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甲2期 佐藤份さん2018年09月23日 07時44分00秒

久保さんの大村教員時代の集合写真に写っていた「佐藤」と書き込みのあった教員。

飛練29期(乙15)卒業写真

飛練30期(丙)卒業写真

Kさん情報によると、甲2期の佐藤份(さかん)さんだそうです。

やはり18年11月1日付で飛曹長に進級されていました。

高知県出身、真珠湾攻撃時瑞鶴艦攻隊。
珊瑚海海戦、南太平洋海戦にも参加した歴戦の艦攻乗りです。

じ、実はですね。
前に9期の堂前清作さんのことを書いたときに、
『飛練卒業後は翔鶴、のち瑞鶴。
17年10月26日、南太平洋海戦に瑞鶴隊艦攻電信員として参加して生還、
そのときのペアの偵察員が金田数正特務少尉』
とかとか書いているんですが。
偵察員が金田さんってことだけ書いて、操縦員のことを書いていませんね。
このときの金田さん(偵)、堂前さん(電)のペアの操縦員がこの佐藤份1飛曹だったのです。
堂前さんの瑞鶴時代のペアの操縦員だったと。
うーん、海軍、狭い・・・・。



艦隊の艦攻操縦員でしたが、大村空教員(教官)を経て銀河(陸爆)に。

攻撃501飛行隊、19年12月25日、サイパン爆撃で戦死されています。

佐藤さんは森本秀雄少佐(兵63、飛行隊長)機の操縦員でした。
電信員は普電練49期の畑山佐一郎上飛曹。
隊長機の操縦員といったらそりゃもう腕に折り紙付きでしょう。
隊長の森本少佐は「せめて正月ぐらいはB29の空襲から本土を守ろう」と言って、クリスマスのこの日、自ら隊を率いて出撃されたそうです。

香取、硫黄島(給油)、サイパン――の往復は増槽をつけてもギリギリの距離で、かなり悲壮な攻撃だったのではないかと思います。
6機出撃して2機未帰還。


このときのサイパン攻撃は、わたしはずいぶん前に神野正美さんの『攻撃501飛行隊の記録』で読んで、とても印象に残っていました。

『香取を出発前、整備員が爆弾に【Merry Christmas】とペイントして「頑張ってください」と送り出してくれました』
という熊野弘さんの回想です。
クリスマスに、こんな爆弾を抱えてサイパン飛行場を爆撃に行った、ということでこの話が印象に残っていました。



同じ隊だった井手上二夫さん(乙15)の回想
『佐藤先輩には昭和18年6月から9月まで、大村空で攻撃の指導を受け、小生他2名を、第1航空戦隊の601空艦攻隊(後の攻撃262飛行隊)に選んでいただいた教員でした』

ということは、先日出した飛練29期の集合写真の後ろの練習生の中に、井手上さんもいらっしゃるんでしょうね。

『その後、昭和19年10月12日の台湾沖航空戦の際に、小禄基地で艦攻隊が到着するという事で、多数の方々が迎えてくれました。佐藤飛曹長もその中におられました。これが第1回目の再会でした。
佐藤飛曹長は、わたしが南方で戦死したものと思われていましたが、元気に働いている事に大変喜んでくれました。そうして、私達の出撃を見送ってくれました。
私達は攻撃の後に、沖縄に寄る事なく、宮古島に緊急着陸して宮崎に直行で帰投しました。
そこでは、すでに攻撃501飛行隊に転勤の命が下っておりました。
本隊は木更津基地でしたが、数日後、豊橋基地に移動、1隊はフィリピンへ、他の1隊は宮崎基地に移動して、Q区哨戒・・・・、私も2回哨戒飛行(750浬)に参加しました。そして、12月初旬に香取基地に移動しました。
この香取に突然、佐藤先輩が転勤して参られました。これが2度目の再会でした。私がまたも元気で勤務している姿を見て、「不死身だな!」と、大変にビックリされました。
先輩は小禄基地の空襲で、裸一貫でしたので、他の後輩に依頼する事なく、私が下着から飛行服まで、身の回りの品全部を用達してあげた記憶が鮮明に蘇ります。
飛曹長は私が台湾沖で戦死したものと信じておられたようで、再会をお喜びいただいた次第でした。
そうこうしている内に、サイパン攻撃の命令が命ぜられた』





第762海軍航空隊(攻撃501飛行隊)勤務中19年12月25日「サイパン」攻撃ノタメ硫黄島基地発進敵ノ防御砲火ヲ冒シ「アスリート」飛行場ヲ爆撃多大ノ戦果ヲ収メ帰途ニ就ケルモ被弾ニヨリ燃料不足片舷飛行中硫黄島150度300浬不時着以後行方不明ノトコロ同日付戦死セルモノト認定





※画像は久保さんご提供
神野正美『攻撃501飛行隊の記録』
Kさんご教示

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