乙9期 新井誠二さん ― 2018年03月04日 12時03分14秒
茨城県出身。
偵察、中攻。
偵察、中攻。

1学年時は9班。
新井さんの写真、あまりないんですが、レア写真があります。

予科練入隊前の写真です。
萩谷幾久男さん(茨城県)のアルバムにありました。
9期は茨城の萩谷さん、野村茂さん、新井さん、千葉出身の木村裕さんが写っています。
あと10期生のお顔がちらほら。
萩谷幾久男さん(茨城県)のアルバムにありました。
9期は茨城の萩谷さん、野村茂さん、新井さん、千葉出身の木村裕さんが写っています。
あと10期生のお顔がちらほら。

新井さん。
というわけで、萩谷さんが持っていた茨城県出身者の集合写真に写っています。
というわけで、萩谷さんが持っていた茨城県出身者の集合写真に写っています。

横須賀。
たぶん7~9期。
たぶん7~9期。


霞ヶ浦。
8~10期。
8~10期。


霞ヶ浦。
たぶん8~11期。
たぶん8~11期。

これは15年3~4月の艦務実習。山城。偵察分隊の一部。

この写真、日の当たり具合があまりよくなくて、みんなの顔がコワいです(汗)

飛練鈴鹿時代。たぶん倶楽部。

前でしゃがんでいる左が新井さん。

たぶん鈴鹿の新井さんの班。

後列の右から3人目。

飛練実用機、大分。


木更津の大型機講習。


わたしの手元にある新井さんの写真で一番新しいのは16年末のこの集合写真です。
このあと、鹿屋空、木更津空、707空、705空。
大型機講習後鹿屋空に配属になった9期生たちは戦地を経て内地に戻ってから4月に残留組と転勤組に別れました。鹿屋空の9期生。
新井さんは転勤組で、木更津空に転勤。なので例の鹿屋空同期会の集合写真には写っていません。
おもいで
「いまにして思えば丸々と太った顏、そして細いまなざし、童顔とは君の面影が起源のように思える。そして魅力的な声・・・・」
「顔も体も丸くがっちりしていたが、心まで丸く暖かかった」
「同県人。おとなしく円満。水戸っ子にもこんな人もいるのかと敬服していた。こだわりのない態度は尊敬に値する」
18年2月2日 705空 ニューギニア
と、名簿には書いてありますが。
島子栄二さんが同じ状況で戦死されています。
島子さんのところに書いたことを転記します。
『(島子さんは)名簿では戦死場所が「西太平洋海域」になっていますが(同じ攻撃で戦死した新井誠二さんは「ニューギニア」)、『第705海軍航空隊史』の18年2月2日の記述は以下の通りです。
『攻撃待機、1400、雷装14機ブナカナウ発進、サンクリストバル島付近出現の敵機動部隊反転のため引き返し、セントジョージ岬付近天候不良のため編隊分離指揮官三原少佐機は2番機と接触して墜落、高村中尉、永野大尉機ら5機33名戦死』
このとき指揮官搭乗機と接触した2番機の主偵察員は谷村博明さんです(2番機無事)。
行方不明になった5機のうち、篠崎中尉機は海上に不時着、十日あまり漂流のち4名生還(行動調書では5名生還)。
永野大尉機にも生還者がいて(5名)、そのうちの一人は9期の牛澤四郎1飛曹です。
行動調書には上のことは書かれておらず「敵を見ず引返す」だけ。
「敵を見ず引返す」で、どうしてこんな悲惨なことになったのか――。
悪天候ゆえの惨事なのでしょうか』
いまだにわたしはこの件に関しては、どこで何が起こったのかよくわかっていません。
遭難がセントジョージ岬付近の天候悪化が原因だとすると、かなり基地に近い場所まで引き返していて遭難した可能性が高いってことですかね。
わたしは「ニューギニア」と書かれると、ラエとかモレスビーのあった、あっち方面を連想するのですが、たぶん、地域的には違う場所ですね。
※画像は9期生ご遺族ご提供
このあと、鹿屋空、木更津空、707空、705空。
大型機講習後鹿屋空に配属になった9期生たちは戦地を経て内地に戻ってから4月に残留組と転勤組に別れました。鹿屋空の9期生。
新井さんは転勤組で、木更津空に転勤。なので例の鹿屋空同期会の集合写真には写っていません。
おもいで
「いまにして思えば丸々と太った顏、そして細いまなざし、童顔とは君の面影が起源のように思える。そして魅力的な声・・・・」
「顔も体も丸くがっちりしていたが、心まで丸く暖かかった」
「同県人。おとなしく円満。水戸っ子にもこんな人もいるのかと敬服していた。こだわりのない態度は尊敬に値する」
18年2月2日 705空 ニューギニア
と、名簿には書いてありますが。
島子栄二さんが同じ状況で戦死されています。
島子さんのところに書いたことを転記します。
『(島子さんは)名簿では戦死場所が「西太平洋海域」になっていますが(同じ攻撃で戦死した新井誠二さんは「ニューギニア」)、『第705海軍航空隊史』の18年2月2日の記述は以下の通りです。
『攻撃待機、1400、雷装14機ブナカナウ発進、サンクリストバル島付近出現の敵機動部隊反転のため引き返し、セントジョージ岬付近天候不良のため編隊分離指揮官三原少佐機は2番機と接触して墜落、高村中尉、永野大尉機ら5機33名戦死』
このとき指揮官搭乗機と接触した2番機の主偵察員は谷村博明さんです(2番機無事)。
行方不明になった5機のうち、篠崎中尉機は海上に不時着、十日あまり漂流のち4名生還(行動調書では5名生還)。
永野大尉機にも生還者がいて(5名)、そのうちの一人は9期の牛澤四郎1飛曹です。
行動調書には上のことは書かれておらず「敵を見ず引返す」だけ。
「敵を見ず引返す」で、どうしてこんな悲惨なことになったのか――。
悪天候ゆえの惨事なのでしょうか』
いまだにわたしはこの件に関しては、どこで何が起こったのかよくわかっていません。
遭難がセントジョージ岬付近の天候悪化が原因だとすると、かなり基地に近い場所まで引き返していて遭難した可能性が高いってことですかね。
わたしは「ニューギニア」と書かれると、ラエとかモレスビーのあった、あっち方面を連想するのですが、たぶん、地域的には違う場所ですね。
※画像は9期生ご遺族ご提供
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