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乙9期 山田一作さん2019年10月10日 14時10分22秒

昭和13年6月1日入隊の9期生199名の中で、ただおひとり氏名入り班写真に写っていないのがこの山田一作さんです。

なぜか?

わかりません(^^;)


入隊直後の早い時期に撮られたと思われる新潟県出身9期生の集合写真には写っています。



1学年時は4班なんですけどね。
氏名入り班写真には写っていないんです。



島田清守さんのアルバムに貼ってあった写真です。
最初に肉眼で見たときは「こりゃわからんな」と思ったのですが、スキャンしてみたら山田一作さんでした。
軍帽のペンネントは横須賀っぽいです。階級章もないのでおそらく横須賀時代の13年6~8月。



この写真は霞ヶ浦に移転して最初の桜シーズンだと思います。14年4月ごろ。
外出、みな、ウキウキ♪
山田さんもいまーす(赤○)








霞ヶ浦の4班集合写真から。
前列中央の熊谷教員が転勤するのに際して撮られた集合写真です。14年5月。





操偵検査。14年6月。

前列左から柳川健さん(5班)、教員、亀山一郎さん(5班)
後列左から熊谷賢一さん(5班)、島田清守さん(4班)、轟木サトルさん(5班)、山田さん(4班)
こういう構成ですね。





8期卒業に際しての新潟県出身乙飛生の集合写真です。
卒業式当日の9月1日かな?
あ、理由は8期生のペンネントの「横須賀海兵団です。

あれ? 新潟って舞鶴鎮守府の管轄じゃないの?

卒業時(15年11月)はそうなんですけどね。
13年6月に入隊した時は新潟は横須賀鎮守府でした。

14年末に舞鶴鎮守府が復活したため、新潟の人たちは舞鶴管轄になりました。


というわけで(←まとめが雑すぎ(笑))、14年9月に卒業した新潟の8期生たちは管轄がまだ横須賀だったんです。
予科練の場所が霞ヶ浦海軍航空隊にも関わらず8期生が「横須賀海兵団」のペンネントをつけているのは卒業式当日だから管轄の鎮守府の海兵団のペンネントをつけているのだろう、と。
しかしなぜか8期卒業生の中でお一人だけ「横須賀海軍航空隊」なんですよね。・・・・理由はわかりません。
卒業しない9期、10期、11期生は「霞ヶ浦海軍航空隊」のペンネントです。予科練に残った8期の持田竹雄さんも。

ちなみにこれは新潟だけではありません。9期の場合、14年末の舞鎮復活で山形、新潟が横須賀鎮守府から舞鶴鎮守府へ、滋賀、福井、石川、富山が呉鎮守府から舞鶴鎮守府に変更になりました。

なのでこの人たちは兵籍番号が2回変わったんですよ。
入隊時の「横志空」、「呉志空」の番号→14年末に舞鎮が復活したのを機に「舞志空」→16年6月に航空科が飛行科に名称変更したために「舞志飛」。

他の9期生は16年6月の「○志空」→「○志飛」(○は横、呉、佐いずれか)の変更だけです。”だけ”というのもヘンな話ですが(^^;)
16年6月以降に海軍に入隊した兵隊さんは兵籍番号は1つのはずです。





山田さんつづき。
これは15年1月の足柄での艦務実習かなあ、と思っています。



卒業アルバムの寄せ書き。




「おもいで」

「大人しい奴だったが、ラグビーでは、ガンガンぶつかってゆくファイトマン」

「ラグビーの二宮尊道教授を小型にしたようなタイプ」

「越後人にしては烈しい闘志の持ち主。俺が利根に転勤して行ったら艦隊での九期は彼一人、セレター基地で大いに歓迎してくれた。それ以来一緒に行動し、二十年三月二十四日、菊水作戦で彼が「彩雲」を駆って沖縄偵察に出発するのを鹿屋基地で見送ったのが最後になった」





飛練鈴鹿

橿原神宮の北神門にて



これはどこかわかりません。
藤原国雄さんの班写真。



これは隊内かな。
藤原さんの班写真。




飛練博多
卒業式の集合写真。
16年10月末。




博多の飛練を卒業後は讃岐丸。
その後ケガをして、教員などをしながら復帰したみたいです。



20年3月24日  偵察11  沖縄南東方面




わたしは山田さんの戦死状況に関しては把握していません。

同期生の本間猛さん(旧姓・石塚さん)が山田さんと最後に会ったときのことを手記に書いているので、引用させてもらいます。
(光人社NF文庫『予科練の空』)

