乙9期 上原信之さん ― 2019年02月27日 13時55分12秒
山口県出身。
偵察、中攻。

氏名入り班写真、1学年5班。
藤原国雄さんと予科練、飛練で同班、実施部隊でも一緒で、その関係の写真があります。

前列左・戸川衛さん、右・上原さん。
後列左から藤原国雄さん、益田増雄さん、亀山一郎さん。
5班メンバーです。
階級章がついていないです。入隊間もない頃でしょう。13年6月。初々しいです。

5班。横須賀。


13年10月、辻堂演習宿舎。
一緒に写っているのは9期5班の一部と8期生の何班かの一部だと思います。


同じく辻堂宿舎。教員を囲んで和気藹々。


14年6月、操偵適性検査。
5班集合写真。


この写真が何かよくわからないんですよね・・・・。
坂田清一さんの遺品の中にありました。
野外演習でしょうか。習志野だろうか?
他期の人も写っています。
9期で写っているのは、偵察に進んだ練習生が数名・・・・。

【飛練鈴鹿】

鈴鹿でも上原さんは藤原さんと同班だったようで。



【飛練大分】

【大型機講習木更津】

木更津で大型機講習を終えたあとは高雄空に配属。
17年10月1日に753空に改称したあともそのまま。
藤原国雄さんは大型機講習のあとは鹿屋空に配属されたのですが、17年5月末に高雄空に転勤になっています。
そこで上原さんと再会したのだろうと思います。
【実施部隊】

藤原さんの遺品の中に、上原さんが一緒に写った写真がありました。
前のお二人はどなたか不明。後ろ左は藤原さん、右が上原さん。
下士官の二種。17年夏、高雄空時代、インドネシアかな?
おもいで
予科練一学年当時五班だったね。山口は萩の話をよくしてくれた。松陰魂と言おうか、いつも笑顔を忘れなかった。そしてよく頑張った文武の道をわきまえた典型的な武人の卵。
出処進退をわきまえたというか、年齢に似合わず要を得て合理的な人だった。
出処進退をわきまえたというか、年齢に似合わず要を得て合理的な人だった。
18年5月28日 753空 ソロモン
と、戦没者名簿に書いていますが訂正します。
行動調書では「バボ基地発進」で「ステワード飛行場並軍事施設攻撃」になっていました。
この日のことは佐藤暢彦さんの『一式陸攻戦史』にも書かれていました。
(十八年五月二十八日)新しく発見されたミリンギンビ飛行場の攻撃だ。ダーウィンから東におよそ四〇〇キロ、スチュワート岬の近くにあるこの飛行場の攻撃のため(この章で取り上げている鎌田直躬)一飛曹らは西部ニューギニアのバボ飛行場に進出、途中ケイ諸島のラングール基地に前進している零戦隊と合同、進撃する計画が立てられた。

上原さんはふだんはケンダリーかクーパン。
この攻撃のためバボ基地に移ってそこから攻撃に出たようです。。攻撃目標手前で邀撃に上って来た敵機の攻撃を受け、上原さんの搭乗機は、
「被弾片舷航行 分離 その後行方不明」(行動調書)
上原さん搭乗機以外にも、自爆1、不時着機1。
『一式陸攻戦史』によると、
実は最初の爆撃針路に入る前、指揮官機が航法を誤り、目標に対して左から進入する予定を右から入ってしまい、やり直しのため引き返しをしたことも被害を大きくした要因だった。都合四回、敵地上空を往来したわけで、その様子はオーストラリア軍の公刊戦史にも異常な行動として記録されている。
18年5月28日 753空 ミリンギンビ飛行場攻撃
※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供。
佐藤暢彦『一式陸攻戦史』潮書房光人社
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