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乙9期 川原与三郎さん2019年02月07日 09時22分20秒

青森県出身、偵察、中攻。


川原さんは入隊前の集合写真に写っていました。



1学年3班。
採血でもしたんでしょうか? 入隊直後の氏名入り班写真には、耳たぶに白い絆創膏みたいなものをつけている練習生が何人かいます。


3班、あまり集合写真ないんですよね。

大楠山、お弁当の時間。

おにぎり? 食べていますね。
左利きか?



操偵検査。
萩谷さん(2班、前列左)の遺品の中にありました。

後列右端。


卒業間際、偵察班集合写真。





飛練・鈴鹿時代
運動会で優勝したときの集合写真ですね。
どういうメンツかわかりません。何か競技別のグループかな?



これも運動会の優勝旗と写っていますが、こちらは班です。
島田清守さんの遺品の中にあったもの。



これも班です。上の写真の、前川教員抜きのバージョン(立ち位置は一部入れ替わっています)。



川原さんは実用機飛練は宇佐なので、その時期の写真は未発見です。


大型機講習・木更津時代


これ・・・・。
川原さんだと思うんですよね。
島田清守さんの遺品の中にありました。
謎です。

川原さんだとしたら、実用機飛練の宇佐か大型機講習の木更津だと思うのですが・・・・。島田さんはいつこの写真を入手したのだろうか?

会った、会わないの話をしたら、お二人は鈴鹿を卒業(16年7月末)して以来、会う機会はなかったんじゃないかと思うんです。
鈴鹿時代同班だったので、別れてからも手紙のやりとりがあった可能性はあります。
郵便で受け取ったのだろうか?

島田さんの遺品の中には他にも中攻偵察に進んだ鶴見堅三さん、鈴木俊夫さん、本間秀人さん、蒲田栄作さんの任官記念写真(16年10月)があったので、鈴鹿以降も中攻偵察の誰かと手紙・写真のやりとりがあった可能性はありますけど・・・・。手紙現物は残っていなかったですね・・・・。




おもいで
与三郎は二人いたが君は豪傑与三だ。

切られ与三さんを連想する(ぴったりかな)。

少年航空兵のくせに酒焼けしたような赤ら顔。無理もない。どぶろくの故郷青森の産だもの。十七年の正月、わたしがまだ佐空にいたとき、(一足先に行っているぞ)と台湾に発ったが、素朴な人柄はいつまでも忘れられない。




鹿屋空、木更津空、707空、705空。


18年2月2日   705空  ガダルカナル島


同じ日に9期、705空の島子栄二さんと新井誠二さんがブナカナウ(ラバウル)から敵空母攻撃に出て戦死されているのですが、川原さんはかれらとは別作戦で、哨戒中の行方不明です。
ブナカナウ 0430発進 哨戒 行方不明
「敵水偵機と空戦 行方不明」




行動調書によると、川原さんは主電信員。
ペアの主偵察員「上飛曹 西義武」とあるのですが、たぶん7期の西義武さんのことだと思うんです。
しかし、西さんは操縦員ですね。
705空時代の他の日の編制表もざっと見てみたんですが、西さん、偵察員欄にお名前があります、どうして?
山口良一さんの予科練操縦専修生時代の班写真に一緒に写っています。

同姓同名同階級の人がいたのかな?とも思ったのですが、『予科練のつばさ』の巻末名簿によると西さんは、
18・2・2 705空 西南太平洋ソロモン/バラレ基地発進のまま帰還せず(バラレ基地170度650カイリ付近にて敵機発見)
となっています。
発進基地が行動調書と違っていますが、この日の705空の行動調書にバラレ基地発進の作戦は書かれていないので、おそらく川原さんの乗っていた飛行機のことだと思うんです。
やはり主偵察員は7期の西さんということですね。
単に書く欄を間違えているだけなのか、事情があってどこかの時点で操縦員から偵察員にかわったのか?

『予科練のつばさ』の西さんの戦死状況の出どころはわたしにはわかりませんが、西さん個人の情報(戦死公報とか)にそう書かれてあるのかもしれません。ちょっとわかりません。

川原さんがペアだったとしたら川原さんも同じ状況だったかと。




※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供

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