三月二十四日、級友山田一作との袂別の日となった。もうこのころには、兵馬倥偬(こうそう)の間というか、日にちも曜日もなかった。連日の激戦で彩雲隊も犠牲がつづき、毎日の新旧交替で、隊員の顔も定まらずという感じだった。四、五日も前に新人隊員が転勤して来たなと思うと、その人が索敵飛行に出て一回目の飛行で未帰還というようなことも珍しくなく、朝に新人を迎えて夕に旧人を送るというあわただしい日々であった。山田は共に先任搭乗員の立場にあった歴戦の士で、お互いにちょっとやそっとでは死なないぞ、というような信頼感、安心感みたいなものがあった。だから、その日も特別にどうのこうのということもなく、
「一作、お前、きょう飛ぶのか」
「そうだ、石塚。お前、一昨々日の機動部隊上空通過はどうだった。うまくいったらしいが・・・・」
「おー、あんなことは零式水偵では、とても考えられない話だ。彩雲なればこそだね。一万メートルの上空から箱庭を見る感じだったな」
「そうか、まったく零水偵とちがい、彩雲は高性能だし、航法は、艦に帰るのとちがって九州が目標だし、見張りだけだな。見張り第一だよ」といって飛び立って行ったが、彼はそれっきり帰ってこなかった。
(一作、長いあいだご苦労だったな。ゆっくりと休めよ。いずれ近いうちに、おれもゆくからな)
連日の激しい消耗の中で、淡々とした別れになってしまったが、夜、床につくと、彼にまつわる回想が、つぎつぎに浮かんできた。
昭和十三年の初夏、はじめて追浜で顔を合わせたとき、こいつ、ずいぶんと色の黒い小柄な奴だな、よくこれで予科練にうかったな、色は黒いし、体は小づくりだし、これでは山田一作ではなく黒田小作だな、と思った。そのとき、新聞社が郷土版に載せる少年航空兵の写真を撮っていたが、「新潟県集まれ」というので、集まると、黒田小作も仲間に入ってきた。
「お前、新潟か?」と。私が聞くと、
「●●郡だ。▲▲の近くだ。お前はどこだ」ときた。
「××だ。■■といって、○○の向かいだ」と答えると、
「××の■■と越後の▲▲か。
(ここからさき地元ネタになるので省略。地名はわたしが改変) 因縁浅からずだ。同県人のよしみで、よろしく頼む」と、人を喰った挨拶だ。
ところが、それから予科練、飛練生活と、三年半も生活がいっしょだったが、この黒田小作ならぬ山田一作は学業も優秀なら運動神経も発達していた。ファイトがあって要領もよく、越後人には珍しいセンスの持ち主で、予科練時代から名ラガーとして、彼の俊足とその闘志は、後輩たちの目にとまったはずである。
残り少ないクラスの仲間から、また一人惜しい男が死んでしまい、とうとう自分も一人になってしまった。七年前に二百人が飛行機に憧れて入隊したのに、いま、こうして第一線にいるのは、ひょっとすると、おれ一人ではないだろうか。もうこうなると、生きていても面白いこともないし、同期がみんないっているところにゆくのも悪くないなと思う。しかし、いや待てよ、山田が飛んだのは沖縄だ。太平洋の真ん中ではないから、どこかの島へ不時着してして、そのうち、ひょっこりと、「石、いま帰ってきた。ゆっくり静養してきたぞ」と元気な顔を出さないとも限らない。いやきっとそうだ。現に先日、上別府飛曹長の例もある。などと眠れないまま、あれこれの思いに一縷の望みをつないだ。






あー。
もしかしたら、冒頭に出した写真は、本間さん言うところの「新聞社が郷土版に載せる少年航空兵の写真」なのかも。
これの正面からの写真を9期生のアルバムで見たことがないんです。
斜めから撮った写真は新潟の他に静岡、熊本、香川の分が手元にあります。

静岡

熊本

香川


ここまできてようやく「あー」って腑に落ちました。


島田清守さんの遺品の中に、新聞の切り抜きがあったんですよ。
昭和12年6月に横須賀の予科練に入隊した8期生、地元出身者を紹介した埼玉の新聞の切り抜きです。

これが例の写真の正面版、正式版なんですよ、たぶん。
前列中央の練習生が県名が書かれた紙を持っています。

なんでいままで気づかなかったんだろう?



毎年、入隊直後にこれを撮っていたんでしょう。

9期生のアルバムに貼られていた斜めの写真は脇から予科練の関係者が撮ったのかな?
ちゃんと正面からの正式な分はみなの地元の新聞に載ったんでしょうね。それはわたしは目にしたことがありません。いつの日か見れるといいな。





※画像は9期生ご遺族ご提供。

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