春海の話 ― 2017年10月08日 08時31分39秒
春海は今日は出番ナシ。
応援に出かけて行きました。
またしても、財布から1000円奪って行こうとしました。
「昨日渡したんが残ってるやろ」
「あー。あれはおやつ買っちゃった、てへぺろ」
300円が昼ごはん代で、おやつ代が700円だとおっーーーー!?( ゚Д゚)
ま、パパの金だからいいか~(*´з`)
昨日のブログに「ちゃんとした水着での初の長水2コン」って書いていましたが、フェイスブックの動画を見返していたら、この前、学年別の試合でちゃんとした水着で2コンを泳ぐ春海動画をあげていました。自分ですっかり忘れていました。
なので、まだ泳いでいないのは長水短水どちらもですが8フリですね。
短水はまだ一度も8フリ泳いでいないですね。春海は「ターンが多すぎてムリ」って言っていましたが。わたしも、もう、数えることすら不可能です。
先々月、近畿予選で長水8フリを泳いだときはちゃんとしていない水着でした。
タイムは初めて10分を切って、「よかったやん」と思ったのですが、本人が言うには、300ぐらいからお腹が痛くなって、あとはもう意識不明で泳いどったそうです。←言い訳
体調絶好調でしかもちゃんとした水着で泳いだらどれほどのタイムが出るのか、めっちゃ楽しみやわん(´▽`)
今度はいつ8フリ泳ぐんかな~ヽ(^。^)ノ
9期 23分隊 操偵適性検査の水たまり ― 2017年10月08日 15時09分43秒
前に一度、適性検査写真撮影時の天気について書いているんですが。
前の分隊(23分隊)が写真を撮った日はお天気が良くない。
後ろの分隊(24分隊)が写真を撮った日は快晴――です。

島田清守さんの操偵検査時グループ写真。
せっかく島田さんの日記に操偵検査時のことが書かれているので、写真撮影時のことが何かわからないかな、と期待しました。
14年6月8日の日記に、
『午前飛行作業・・・五分隊士ニ同乗シタ。検定二日目デアッタ。乗ラン者モイタ。終ッテ写真ヲ撮ッタリシタ』
という記述がありました。
写真を撮った――ありました!!
が、これと同時に期待したのはこの日の天気なのでありました。
島田さんの写真を見てもらったらわかるのですが、23分隊が適性検査で写真を撮った日、飛行場がめっちゃぬかるんでいるんですよ。
これは藤原国雄さんのアルバムにあった23分隊操偵検査時の分隊集合写真。

水たまりができています。

23分隊の大西要四三さんの個人写真。
足下、わかりますかね?
地面の様子から、ここに出した3枚、同じ日に撮っているんだと思います。
なので、わたし的には、島田さんの日記に「写真を撮った」「(前日か当日)雨」、この記述が揃っていてほしかった!
島田さんは毎日日記に天候と寒暖をつけています。
が、なぜか、この6月8日だけそれがない!! 天気がわからない!( ;∀;)
じゃあ、消去法で行くか。
5月29日 曇 地練(地上練習機) @霞ヶ浦海軍航空隊
5月30日 曇 地練・心理検査
5月31日 晴 心理検査
6月1日 雨 移動 初めて飛行服を着る @筑波海軍航空隊百里ヶ原分遣隊
6月2日 晴 (飛行場で?)初めて飛行服を着る
6月3日 曇 飛行作業中止 口頭試問
6月4日 曇 行軍
6月5日 晴 初めて飛行機に乗る
6月6日 晴 飛行作業
6月7日 曇 午後飛行作業(検定1日目)
6月8日 飛行作業(検定2日目) 終って写真を撮った 午後口頭試問、相学
6月9日 曇 (記述ナシ)
6月10日 晴 (内容不詳)飛行作業 (適性検査終了 霞空に帰隊)
まあ、こんな感じです。
霞空での地練から始まっていますが、地練というのはこれです(羽藤さんアルバムから)。

