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仕事はじめ2017年01月04日 07時57分01秒

おはようございます。

今日から仕事です。
めっちゃ張り切っています↓。


萩野選手は昨日初泳ぎだったそうです。
春海はまだです。
初泳ぎどころか、初勉強もまだです( ;∀;)



今年のお正月もコメント欄を開けていました。
コメントくだった方、ありがとうございました(* ̄∇ ̄)ノ

自己紹介2017年01月05日 08時22分32秒

今年の年賀状に「ブログニキ」って書いて送ってきた人がいましたが(笑)

「ニキ」じゃねーですから。

体格はどすこいって感じ、でも、分類上は「ニキ」じゃねーですから。




あれ以来、けっこう「自己紹介」のカテゴリを見ている人がいるようです。
がー、あそこを見てもわたしのこと、わからんでしょう(笑)


「ブログを読んでください」
ってのが一番なのですが、膨大な時間の無駄使いになるのでおすすめしません。



出身は宮崎市。
※宮崎の実家は台風で水没して全壊、引っ越しました。

大学に進学するために関西に来ました。

文学部史学科卒。
卒論は考古学(弥生終末期~古墳時代初の土器)で書きました。いちおう、卒業させてもらえました。 ※何を書いたかもう忘れました
学芸員の資格を持っています。 ※役に立っていません

卒業後は某研究所で図面描きのバイトをしたり、家庭教師をしたり、某家電メーカーで電話オペレーターのパートをしたり。

いまはいちおう有期雇用職員として仕事に行っています。
仕事内容はヒミツです。
※春海の「仕事中の母」イメージ

片道2時間かけて仕事に行っているんですが、いまのところ自分がやりたくない仕事はないし、イラストレーターとか使わせてもらって「なんかこの技術、自分のためにも使えそう(二ヤッ)」だし、何といっても名刺にまじめな肩書きを書けて他人に信用してもらえるのがうまみです(笑)


知っていると思いますが、会社員の旦那と中3の娘がいます。





たぶん自己紹介カテゴリを見た人たちが知りたいのは↑こんなことじゃないですよね?

「なんで予科練(乙9期)のことを調べているの?」

ですよね?


わたしは海軍や予科練の関係者ではありませんし、遺族でもありません。
もともと歴史好きで、10代、20代の前半ぐらいは古代、戦国、幕末・・・・を中心に本を読んだり、史跡訪問したりしていました。

いつのころからか、海軍戦闘機隊に関心を持って・・・・台南空のことを調べるようになりました。
戦闘――ではなく、搭乗員のことです。
集合写真。書籍などでよく紹介されているのですが(17年8月4日集合写真と17年11月集合写真)、いつも氏名を飛ばされている人たちがいる。この人たちにも名前があるはず。
ここに出したこともあるんじゃないかと思うのですが、「台南航空隊隊員列伝」なるものを自作していて(アナログなファイル)、
例えば羽藤さん(9期)だったらこんな感じで↑。
お顔がわかる人はお顔も入れて、何月何日にどこに出撃しているか、全員分、書いています。
アナログなのであまり使いようがありません(-_-;)
デジタルでデータベース化すれば、もっと使い道があるんでしょうけど。

こんなことをしながら、
「『大空のサムライ』で描かれている台南空イメージとはずいぶん違うなあ。意外と若い人が多いなあ」
と思っていたところ・・・・。

2011年の夏頃だったか愛媛の知人が、
「台南空の羽藤一志さんのご遺族の方と連絡が取れた」
と。

おお! すげえ!!

台南空の羽藤さんといえば自分にとっては歴史上の人物みたいな存在でしたからね。

2012年の初めに、

「羽藤さんから予科練のアルバムを借りたので、ママさんにも(武田先生に送るついでに)送ります」

と、送ってくださいました。

9期のことを調べ始めたのはそれがきっかけです。


その後、以前から文通していた9期の松本勝正さんのご遺族の方に『9期生名簿』という活字だけの同期生会誌を見せてもらい、

「アルバムの写真の人たちと、同期生会誌に書かれた戦没者の方たちのイメージを重ね合わせたい」

と、氏名の照合をはじめました。
その時点でわかっていたのは、羽藤さん、木村さん、遠藤さん、上原さんなど台南空の数人と松本さんぐらいで。

氏名の照合に四苦八苦している様子はそれこそ「過去のブログをご覧ください」としか言いようがありません。いま読むと的外れな推測をしているところもあるみたいで・・・・<(_ _)>

全員の照合は、わたしが生きている間にはムリかも・・・・と半ばあきらめかけていた2015年の夏、生存者(故人)の息子さんが全員分の氏名入り班写真を保管されていることがわかり、一気に判明しました。

うちの旦那などは、

これで先が見えなかったママの長旅も終わった――

と思ったようですが。


当初は「お顔と氏名を照合したい」という動機で始めたことですが、いまはちょっと違います。


5年、9期のことを調べている間にいろんなご縁があって、たくさんの9期の資料がわたしの手元に集まってきています。

この資料を何とかしたい、ということと、できることなら、どなたかわかる写真はご遺族のもとに届けてあげたい、という気持ちがあります。
中には、ご遺族の方も見たことがないという写真が、戦友のアルバムにひっそり残っている場合もあるので。



