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乙9期 島田清守さん2016年11月24日 12時11分48秒

「清守」と書いて、「きよし」と読むそうです。


先日、遺品箱の中から大量に出てきたのは、島田清守さんの遺品でした。
全部、見切れていません。


いままでにわたしが持っていた情報と、先日、見れた分だけで書きます。



埼玉出身、偵察。
艦上機。
蒼龍、瑞鳳。

大正10(1921)年5月生まれ。




13年6月、入隊直後の氏名入り班写真。
37分隊4班です。


大楠山慰安行軍
13年秋か?


操偵適性検査
14年5、6月


香取神宮
14年夏


偵察専修生総員集合写真
14年秋~15年春頃



あとの写真は島田さんの遺品から。

15年1月25日
撮影の日付けだけ裏書にありました。小船井写真館でしょうか。


裏書ナシ。
ペンネントは霞ヶ浦海軍航空隊、階級章は2空。
14年秋~15年5月までの間の撮影。刻印はないですが小船井写真館っぽいです。

右は杉野憲市さん(熊本、中攻偵察、18年11月19日 755空 ギルバート沖航空戦)。




裏書がありました。
「(昭和15年8月13日 休暇の際) 兄に送るべく小池九蔵(一号駆潜艇)さんと  然し遂に見ず兄は戦死した」



裏書は、
「飛練当時(鈴鹿) 下宿の屋根で梅を眺めて」
16年春頃でしょうか。



裏書ナシ。
名札に「一空」と階級が入っているので、飛練鈴鹿か実用機の博多時代か。

右に立つのは益田増雄さん(千葉、艦爆偵、19年3月30日 523空 パラオ南東海域)。





鈴鹿卒業アルバム『制空』より





裏書は、
「博多空の延長教育時代  斉藤 島田」

右は斎藤理吉さん(香川、飛行艇偵、戦後生存)です。



この写真、裏書があるのですが、島田さんの筆跡と違うような気がします。
「埼玉県〇〇市 ニ飛曹 島田清守」
と書かれています。

島田さんは3飛曹で戦死されています。「二飛曹」は戦死後の階級です。
誰かが島田さんの戦死後に書き込んだのか・・・・?








おもいで

「予科練二次試験で横須賀から〇〇まで一緒だった。以来文通久しかったが・・・・端麗な容姿、高い鼻筋。青年紳士を彷彿とさせた。きっと墓前に参る、それを楽しみに」 ※〇〇は地名

「温和な人柄はほのぼのとしたものを感じさせた」

「謹厳そのもの、孤高を守っていた感じの君だった」



最後の思い出はわたし的には「?」な感じです。遺品の写真や手紙から受けるイメージと全然違います。
地元の友だちを大事にし、隊でも友人たちに囲まれ・・・・。
そういう写真もおいおいご紹介します。
Yさんにおまかせしたアルバムの方にも戦友の個人写真がたくさん貼ってありました。








16年10月31日、博多飛練を卒業し、蒼龍へ。

真珠湾(出撃の編制表にはお名前なし)の帰途、ウェーク島攻撃(1日目、操:小松崎照夫1飛、偵:佐々木隆寿3飛曹  2日目、操:木村正2飛曹、偵:佐々木隆寿3飛曹)に電信員として参加。

17年1月、瑞鳳へ転勤。

3月15日、小笠原北西海面で索敵のため2機の97艦攻が0535発艦。

操:工藤隆3飛曹
偵:伊藤心友1飛曹
電:島田清守3飛曹
※階級を間違えていました。
戦死後、工藤3飛曹、伊藤1飛曹、島田2飛曹です。
行方不明時点では工藤1飛、伊藤2飛曹、島田3飛曹です。混乱していて申し訳ありません。


「天候急激に悪化し視界不良となりたる為帰艦不能に陥り0930横須賀海軍航空隊に向う旨電報せし以後全く消息を絶ちたり」

2機ともに戻ってきませんでした。

4月4日、戦死認定。



「九期生名簿」では戦死場所は「父島東方海面」になっていますが、わたしが最近見た資料では「小笠原北方海面」になっていました。
戦没者名簿は訂正します。
が、実際は上のような状況であり、わかりません。





※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供

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