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ある不時着2018年10月18日 08時56分06秒

石田勝さん(左)と一緒に写っている伊藤誠一さん(右)



以前、伊藤さんの個人記事を書いたときに、倉町先生が伊藤さんから聞いたと思われる不時着の話をちょっとかいつまんで紹介しました。

ここの後半です。

千歳空時代の17年10月21日、ウェーク島から哨戒に出て海上に不時着、ゴム筏で漂流のち、三日後に救助された――という話です。



わたし、『予科練外史』は9期生のお名前にはマーカーで印をつけ、さらに付箋を貼ってすぐにわかるようにしているんですが、それ以外のクラスの人は特に何も印をつけていません。

今日、ある9期生の個人記事を書こうと思って、
「そういえば、あの人のこと、『予科練外史』に書いてあったな」
とマーカーを頼りに探していました。

で、見つけちゃったんですよ。
マーカーをつけていないお名前を。
伊藤さん遭難の記事の冒頭部分です。

『さて、二十一日M3区哨戒に出て行方不明になった千歳空陸攻の捜索は、翌二十二日から実施された。乙八期の岡宮祐二飛曹(千歳空の陸攻の操縦員)も捜索にあたった一人である』

あ。

岡宮さん。
わたしが6年以上、「この人、誰、誰?」と言い続けてきた、「謎の三空曹」こと8期の岡宮祐さん。

岡宮さんだとわかったのが今年の5月なので、『予科練外史』を読んだときには読み飛ばしてしまっていたようです。ここに岡宮さんのお名前があることに気づいていませんでした。

倉町先生によると、岡宮さんの手記の引用だそうです。
『――十月二十三日、捜索は今日も続けたが、相変わらず見えるのは波頭ばかり。昨日は、ロギンリッタ、今日はピギンニを低空飛行する。不時着機よ何処へ行ったのか・・・・。もう断念するより外はない・・・・。吾々は海上に不時着したらもう断念するより仕方がない。
二十四日、奇蹟が報ぜられた。全くの奇蹟である。不時着、行方不明機の八名が全員生存していたそうだ。ルオットに向けて十四日に横須賀を出港した補給船「那岐山丸」(十一航艦所属)に救助されて二十五日にはルオットに入港するという。あきらめて、今日で捜索は打ち切りという時だったので余計に嬉しかった。救助の電報を受け取った通信長は雀躍りをして喜んだそうだ。
丸三日漂流したのだからよく頑張ったものと思う。人間は最後の最後まで頑張らねばならぬ。最後の瞬間まで自暴自棄になってはならぬ。人事を尽くして天命を待つ。もし、吾にしてこのことあれば、生きられるだけ生きなければならぬ。而して後は天の命ずるままに従えばよいのである。――』

「この奇蹟は、岡宮の人生観をも変えたようであった」という倉町先生は、これを書いた時点で果たして岡宮さんの最期をご存じだったのだろうか。




翌月の11月12日、岡宮さんはルンガ泊地攻撃で戦死。


岡宮さんのことは5月に書いていますが、あの話には訂正と続きがあります。



※画像は9期生ご遺族ご提供