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乙8期 小澤芳平さん2017年06月02日 15時55分42秒

8期生のカテゴリがないので、とりあえず[海軍]に入れておきます。[乙8期]新設の暁にはそちらに移します。



去年の慰霊祭から、前泊する人たちで前夜懇親会が開かれるようになりました。

去年は40名ほどでしたが、今年は90名だったとか!?

去年も今年もわたしは9期のご遺族の方々と同じテーブルに席がとってありました。
同じテーブルに、ご遺族の方は森田守さん弟さん、池田和義さん姪御さん、萩谷幾久男さん甥御さん(以上9期)、あと、8期の小澤芳平さん弟さんがいらっしゃいました。

小澤さん、わたしは初対面でした。
あとで話をした口ぶりでは今年初めて参列されたのではないか・・・・? という感じでした。


わたしは8期生のことはまったくわからないですが、手元の9期写真に何枚か8期生が写っている写真があります。

弟さん、お写真をお持ちではないかな?

と思い、わたしの方から声をかけさせていただきました。

が、

「あー、今日は持っていないねー」

とのこと。

機会があれば見せてくださいね、なんて話のあと、

「どちらのご出身なんですか?」

と尋ねたら、

「長野です」

「長野ですか!?」


長野といえば、藤原国雄さんの遺品の中に長野県出身乙飛生集合写真があり、8期生ならそこに写っているはずです。
さらに長野といえば先輩6期の山岸昌司さん、7期の西澤廣義さんの写真などもあります。


「もしかしたら、わたしが持っている写真に写っているかもしれません。持ってくるので見ていただけますか?」

「いーよ、いーよ」

ダッシュで部屋に戻り、パソコンを取ってきました。



写っていました。
古い方からいきますね。

これは横須賀時代に撮られた長野県出身乙飛生集合写真。
6期の山岸さん(前列左から3人目)が写っています。あと7期の西澤さん(○印)、そして8期生まで。
階級章が見えないんですよね。12年の6月初か秋・冬ぐらいでしょうか。

これが小澤芳平さんです。
後列左端。



これは藤原さんの遺品の長野県出身乙飛生集合写真。
7期生から9期生まで写っています。13年夏。横須賀。

小澤さんは前列右端です。左隣りは西澤さん。


これも長野県出身乙飛生集合写真。
14年夏。霞ヶ浦海軍航空隊。
8期生~11期生まで写っています。

小澤さんは前列左から4人目。




パソコンで見ていただいた中で、弟さんが芳平さんを認識したのはこの写真です。この前に見ていただいたのは、
「ちょっとどこにいるかわからないねえ」
と言われていたのですが、この集合写真を見せた途端、

「あ!! これだ! これが兄貴です!」

と指を差されました。
弟さんの心の中に残っていた芳平さんのお姿に一番近かったのでしょうか。

この写真を見るのは初めてだそうです。

「わたしに似ているでしょ?」

と言われていました。

じろじろと見比べてみたところ、たしかに似ていました。

この写真の芳平さんが70数年経ったら、弟さんのようなおじいちゃんになる・・・・
逆に、弟さんを70数年若返らせたらこの写真の芳平さんのようになる・・・・






パソコンの画面いっぱいに拡大してあげたところ、画面に手を合わせ、

「慰霊祭に来れば兄貴に会えるような気がしていました。まさか、本当に会えるとは思っていなかった、よかった、よかった」

と涙を流されました。




「この写真、もらえないですか?」

とのことだったので現像してお送りしました。


写真の持ち主である9期のご遺族の方々からも、

「写真をお持ちでないご遺族の人が見つかったら渡してあげて」

と言われているので。





2次会が終わって部屋に戻って手持ちの写真を探したところ、他にもありました。
なぜか9期生が持っていました、8期生の授業中の写真。

9期生は一人も写っていないんですよ。

名札がついているので、名札が読める人はわかります。
本間猪佐夫さん、犬塚教市さん、古谷喜代一さん、金子一郎さん、奥富梅次さん、豊田三夫さん、東さん(複数いてどの東さんかわからない)、などは名札が見えています。

名札が見えていない中に小澤さんがいました。
真剣な表情で授業を受けています。




倉町秋次先生の『予科練外史』にも小澤さんのことが少し書かれています。
8期の操偵検査時の記述です。

霞ヶ浦航空隊分遣隊友部飛行場(のちの筑波航空隊)に到着し、飛行場見学をしたときの話です。飛行場に雲雀の巣があったようでそのことに関して8期生たちのエピソードがいくつか書かれています。

『小沢芳平練習生は、心の中で、故郷の父母に向って、「私は一生懸命やります。」そして、「小鳥よ、草木よ、明日会おう」と呼びかけていた』

文脈的には唐突に小澤さんが登場するんですが(^^;)
たぶん、倉町先生は、かれらが横須賀に帰隊後、操偵検査の所感を書いて提出させたのではないか? そこに小澤さんのこのときの感想が残っていたのではないか? と想像しています。

――心根の優しい小沢芳平練習生は、長野県出身。やがて一式陸攻の操縦員と育ち、高雄空に所属、昭和十七年九月二十八日、ガダルカナル島飛行場爆撃直後、高角砲弾の直撃を受けて散華した。


ここまで『予科練外史』に書かれています。


8期生の戦後の同期生会誌。
『何時も笑っている様な顔をしていて誠実に溢れ教班長当番等に当たると誠心誠意役を果たし責任感に燃えていた』


弟さんから。
「兄とは10ほど年が離れていて、自分が末っ子だったからとてもかわいがってもらった。毎月、幼年倶楽部と少年倶楽部を送ってくれていた」
※芳平さんは大正10年(1921年)生まれ、弟さんは昭和5年(1930年)生まれ


17年9月28日  高雄空  ソロモン








実はですね・・・・。

懇親会で弟さんに芳平さんの部隊のことや機種のことを聞いたのですがもひとつよくわからなかったんです。
木更津にいた、ソロモンで戦死した、ということはわかりましたが。

で、2次会が終わって部屋に戻ってすぐに、いつも助けてもらっているKさんに、
「8期の小澤芳平さんの情報って何かお持ちではないですか?」
とメールしたところ、すぐに返信がありまして。

横須賀空、木更津空、高雄空を経験した中攻の操縦員だということがわかりました。

そのときのメールに、

「小澤さんは9期の二階堂信治さんが戦死されたときのペアの操縦員ですよ」

と書かれてありまして。

ビックリしてすぐに調べたらその通りでした。

二階堂信治さんのことはここに書いているのでどうぞ。

二階堂信治さん。大分時代(16年秋)。

一式陸攻は基本7人乗りです(主・副操縦員、主・副偵察員、主・副電信員、搭乗整備員)。
二階堂さんが戦死されたとき、その主操縦員が小澤さんで、二階堂さんは主電信員でした。

ペアというのは死ぬも生きるも一緒。
乙飛の先輩後輩だし、二階堂さんは小澤さんを頼りにし、小澤さんは二階堂さんをかわいがっていたのではないかと想像します。
※しかし、年齢は二階堂さんの方が上なのです(^^;)

今回、二階堂さんが戦死前日に書かれた家族に宛てられた遺書全文を読ませていただくこともできました。








――という不思議なご縁が慰霊祭でありました。

さきほど、弟さんから、

「写真届きました、ありがとう。仏壇にお供えしています」

とご丁寧なお電話をいただきました。

芳平さんも弟さんのもとに戻れて喜んでいることと思います。



※画像は9期生ご遺族、武田信行氏ご提供
海原会の方にはいつも便宜をはかっていただき感謝しています