飛練10期 偵察専修 博多 【最新版】 ― 2017年03月02日 15時23分02秒
16年10月31日、博多海軍航空隊の飛練教程を卒業した飛練10期生たち。
以前書いた記事に島田清守さんの顔とお名前を出していたことからリンクを貼られて、まあ、それであの掲示板の存在に気づいたわけですが・・・・。
2015年10月に書いた記事です。
1年以上経って、認識も変わっているので書き直します。
9期生ではない不明飛練10期生2名がどなたかわかりました。
2列目左から
島田清守さん
岡吉郎さん
宅間広正さん
戸川衛さん
教員1
教員2
教員3
教員4
教員5
酒村健三さん
下釜又男さん
山田一作さん
3列目左から
3列目左から
菊地平さん
岸本正好さん
斎藤理吉さん
山内敏昭さん
村上守司さん
隅倉慧さん
佐々木隆寿さん
金成懿さん
石塚猛さん
藤代護さん
藤井国男さん
萩谷幾久男さん
4列目左から
4列目左から
井上常夫さん
宮本一さん
清水巧さん
中尾鶴蔵さん
森健次さん
石田勝さん
島田直さん
古寺慶三さん(乙8期)
福島増蔵さん
本城秋生さん
西村徳恵さん
西谷芳数さん
5列目左から
5列目左から
笠井繁雄さん
坂田清一さん
大塚孝平さん
植木愛雄さん
皆川彰さん
黒木勇三郎さん
大畠久利さん
関川文雄さん
松沢正二さん
永田正さん
持田竹雄さん(乙8期)
というわけで下士官姿で写っている9期→飛練10期生は40名。
8期生として予科練に入隊し、飛練10期と合流した人が2名。練習生は計42名。
教員らしき人5名。
9期で写っていないのは山田茂雄さんと遠藤秋章さんと一瀬一之さん。
実は一瀬さんは、先日、島田清守さんの遺品の中にあった鈴鹿飛練の班構成名簿にすでにお名前がないんですよね・・・・。まあ、そういうことだったんですよね。
遠藤さんは鈴鹿班名簿にはお名前がありますが、おそらく博多には一緒に行っていません。
山田さんがまったくわからないんですよ。山田さんも鈴鹿班名簿にはお名前があります。
集合写真の説明は、どなたがいつ書かれたのか不明ですが、
「昭和16年10月31日 博多海軍航空隊、偵察専修生43名は水上機教程を卒へ、風雲急を告ぐる太平洋上に勇躍飛び立って行った」
「43名」って何だろうなあ?
どこから出てきた数字なのか?
植木愛雄さんも、島田清守さんへの手紙に、
『博多まで四十三人来て』
と書かれているんですよね。
鈴鹿から博多に来た時点では43名いた?
