機の飛練中です。
10月31日に卒業し、加賀に配属。
島田さんの日記を読む限りでは博多卒の人たちは飛練を卒業した後はそのまま任地に向かっています。
実家に帰る日程的余裕はなかったと。たぶん宇佐も同じだったのでは。

そのまま休暇なしで11月の下旬には真珠湾に向け出港。

真珠湾後はどうだったか?

加賀の艦爆操縦員だった山川新作さんによると、12月18日に日本近海まで戻ってきた加賀を飛び立ち、佐伯航空隊に戻ってきたと書いています。
そして、
「休暇は年末から正月五日までもらい家郷に急いだ」
これは艦爆隊だけの話なのか、飛行機隊全体の話なのか。

艦攻隊の人の手記が手元にないので断言はできませんが、休暇をもらった可能性が高いんじゃないか、と。

その後、加賀はラバウル攻撃、ダーウィン攻撃、チラチャップ攻撃に向かいます。

で、山川さんによると、作戦を終えた加賀は佐世保に入港(wikiによると3月22日)、飛行機隊は館山を基地にして訓練に励んだということです。

平山さんは3月初のチラチャップ攻撃までは艦攻隊で出ていますが、ミッドウェイは艦爆で出ています。
偵察員は基本何でも乗る、って話なんですが、このときも山川さんと一緒に館山にいたと思っていいんでしょうかね。山川さんは「飛行機隊」という書き方をしているので、艦攻や戦闘機も一緒だったのかと思ったのですが、wikiには4月18日にドゥーリットル空襲があったときは加賀の戦闘機隊は木更津にいたって書いてあります。
戦闘機隊だけ別行動だったのか、最初は館山に一緒にいたけど、4月18日時点では木更津に移動していたのか、そこらへんはわたしはちょっとわかりません。

まあ、とにかく、この時期からミッドウェイに出撃するまで平山さんは内地にいたことはたしかでしょう。
ただし、実家に帰る休暇があったかどうかはわかりません。

ミッドウェイ後は内地に戻ってきたとしてもその時期にはもう写真のような格好ではないはずですので、夏季は検討対象から外します。




ということは、あの写真が撮られたのは17年の正月休暇の可能性が一番高いのではないか。

4月とか5月の可能性はほぼないと思っています。
平山さんの右に立っている和装のお嬢さんが上着を羽織っていますよね。

あと、同じ時の写真だろうというのがもう1枚ありまして。
一番上のお兄さんです。
こちらの写真ではコートを手にしています。

けっこう寒い時期なんじゃないかな。
子どもたちは割と軽装ですけどね(^^;)







一番右のお嬢さんなんですけどね。

のちに平山さんの奥さんになる方です。


息子さんのお話だと、お見合いじゃないかな、ということでした。

でも、平山さんの家のルーツと奥さんの家がどうも同じ地域らしく、もしかしたら、見合いをする前から(結婚の話がわく前から)顔見知りだったかもしれない、みたいな話もされていました。


この写真が17年正月の写真だとしたら、その頃にはすでに知り合いだったということですね。




※画像は9期生ご遺族ご提供
※平山さんは17年7月に加賀から瑞鶴に転勤されていますが、10月15日が瑞鶴の行動調書初出です。それまでどうされていたのかまったく把握できていないのですが、内地でコートを着る季節ではないだろうと思い、その時期の撮影の可能性は除外しました。

17年夏の平山繁樹さん2020年02月13日 14時50分38秒

昨日平山さんのことを書いたときに、17年7月に加賀(ミッドウェイで沈没)から瑞鶴に転勤した後の平山さんの行動が10月15日まで把握できていない、と書いたのですが、Kさんがご存じでした(^^;)


17年夏、2番目のお兄さんと。

7月14日に瑞鶴に転勤後の足取りはKさんのおかげでわかりました。Kさまさま。
おそらく転勤後、実家に戻れるようなまとまった休暇はなかったように思います。

ということは、瑞鶴に転勤になる前、7月中頃より前に休暇をもらって実家に帰ったってことでしょうか。



ミッドウェイの後、瑞鶴に転勤するまでの足取りは、やっぱりというか、不明です。




※画像は9期生ご遺族ご提供

根来寺2020年02月13日 15時11分22秒

子どもの水泳の試合を見に行っても、アサイチのレース1本だけを見て早々に会場を去って観光してまわっているので、なんか顧問に”ヘンな親”認定されているっぽいです(笑)


