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大友文吉分隊長2020年01月09日 13時58分24秒

今回のタイトルは迷いました。
「大友文吉分隊長」にするか、「森史郎『空母対空母 空母瑞鶴戦史 [南太平洋海戦篇]』光人社NF文庫」にするか。


年末に注文しておいた本を昨日取りに行ってきました。

ネットで注文したら、希望の本屋に届けてくれるというサービスを利用しました。
送料・手数料みたいなものはかかりません。本代だけです。


どうしてこの本を購入したかというと――
平山さんのことを調べていて、どうしてもわからないことがあったからです。この本には書いてあるんじゃないかと思って取り寄せてみました。
結果から言うと、「わかりませんでした」。

何を知りたいのかというと、
南太平洋海戦後、帰ってきた瑞鶴の飛行機隊はどこに行ったのか?
です。

瑞鶴自体はトラック経由で呉に帰ってきたと、ネットにもこの本にも書いてありました。

じゃなくて、飛行機隊、搭乗員たちはどこに帰って来たのか。

艦隊と一緒に呉に帰って来たのか、それとも近海のどこかで発艦して陸上の基地に向かったのか。

アジ歴でも探してみたのですが、わたしの能力では見つけられませんでした。
わたしの検索のしかたが悪いんですよ、たぶん。
以前も、わたしが見つけられなかった資料をKさんが「ここに載っていますよ」とさらっと教えてくださったことが・・・・(^^;)

もし、南太平洋海戦後の瑞鶴の搭乗員たちがどこに向かったのかご存じの方がいたら教えてください<(_ _)>






で、大友文吉分隊長です。

この方です。卒アルから。
9期の予科練時代の操縦分隊の分隊長です。航海の教官。
当時、少佐。

なんで唐突にこの人の名前をタイトルにしたのかというとですね、今回取り寄せた本、読み始めたしょっぱからこの人の名前が出てきて仰天した、と。

1942年9月10日、南雲艦隊がトラック泊地からソロモン海に向かうシーンから話が始まっているんですが、そこに、
『外洋に出て、野元為輝艦長から操舵の指揮を託された大友文吉航海長が、旗艦翔鶴からの速力指示を高い声で操舵員につたえた』
という記述が!

野元艦長というのは瑞鶴の当時の艦長です。ですから「航海長」は瑞鶴の航海長です。

「なんと! 大友分隊長は瑞鶴の航海長になっていたのか!」

ビックリしました。

島田さんの日記(15年11月4日)によると、大友分隊長は9期卒業直前に水路部に転勤されているんです。その後どうなったか・・・・。検索すらしていませんでした。
が、昨日、これの記述を見つけてビックリしたので検索してみたところ・・・・。

戦後もご健在だったらしく、海兵の後輩の方が書かれた故人を偲ぶ手記の中に大友さんのお名前が出ていました。

大鳳にも勤務されていたらしいです。
大鳳はマリアナ沖海戦で森田守さんが発艦した空母です。
そのとき、大友さんもおられたのか?
大鳳時代は副長だったように書かれてあります。

人柄は温厚だったとも。


終戦後は特設潜水母艦筑紫丸の艦長をされていたようなネット記事も出ていました。






島田さんの日記に出てくる大友分隊長関連記事
14年3月1日。
予科練が横須賀から霞ヶ浦に移転。
『運送指揮官大友少佐、補佐官中矢兵曹長指揮によった。』

14年7月16日。
『行軍
六時 湖水にて遊覧船に乗りて香取・香島(鹿島)参拝行軍が実施された。宇土特ム大尉、大友少佐、寺島特ム少尉等教官等交りて水郷の水の都ののんびりした中を取りて参拝した。』

14年9月8日
『近頃時間的観念がないと注意を受ける。整列に遅れたりする者が多いからである。又大友少佐より隊を編制した場合、各自の行動をゆるさない。各自の行動は烏合の衆と同じである。注意を要す。』

15年2月5日
『精神教育
二十一分隊(大友少佐)
我が国は唯今物質的に非常な不自由をしているのである。此れを見るに我が帝国の勢力が此事変に於いて此れだけ衰弱したと考へる者もあるかも知れんが此れは大きな誤解である。』

15年7月22日
『精神教育は大友分隊長の「大死一番」について

15年7月24日
『朝の課業整列の際に大友分隊長より総員に水の節水について自重を望むと!!』

15年7月29日
『精神教育は休暇中の注意事項を話された。
大友分隊長より
㊀機密保持励行の事
㊁女に対する事
以上の事は厳守して萬遺憾なき様にしなければならない。次いで宇土分隊長より以上二項も呉々も注意する様に。また飲食等にも注意する様に!!』