実際の飛行機には乗らずに、地上で適性を調べる機械です。
いまふうに言うとシュミレーターでしょうか。
藤代さん(24分隊)の戦後の手記では地練も百里でやったように書かれていますが、島田さん(23分隊)はおそらくリアルタイムでつけていたであろう日記に「本隊」でと書いています。この場合の「本隊」は霞ヶ浦海軍航空隊のことです。霞空には「予科練」もあったので、それに対して「本隊」と書いています。
6月1日は雨です。この日、霞空から百里ヶ原に移動しました。
が、この日は飛行場に出て行った様子はありません。飛行服を渡されて初めて着る・・・・という記述がありますが、試着という感じで、兵舎内で着てみただけだと思います。
翌2日は飛行場に、飛行服で出て行っています。
もしかして、写真はこの日か?とも思ったのですが、島田さんは「晴」と書いています。が、写真を見ると「晴」という感じではないですね。雨時々曇、あるいは雨が降った後の曇、ぐらいの感じに見えます。
水戸の1939年6月の天気を調べてみました。
1日にけっこうな雨が降った記録があります。あと9日ですね。
6月8日は午前中にぱらっと来ているような?(^^;)
水戸ですけどね。
百里周辺の記録は見つけられていません。
うちから急行でひと駅離れた駅でざざ降りでも、地元に帰って来たら地面がまったく濡れていないってこともあるので、天気はピンポイントで調べないとわからんですね。 ←結論
やはりこれらの写真は島田さんの日記通り、14年の6月8日撮影の可能性大ということにしておきます。
余談ですが、上の6月8日の日記に出てくる「相学」というのは「人相学」のことで、選考に際して人相を見られたことに飛行機乗りになった人の多くが驚いています。
搭乗員に向いているかどうか、あるいは操偵どちらの適性があるか、顔も判断基準にしていたっていうんですよ!( ゚Д゚)
搭乗員の手記でよく見かけるのが「水野」という先生。
9期のときも水野先生だったのかな?
わたしは9期生の顔で、「操縦顔」とか「偵察顏」があるというふうには感じませんが、多少は操偵の判断に”顏”が入っているんでしょうかね?
研究しようとまでは思いませんけど、おもしろいとは思います。
※画像は9期生ご遺族ご提供
大軌・参急電鐵沿線圖 ― 2017年10月08日 20時55分24秒
今日、上本町で、「近鉄特急運行70周年記念セレモニー」があったそうです。
70年も前から近鉄特急は走っているのか~
けっこうお世話になっています、近鉄特急♪
本当はお世話になりたくないですけどね。
ふつうの快速や急行にトイレがないんで、京都や大阪に行くにも特急料金を払って特急に乗らざるをえないというね(T_T)
今日はお祝いなんで、それはおいておいて。

そういえば昨日もわたしはしまかぜを見かけて、大興奮して、激写してしまったのでした。
撮るだけで乗ったことはありません。
まだここに出していない島田さんの遺品で、近鉄関連のモノがありました。
掲示板にはアップされていましたっけ?
わたしは記憶にないんですが。
お宅にうかがって、遺品を直接見せていただいたときに気づきました。
大軌・参急電鐵沿線圖
※分割してスキャンし、あとで合成しました
大軌、大阪電気軌道の略で、近鉄の前身です。
参急は参宮急行電鉄の略。大軌の子会社らしいです。いまの近鉄桜井―宇治山田間みたいです。
昭和7年には上本町―宇治山田間に直通特急電車を走らせ、2時間1分で結んでいたらしいので、これも近鉄特急の遠祖といえば遠祖なんでしょう。
しかし、あと1分、2分、どこかで短縮できなかったものか(^^;)
裏は「橿原神宮 参拝の栞」。
真ん中がちゃんと撮れていません、スイマセン。
裏面に「昭和十五年五月印刷」って書いてあります。
島田さんがこれを持っていたのを見つけたときはうれしかったですよー。
海軍ってあまり奈良には縁がないんでね(^^;)
たぶん、鈴鹿航空隊(練習機飛練、飛練10期)時代に奈良行軍をしているので、そのときにもらった、あるいはどこかの駅に置かれていたものを収集した、のではないかな、と思います。
島田さんが手に入れたのは昭和15年末ごろかな?


橿原神宮北神門前の飛練10期生たち
ちなみに昭和15年は皇紀2600年に当たっていて、橿原神宮では式典などが行われたようです。
前に橿原神宮の神職さんに直接聞いたときには、泊まり込みでヒトが集まって周辺の整備・改修などもしたようなことを言われていました。
この沿線図、なかなか興味深いです。

よく見ると、現在は存在しない駅などが・・・・。
いま、近鉄に「法隆寺駅」はありません。
法隆寺に行こうと思ったら、JR大和路線で行くか、奈良交通のバスで行くか。あるいはママのように無謀にもチャリンコこいで行くか(笑)
※パパがいるときは車です
いまも近鉄に法隆寺駅があったら、観光するにはめっちゃ便利やと思います。
一人でも行けます。
あと、「油阪駅」。
いまは西大寺の次は新大宮、そして終点奈良ですが、新大宮と奈良の間あたりに油阪駅が記載されています。
いまの船橋通り商店街の南側のところらしいです。
25年ぐらい前に3か月だけこの近くの北市町というところに住んだことがありました。
この沿線図で油阪を見つけて、「なつかしー(´▽`)」と、当時を思い出したのでした。
※画像は9期生ご遺族ご提供