しゃーないですよね、決勝に残らないんだから(笑)


午後の楽しみを作っておかないとやってられません。



2月8日、午後は根来寺に参拝しました。

道の駅 ねごろ歴史の丘に立ち寄りました。
立ち寄った、と言っても、根来寺のすぐ横だったんです(^^;)

知らずに立ち寄ってトイレ休憩&歴史館見学。
予備知識を入れて。



ここの駐車場から歩いて大門へ。

大門だけ離れたところにポツンとあるんですよね。






春は桜がきれいなんだろうな、って場所でした。





車で移動してご本尊の方へ。

最盛期は僧兵1万余をかかえるほどの勢力を誇っていたようですが、秀吉に焼き討ちされているんですよね。
徳川時代になって再建されたものもあるようですが、いまは堂宇も少なく静かなものでした。
感染症のせいか、観光客はほとんどおらず、いても日本人ばかり。



おみくじのだるまさんがところどころの石の上に置かれていました。

国宝・大塔。








身代不動。







ご朱印をいただいたんですけどね。

2種類ありました。

ご本尊の「大日如来」と、開祖「興教大師」。
パパが大日如来を選んだので、わたしは興教大師を選びました。
預けてお堂内を拝観していたら、ご朱印担当のお坊さんがパパを探してやって来たそうで。
「ご朱印を書き間違えてしまいました。頼まれた方を続きのページに書いてもよいですか?」
と聞きに来たそうです。
わたしは別行動していて、そんなことがあったなんてまったく知りませんでした。

パパは、
「お願いします。その分の代金も払います」
と言ったそうなんですが、お坊さんが、
「いえ、間違えたのはこちらですから」
と受け取ってくれなかったそうです。

パパは「間違えたのが自分のご朱印帳だったらいいな~」と思ったみたいですが(笑)

お坊さんが間違えたのはわたしのご朱印帳だったと(^^;)

お坊さんは書き間違えたと恐縮されていたそうですが、これは書き間違いのうちには入らないですよね。
お坊さんが心を込めて書いてくださったものなので、ただひたすらありがたいです。

乙9期 藤島光夫さん2020年02月14日 13時28分21秒

徳島県出身、偵察。
中攻。


横須賀入隊時の氏名入り班写真。
4班。



13年秋の明治対早稲田のラグビーの試合観戦なんですが、他にも何枚かあります。
藤島さんはいい位置に座っていて、けっこうお顔がわかる状態で写っています。



大楠山慰安行軍ですかね、お弁当中です。
手に持っているのは何かな?



ここから霞ヶ浦時代。

4班の熊谷教員の転勤に際しての記念写真。



操偵適性検査。




「おもいで」
容貌魁偉。なかなかに物に動ぜぬ芯の強さがあり男らしい男だったが、女性についての造詣も深かった。

重厚そのもの。モールスでは苦労したね。心底期するものを秘めているような君にはむしろ恐ろしいくらいの頼もしさがあった。



あまり藤島さんの情報、ないんですよね・・・・。
ただ、島田清守さんと1学年時に同じ班だったので、その関係で日記にお名前が出ていました。

前期試験の結果が返って来たとかで。
14年4月28日
(略)、杉本、藤島、大石、自分と四班にて成績が悪い。
「おもいで」の中には「四班には君(高島)、大石、島田、北村(彰男)、杉本など優秀なメンバーがそろっていた」とも書かれているので、この時の試験は多少成績が悪かったのかもしれませんが、総合的には優秀だったんだろうと思います。
藤島さんも、優秀な4班員の中でのことなので、そんなに悪くなかったんじゃないかな(と想像)。




飛練鈴鹿時代。
相撲部だったようで、これは運動会の優勝時の記念写真。卒アルから。


飛練大分時代。


大型機講習・木更津。



その後、元山空、755空。




18年10月7日  755空  大鳥島


同じ日に、同じ航空隊の金田吉武さんが同じ戦域で戦死されているのですが、詳しい状況はわたしは把握できていません。
行動調書も、ちょうどその期間が抜けています。




※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供