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乙9期 平山繁樹さん その後2019年10月14日 00時01分48秒

わたしは2012年から9期生のことを調べています。
最初は、羽藤さんのアルバムに写っている9期生(氏名不明)と、「九期生名簿」の「おもいで」の9期生(お顔不明)を一致させたくて調べ始めました。

調べていてわかったこと、情報提供いただいたことなど、ここに書いています。

書いていることの中心は戦没者のことです。



9期生は開戦時18~20歳、終戦時で21~24歳ぐらい(満年齢)。
恋人や婚約者、奥さんがいてもおかしくはない年齢です。

わたしがいまままで連絡が取れたご遺族の方で、
「じつは結婚していました」
って言われた方はひとりもいませんでした。

「婚約者はいました」
って方は複数いました。

ほとんどは、
「いや、たぶん恋人もいなかったと思う」
「いやー、(恋人も)わからないです」
というお答えでした。



9期のことを調べ始めた2012年に「九期生名簿」を見せてもらっているんですが、その名簿には戦没者のご遺族欄があります。
そこにご遺族が「妻」と書かれている人が4人だけいます。160余人の戦没者を出しながら、奥さんがいた人が4人だけ・・・・。ほとんどが家庭も持たないまま亡くなってしまったのかと思うと胸が締め付けられるのですが、逆に(おそらく新婚で)奥さんを残して戦死してしまった9期生、若くして旦那さんを失ってしまった奥さんがいたかと思うとホントにもうことばになりません。
※4人のうちのお一人は生存者が自分の手記に「○○くんには息子がいる」と実名で書いています。お孫さんがいることも把握しています。が、連絡はとれていません。


ほとんどの人は独身のまま、結婚していた4人も一人を除いて子どもも残さないまま亡くなった
・・・・そう思っていました。

わたしの中では、9期戦没者のほとんどの方が亡くなったその時点でその人の時間が止まったままになってしまっていたのです。








先日、9期生のご遺族の方から連絡が来ました、って話を書きましたが、連絡をくださったのは偵察員の平山繁樹さんのご遺族の方です。


福岡出身、偵察。
開戦時加賀、加賀沈没後は瑞鶴、横空(特練)、瑞鶴、横空、752空攻撃501飛行隊。
艦攻、艦爆、艦偵、陸爆と飛び続けた歴戦の搭乗員です。

平山さんは19年10月14日、台湾沖航空戦においてK501(銀河)・飛行隊長丸山宰平少佐の偵察員として出撃し、還らぬ人となりました。

平山さんのことは、以前、一度書いています

予科練卒業アルバムより、倶楽部でくつろぐ平山さん。






今回連絡をくださった方、メールに、

「平山繁樹の孫です」

って書かれていたんです。

孫? え? 孫?

「えっーー!?」

って叫んじゃいましたよ。何回も。

わかりますか? わたしがこのことばを見たときの気持ち。



もちろん、結婚していたことは知っていました。
奥さんも探しました。
といってもネットで検索するぐらいのことしかできませんので、何の情報も得られませんでした。


生存者が手記に書いていた、息子さんがいる戦没者は平山さんではありません。
わたしは、平山さんはお子さんがないまま亡くなったと思っていました。
平山さんにお孫さん(ということは子どもさんも)がいたことがわかり、めちゃくちゃ驚いて、めちゃくちゃ歓喜しました。




お孫さんからのメールには、父も存命しているが祖父の情報をほとんど持っていないので情報をいただけませんか、父と一緒に直接会って話をうかがいたい、と書かれてありました。


もう、うれしくってですねー。

↑ホントは「うれしい」ってことばで済ませていいのか?ってぐらいの気持です






予科練生のことを思うときよく夢想するんですが、
「撃墜されたあとどこかに漂着して、その土地の人間として生き、そこで人知れず子孫を残して楽しく暮らしていたらいいのにな」
って。
そのことをわたしが知らなくてもいい、そういう人生を歩んでいる人が一人でもいればいいのにな、って思います。過去形ではなくいまでもそう思いながらかれらのことを調べています。

知らなくてもいいからどこかで生きていてくれたら・・・・命をつないでいてくれたら・・・・と思っているぐらいなので、それを「知りえた」ときの感激、わかりますか?
しかも南海の島とかではなく、近所だったとか!?


「直接会って話をうかがいたい」と言われたときは、もちろん答えは「はいっ!」一択だったのですが、
(平山さん、福岡だよな・・・・?)
ってそのことが頭をよぎりました。
久し振りに宮崎に帰って、こっちに戻ってくるときに福岡に寄って会うかー、と考えてみたり。
お孫さんに「どちらにお住まいですか?」って聞いたら、なんか聞いたことがある地名だったんです。
わたしの職場よりずっとずっと近いところにいてはったんです、平山さんの息子さんとお孫さん。
そりゃもう驚きました。


まだお目にかかっていませんがそのうちお目にかかれるかな。
いや、じつはもうどこかでニアミスしているかも?(^^;)