わたしは遺族でも関係者でもないので、かれらのためにできることは限られています。

わたしのまわりには、海軍のことや航空隊のこと、調べたり関わったりしている人たちがたくさんいます。

海軍の全搭乗員のことを調べようとしている人、ガンカメラ映像を解析している人、神雷部隊のことを調べている人・・・・。
プラモデルを作ったり、イラストを描いたりして搭乗員を偲んでいる人も。
戦記もの、マンガ、映像作品で偲んでいる人もいるでしょう。
みな、それぞれ、自分のやり方でかれらへの感謝の気持ちや哀悼の気持ちをあらわしているのだと思います。


ご遺族の方に写真を届ける――。
本人も家族のもとに帰れて喜んでいるのではないか。
わたしにできるかれらへのお弔いは、これなのかなあ、と最近はそう思っています。

テレビ禁止令2017年01月05日 22時40分57秒

今日は5日ですね。

春海が6回目の「笑ってはいけない」を見そうだったので、とうとうテレビ禁止令を出してしまいました。

欲望のまま生きています。

「自分を律する」ということがまったくできない子に育ててしまいましたorz


そういえば、朝も11時過ぎまで寝ていました。

11時前に一度起こしました。

そしたら、

「もー、いい夢見ていたのに!!」

って文句垂れられてしまいました。

好きな子とデートでもしている夢か!? そりゃ悪いことをした!

と思ったら、

「マラソン大会で1位走っとったのに!!」

と言って、また寝ました。








ところで、ママの巻きスカート写真。

フェイスブックに出したら、
「それいらんやろ」
「いらんな」
と非難轟轟、ブーイングの嵐でした。

しょんぼりしていたら、ブログを見た友だちからうれしいメールが!!\(^o^)/

「正月から笑わせてもらいました」

よかったー、よろこんでくれる人がいて!( ;∀;)

よい子のみなさんはまさかクリックしていないですよね?

笑いたい人はクリックしてもいいですよ。 ※自己責任で

というわけで、今年はダイエットに励みます(*´з`)
※わたしがウソをつくときは口がとがるって春海が言います。
※ウソなんかついたことありません( *´艸`)

藤原国雄さんと一緒に写っている人2017年01月06日 10時35分57秒

1年半以上前になるのですが、2015年のゴールデンウィークに連絡をいただいた9期の藤原国雄さん(中攻偵察、19年10月13日、 攻撃708、台湾沖航空戦)。


当時の投稿にこの写真のことをちょっと書いています。


最初は、ご遺族の方が送ってくださった写メで見ていました。

真ん中の人――。
あの頃はまだ9期全員のお顔を把握できておらず・・・・。偵察員の方はなおさら・・・・。
で、「階級章は2空、(9期の)偵察の人かな? (この人のことは)保留」という意味のことを書いています。


2か月後の7月に長野のご実家に写真を見せてもらいに行ったとき、この写真に裏書があるのに気付きました。
ここら辺から書いていないですよね、たぶん。

裏書には、左から「藤原」、「木下」、「大野」と書かれていました。

真ん中の人、現物でよく見たら、階級章は1空(1等航空兵)でした。
ペンネントは「霞ヶ浦海軍航空隊」。

この時点で9期生ではないとわかったので、上の条件で他クラスの予科練生に「木下」という人がいないか、探してみました。

すぐに長野県出身、甲3期の木下広吉さんが引っかかりました。
16年12月8日、赤城。
真珠湾攻撃2次攻撃隊で戦死されています。艦爆偵察員です。ペアの操縦員は操練出身の本間金助3飛曹。

ここまでわかってやめていました。


先日、
「そういえば、甲3期はSさんが卒業アルバムを持っていたなあ。あのアルバムは氏名入りの個人写真付きだ」
と思い出し、木下さんの写真を見せてもらえないか、お願いしてみました。

Sさんは元航空自衛隊の方で、お父さん(故人)が元海軍大尉。飛行科ではないですが、予科練の教員や母艦乗組みを経験された方です。
そういう事情でお父さんの遺品の中に、担当した甲飛3期の卒業アルバムが・・・・。





やはり木下広吉さんでした。



昨日になってふと思い出しました。

「Sさんのお父さんって、開戦時赤城に乗っていたんじゃないか?」

Sさんからいただいているお父さんの軍歴を確認したら、真珠湾攻撃時は赤城。

ということは、教え子の木下さんの出撃を見送っているということです。



亡くなった本人が一番無念だったであろうことはいうまでもないことですが、赤城艦上で帰らぬ教え子を待つ教員の気持ちはいかばかりだったか・・・・。



1枚の写真から、ここに写っていない人のことまでいろいろと考えてしまいました。



木下さんと藤原さんのことはまたちゃんと書きます。
今日はとりあえず、ここまで。


※画像は9期生ご遺族、Sさんご提供。吉良敢・吉野泰貴『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』参照

今日の夕焼け2017年01月06日 22時58分48秒

春海に呼ばれて外に出たら、こんな空になっていました。



春海「ピラニアやで~( ̄▽ ̄)」