15年9月8日
以前書きました。日曜の外出時のこと。
『隊門を出て自動車に乗ろうと思ったが当直将校大友少佐に歩いて行く様に注意され、本間、大塚、戸川と土浦に徒歩で、土浦で戸川と二人で食べる位の程度で帰る。』

15年9月9日
『精神教育は大友少佐の「公益優先」について。ドイツが如何に滅私的精神が強いか、我が国にのみあると思ったが此れ系統に於いても・・・・。唯国家あるのみのドイツ国民、此れならばこそ落下傘部隊も生れたのである・・・・。』

15年9月19日
『航海
大友教官より教官の説明する時に下を見て本を読んでいる者がある。教官の説明する際はよく聞いていなくてはならない。何にも本を読んで解る所は説明しない、と怒ってしまった・・・・。』

15年10月3日
『航海の時間に大友少佐が「日本精神」と云ふ本、紀平博士の書いたもの、結論は「何クソ」であると言はれた。何事も「何クソ」であればよい・・・・。』

15年10月8日
『航海試験・・・・。
大友分隊長より試験前まで未練そうに何時迠も本を見ている。此れは将来お前達が飛行機に乗り出そうとして教員から射撃方法等習っているのと同じである。此うした事はやめろ・・・・。』

15年11月4日
『二十一分隊長少佐大友文吉 水路部員に栄転されて餞けとして一言訓示。
今迠に又此れから守ってもらいたいのは唯々「和」である。「和」を持って此れから行く様に。』


わたしが大友分隊長に共感した点。
試験前まで未練そうにいつまでも本を見ているって注意されているところ(笑)
春海は試験前だろうが試験中だろうがまったく勉強する様子もなく、駅で水泳部員とTikTokやったりしたあげく散々な結果を持ち帰って来るので呆れるばかりですが。毎回ホントに「実力テスト」状態です( ;∀;)
だからと言って試験日に行きの電車の中で単語帳を見ている高校生「すばらしい!!」と思っているかというとそうでもなく、じつは少し呆れている部分があります。
試験というのはふだんの勉強していることが身についているかどうかを確認する場であって、試験のために勉強するのは本末転倒です。
しかし、いまはこの試験の結果の「点数」が人生を左右することにもなるので、とにかく点を取らねばとそのことに一生懸命になってしまいますよね。
一番いいのはやはりふだんからやっていて、テスト前に慌てて詰め込まない、ってことです。一夜漬けみたいなことや試験直前に単語を覚えるようなことをしてしのいでも、結局身に付きません。実体験です(笑)

あとね、教官が説明しているときは本は見なくていい、って話も。





ここまで書いてきて、またあることに気づきました。
この写真、9期操縦分隊の集合写真です。

この写真に、9期の卒業時のものだと添え書きがあるのを見たことがあります。その添え書きはどなたが書いたのかわかりません。
ただ、軍帽のペンネントが「霞ヶ浦海軍航空隊」なので、「卒業時」ではなく「卒業に近い時期」だろうぐらいに思っていました。
※9期の卒業時の所属は土浦海軍航空隊。


大友分隊長が写っていました!

ということは少なくとも分隊長が11月4日に転勤するより前、の撮影ということになります。

もしかしたら分隊長の退隊に際しての記念写真かもな、という気になっています。





9期生存者が戦後に編集した『九期生名簿』。
ここに倉町先生が文章を寄せていますが、大友分隊長のことはどこにも触れられておらず、予科練退隊後のことは今回検索するまでわたしは知りませんでした。

10期の久保さん宅に遊びに行ったとき、当時の分隊長とは戦後も交流があったという話をうれしそうにされていました。予科練においては親みたいな存在だと思います、分隊長。

9期も大友分隊長と戦後も交流があったんです。写真を探したらありました。
見ているはずなのですが、情報量が多すぎて大友分隊長が写っていることを失念してしまっていました。
昭和40年。9期生が卒業記念に植えた土浦の雄飛の松。

添え書きに「大友分隊長をかこんで」と書かれています。
9期会の旗の左で杖を手に座っているご老人のすぐ後ろの白髪のおじさんがそうなんだろうと思います。
明治32年(1899年)生まれらしいので、昭和40年(1965)は66歳です。
9期生は40歳ちょい過ぎぐらいです。



平山さんのことを調べようとして大友分隊長にいっちゃいました(^^;)
これから瑞鶴、読みます。


※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供

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