お孫さんが「お守りにしている」という繁樹さんの遺品の画像を送ってくださいました。
ベルトのバックル。
「2603」
これは皇紀ですね。皇紀2603年。昭和18年。1943年。
「特偵」
これは特修科練習生・偵察です。
一人前の搭乗員(偵察員)の中から選抜してさらに上のレベルの偵察員に養成するコースです。
優秀な人が選ばれていると思います。


「第一期特修科 偵察練習生 平山」
特練自体はもっと以前からあったらしいですが、「偵察」というコースができたのがこのときで、だから「第一期」となっているそうです。※Kさんご教示
このとき、というのは昭和17年11月末~18年5月末ですかね。平山さんが瑞鶴から横須賀航空隊に転勤してから半年間、ここが特練偵察1期の時期に該当するんだと思います。

このバックルのことをネットで検索してみたのですが、まったくわかりませんでした。
特練の課程を終えた人が全員もらえたものなのか、それとも特別に成績優秀者がもらったものなのか?
特練11期(偵察2期)を出ている田中三也さんの手記にはこのバックルのことは出てきませんね。

ちなみに特練を出た平山さんは瑞鶴に戻って艦偵(二式艦偵らしい、Yさんご教示)の偵察員になっています。
18年11月5日、ブーゲンビル島沖航空戦において、まず敵機動部隊を発見したのは翔鶴の艦偵、その後、瑞鶴の艦偵がもう一度偵察に出るも敵機と交戦して偵察員が行方不明・操縦員救助。その後、もう1機瑞鶴の艦偵が偵察に出て再び敵機動部隊を発見します。これが平山さんの艦偵です。
※大澤昇次さんの『最後の雷撃機』には瑞鳳の賀来準吾さん(8期)も敵艦隊を発見したと書いてあります


『予科練外史』(倉町秋次)より
カビエンに三泊してラバウルに帰ると、九期の平山繁樹上飛曹がにこにこしながら指揮所に上がってきて唐突に、「教官、あれは私が見付けたのですよ。」
と言う。
「五日のかい。あの大戦果の。」
「そうです。一時間ばかり触接していました。」
と小鼻をおごめかせる。既述のように彼は空母「瑞鶴」の艦上偵察機の搭乗員として、一二五五、敵大部隊を発見、触接して、上野たちの出撃の直接の引き金となったのである。




島田清守さんの予科練時代の日記にも、平山さんのことが書かれていました。

14年8月25日
角力は分隊対抗の競技あり。二十三対二十四分隊、四十三対四十で負けた。終りて特別角力競技者として分隊で二名づつ出た。二十四分隊では二十三分隊の分迠出て、井上三、井野、平山、西村であった。優勝者三人抜きは九期井上三、平山で、十期は河村で合計三名であった。だが乙種ばかり、甲種がいない。全く喜しかった。

角力で活躍していたことは戦後に生存者が編集した「九期生名簿」の「おもいで」にも書かれています。

予科練の角力(すもう)。
平山さんが写っている角力写真がないか探したのですが、取り組みをしている人は特にお顔がちゃんと写っていないのでわからなかったです。
控えている選手?の中にも、見学者の中にも見当たらないです。









あと、お渡ししようと思って写真を探していたら、まだありました。


3枚とも予科練・横須賀時代、ラグビー試合見学時(明治対早稲田 13年秋)のものです。








先日、お孫さんが息子さん(赤ちゃん)をつれて春日大社に行かれたそうです。

平山さんも飛練鈴鹿時代(一種軍装なので15年12月~16年5月ごろ)に奈良橿原行軍があり、春日大社に来ています。
春日大社南門。

平山さん。鈴鹿時代なので二十歳ごろでしょうか。

この集合写真と同じアングル、南門の前でお孫さんが自分の息子さんを抱っこして写っている写真を見せてもらいました。


すごく不思議な気分になる写真でした。

平山さん、お孫さん、ひまごちゃん・・・・約80年の時を超えて同じ場所に立っているってのが、ホント、なんとも・・・・奇跡のようで。

お孫さんの話だと、平山さんは子どもができていることを知らないまま戦死した可能性もあるとのこと。
お孫さん、平山さんにめっちゃ似ているんです。
赤ちゃんを抱っこしているお孫さんを見て、まるで平山さんがそうしているような・・・・。
お父さんが自分の子どもを抱っこ――という当たり前のような光景――ただ、平山さんはそれがかなわなかった・・・・。その姿をお孫さんが見せてくれたことが奇跡のように思えました。




9期の戦死者は18~23歳ぐらいです。
わたしが把握しているかぎり、戦死された中に24歳を迎えた人はいません。
平山さんも23歳7か月。

わたしはかれらの時間はその瞬間に止まってしまったものと思っていました。





しかし、平山さんの時間は昭和19年10月14日の台湾沖で止まってはいなかった。

平山さんは亡くなっても、お父さんになり、おじいちゃんになり、そしてひいおじいちゃんになっていました。





ホントに人の縁って不思議です。

お孫さんの奥さんが赤ちゃんと昼寝をしているときに、横に繁樹さんのような人がいる夢を見たんだそうです。
それで繁樹さんの名前で検索してわたしのブログを見つけたそうです。


亡くなった方が、こうやって人と人の縁をつないでくれるんだなあ・・・・。


※画像は9期生ご遺族、平山さんご提供