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1枚の写真2017年01月15日 09時39分39秒

乙9期の艦攻電信員・島田清守さんの遺品の中にこんな写真がありました。


ご遺族の方が掲示板にもアップしていたので、そのときにこの写真をご覧になられた方もいることと思います。

わたしも最初に見たのは掲示板で。スマホの画面で見ました。

アルファベットのサインがあったので、

「誰や!?」

と思い、拡大しようとしたのですが、スマホでうまく拡大できず。

「ハヤオ・ノ・・・・」ぐらいまでしかわかりませんでした。

はっきりわかったのは「9期の人ではない」ということだけ。

手持ちの搭乗員の名簿類、あるいはネットの兵学校名簿などで探そうとしたのですが、そのときはわかりませんでした。
せめて、「ハヤオ」の漢字がわかれば検索がかけやすかったんですが。この時点ではいろんな「ハヤオ」を想定して探していたので、わたしの能力では無理でした。


この人がどなたかわかったのは、島田さんが戦死したときの資料を読んでいるときでした。

昭和十七年三月十五日主隊航空部隊として小笠原諸方(島?)北西海面を警戒航行中索敵の命を受け九七式一号艦上攻撃機(操縦員三飛曹工藤隆 偵察員一飛曹伊藤心友 電信員二飛曹島田清守)同(操縦員能住速雄 偵察員二飛曹上津原隆 電信員一飛原田三好)の二機に搭乗〇五三五発艦せり
※階級は戦死後の階級

2機とも悪天候のため行方不明になり、搭乗員たちは4月4日に戦死認定。



ここに出てくる、島田さんが乗っていたのとは違うもう1機の艦攻の操縦員・能住速雄さん。

「あ! 写真の人は能住速雄さんだ!」

と、このとき初めてわかりました。

操練52期の艦攻操縦員で、上記では抜けていますが戦死時は一飛(一等飛行兵)です。



島田さんがこの写真を持っていたということに、何とも言えない不思議な縁を感じてしまいました。
乗っていた飛行機は違いますが、同じ日に同じ任務で戦死されていますからね・・・・。



この写真が島田さんの遺品の中にあったことをKさんに話したら、

「島田さんと能住さんは瑞鳳以前に縁はなさそうなので、この写真が島田さんの遺品の中にあったとしたら、遺品は瑞鳳から戻ってきているのでは?」

と推測されていました。

その通りでした。





この写真には裏書がありました。
「於館山海軍航空隊
 九七艦上攻撃機
        操縦員
    能 住 速 雄
  昭和十六年四月一日」

裏書の筆跡は島田さんの筆跡ではないので、おそらく能住さんご自身が書かれたものであろうと思っています。


能住さんの方が瑞鳳への着任は早いです。
あとから転勤してきた島田さんにどういう事情でこの写真を渡したのか、いまとなってはわかりませんが、
「これからよろしく頼みます」
というような意味で渡したのかもしれないなあ・・・・島田さんも渡しているのかもなあ・・・・なんて想像をしたりしています。



※画像は9期生ご遺族ご提供

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