ちなみに、博多飛練を卒業した9期生数名の履歴(厚労省から取り寄せたもの)を見せてもらっているのですが、それには飛練の成績が書かれています。
「飛偵42人中〇」とか、分数で42分の〇という形で書かれている人もいます。
とにかく博多の飛練10期卒業時の人数は「42」名で間違いないです。
藤代さんは「鈴鹿を卒業して博多に配属されたのが42名」という意味のことを書いているんですよね。
履歴に書かれている成績の元になっている「42」は、上の卒業写真に写っている42名です。
(9期生40名+8期の古寺さん、持田さん)。
山田茂さんを入れたら43名になるんですけどね(^^;)
山田さんが一緒に博多に入隊していた場合は、植木さんが手紙に書いている「四十三人来て」が正しい、ということになります。
もし、山田さんが鈴鹿から一緒に博多に来ていなかったら、藤代さんの「博多配属42名」が正しいということになります。
山田さんの動向をつかまないと何とも言えないですわ(=_=)
はっきり言えるのは、卒業時は42名。それは間違いない。
【期長】
ちょっと余談。
植木さんが島田清守さんに出した手紙に、
『■■(不明)に十一月一日で向った期長、森、岸本等の船が二番艦で何時も一緒と言った様な有様だ』
という一文がありました。
「おっ! 期長!! これはきっと博多飛練10期の期長のことだな?」
と思いました。
ここに出てくる「森」は森健次さん。
水上機で、飛練卒業後は山陽丸に配属。
戦後生存者です。
「岸本」は岸本正好さん。
やはり水上機、飛練卒業後は山陽丸。
19年6月19日、鳥海、マリアナ沖で戦死。
じゃあ、この二人と一緒にいた期長は・・・・。
8期の古寺慶三さんのことだと思います。
古寺さんも飛練卒業後の配属先が山陽丸。
上の集合写真の顔をぶれを見たら、期長が古寺さんであることは明らかです。
同じ乙8期の持田竹雄さんはすでに14年9月1日の8期の予科練卒業時点で進級が遅れています。→新潟出身者集合写真で8期生が1空なのに持田さんは2空の階級章
古寺さんの方は鈴鹿時代の写真を見ると、当時すでに下士官に任官しています(9期はまだ1等兵)。
上の集合写真の練習生の中で最先任者は古寺慶三さんなので、古寺さんが『期長』と呼ばれていた、と。
ちなみに、持田さんのことも植木さんの手紙に出ていました。
『佐世保で外出した。持田さんに會った。彼は艦攻らしい 』
って書かれていました(^^;)
持田さんは『持田さん』ということで。
※持田さんは集合写真からすると、予科練時代に9期に合流しています
藤代さんは「鈴鹿を卒業して博多に配属されたのが42名」という意味のことを書いているんですよね。
履歴に書かれている成績の元になっている「42」は、上の卒業写真に写っている42名です。
(9期生40名+8期の古寺さん、持田さん)。
山田茂さんを入れたら43名になるんですけどね(^^;)
山田さんが一緒に博多に入隊していた場合は、植木さんが手紙に書いている「四十三人来て」が正しい、ということになります。
もし、山田さんが鈴鹿から一緒に博多に来ていなかったら、藤代さんの「博多配属42名」が正しいということになります。
山田さんの動向をつかまないと何とも言えないですわ(=_=)
はっきり言えるのは、卒業時は42名。それは間違いない。
【期長】
ちょっと余談。
植木さんが島田清守さんに出した手紙に、
『■■(不明)に十一月一日で向った期長、森、岸本等の船が二番艦で何時も一緒と言った様な有様だ』
という一文がありました。
「おっ! 期長!! これはきっと博多飛練10期の期長のことだな?」
と思いました。
ここに出てくる「森」は森健次さん。
水上機で、飛練卒業後は山陽丸に配属。
戦後生存者です。
「岸本」は岸本正好さん。
やはり水上機、飛練卒業後は山陽丸。
19年6月19日、鳥海、マリアナ沖で戦死。
じゃあ、この二人と一緒にいた期長は・・・・。
8期の古寺慶三さんのことだと思います。
古寺さんも飛練卒業後の配属先が山陽丸。
上の集合写真の顔をぶれを見たら、期長が古寺さんであることは明らかです。
同じ乙8期の持田竹雄さんはすでに14年9月1日の8期の予科練卒業時点で進級が遅れています。→新潟出身者集合写真で8期生が1空なのに持田さんは2空の階級章
古寺さんの方は鈴鹿時代の写真を見ると、当時すでに下士官に任官しています(9期はまだ1等兵)。
上の集合写真の練習生の中で最先任者は古寺慶三さんなので、古寺さんが『期長』と呼ばれていた、と。
ちなみに、持田さんのことも植木さんの手紙に出ていました。
『佐世保で外出した。持田さんに會った。彼は艦攻らしい 』
って書かれていました(^^;)
持田さんは『持田さん』ということで。
※持田さんは集合写真からすると、予科練時代に9期に合流しています
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