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乙9期 上沼周龍さん2016年10月16日 21時17分56秒

たぶん姓は「かみぬま」さんだと思います。根拠はあります。

名は、どう読むのか、まったくわかりません。「しゅうりゅう」でしょうか。それとも訓読みで「なんとかたつ」・・・・例えば「ちかたつ」とか、そんなふうに読むのでしょうか。わかりません。


長野県出身。戦闘機。

長野出身で、1学年時と3学年時に池田さんと同じ班だったこともあり、けっこう写真があります。


【入隊前】

【入隊直後】
10班班写真

氏名入り班写真


【東京行軍】
海軍館前

宮城前

楠公銅像前

神宮外苑


【長野出身者集合写真】
7期から9期


【大楠山慰安行軍】


【ラグビー観戦】



【班写真】
1学年10班



ここから霞ヶ浦です。

【長野県出身9期生】
前列左から大塚孝平さん、村上守司さん、上沼周龍さん
後列左から牛澤四郎さん、河合敏さん、藤原国雄さん、本間秀人さん


【班写真】
1学年10班


【操偵適性検査】




【長野出身者集合写真】
8期から11期かな?


【操縦専修生集合写真】


【整備実習集合写真】


【長野県出身者集合写真】
9期が最上級生です。階級章は2空、ペンネントは霞ヶ浦海軍航空隊。
9期から12期かな?


【ラグビー集合写真】


【ラグビー優勝集合写真】
操縦分隊。15年5月30日


【3学年班】
班解散会ではないかと想像。左は木村裕さん。
上沼さんは火鉢のようなもの?を抱えてごきげんです。
さらに口には何やら短いものが・・・・(笑)
えーっと、卒業寸前として15年(1940)11月頃。
上沼さんは大正12年(1923)生まれだから・・・・満で17歳。
まさにこれこそ、
「この正月で喫ってもいい歳になったのです」(笑)(笑)(笑)(笑)
ってやつですか(^^;)

――見なかったことにします。


【3学年班集合写真】
土浦海軍航空隊


「おもいで」
ラグビーで鍛えた闘志。君が出撃の時、森田守に託して行った詩、覚悟のほどがしのばれるよ。

ラグビーの頑張り屋であり攻撃精神の塊であった。時に機知に富んだ話しぶりで人を笑わすこともあった。艦務実習で角力をやり倒れてノーシントウを起こし、やおら立ち上がりふらふらしながら「さーこい」と言ったファイトマン。昭和十七年八月頃、俺が別府病院にいたら出撃前に見舞いに来てくれ「おれは死ぬんだから千人針はいらん、お前にやるから元気になれ」とおいていった。俺のを代わりに無理に持たせてやって別れたが。



【飛練筑波集合写真】



筑波のあとは大分空で戦闘機専修。

その後、3空、大分空などを経て17年秋から瑞鶴。




倉町秋次先生の『予科練外史』に上沼さんのことが書かれています。
ちょっと長いですが・・・・。
「予科練体操」の話です。

『上沼周龍練習生も、自分の運動神経に対してあまり自信のある方ではなかった。しかし、教官の説明によると、この運動で人は機敏になれるという。彼にはそれが大きな魅力であった。内心ひそかに、やってやろうと野心のようなものを燃やした。自分が操縦分隊員だという自覚がそうさせたのかも知れない。彼は積極的に意欲をもって練習に励んだ。
或る日、練習場に跳び箱とマットが出ていた。準備の徒手体操を終わっていよいよ倒立転回が始まった。走って行って、跳び箱の上で倒立し、そのまま向こう側に倒れて立つのである。何でもないようであるが、やってみるとむずかしい。後日、上空でどんなに自分の位置や姿勢が変わっても、それに適応できる運動神経を発達させるためにこの体操がとり入れられたのだという。
先頭の者から順々にやって行く。うまい者もいる。砂にめり込む者もいる。人のしているのを見ていると、その欠点がよく見える。「踏み切り」の弱い者は、倒立の途中で力がなくなり、どたりと仰向けに落ちる。倒立の要領の悪い者は背中から着地する。いろいろ見ていると、どうやら自分にもできそうな気がしてくる。すぐ前の者が走って行く。いよいよ自分の番だと思うと胸がどきんどきんする。元気よく走り出して箱の手前で一杯たーッつと踏み切り、跳び箱に両手を置き、足で弧を描くようにやるつもりだったが、倒さになると何もわからなくなって運動神経が盲になってしまった。失敗であった。次に自分の番が回って来た時、さっと走って行って跳び箱の上に手をついた。思いきり足を蹴上げたが、目をつぶってしまって後のことはわからぬ。もういいだろうと手をゆるめると、恐ろしい勢いで鼻先に地球が近づいて来た。はっと思う間に頭が砂の中にめり込んでいた。すぐ起き上ったが、一同のどっと笑う中に苦笑いしながら退いた。そして彼は、僅々一秒足らずの落ちる間に、ずい分多くのことが頭の中に浮かぶものであることを体験した。上沼は内心どうも面白くなかった。誰の顔を見ても皆自分を笑っているような気がする。よし、今に見ていろ!それから、兵舎では倒立を、講堂の傍の木材の間では転回を練習した。倒立では歩けるようになったが転回はなかなかうまく行かない。そのうちに両方ともどうやらできるようになったので彼は機会を待った。
その日は雨で、兵舎にマットを敷いて行うことになった。順番を待っていると、嬉しいものが彼の心の中を駆けめぐり、胸がおどってじっとしていられない。いよいよ順番だ。助走も真剣にやり、たッ!とデッキを蹴った。ビームも天井もすべて曲線を画いて頭の上を流れた。途端に運動帽がとんで、首だけ残して足先がマットに吸い込まれたような気がした。パッと立った。成功したのだ。しめた!と思ったが、顔には出さなかった。
「おい、いつの間にかできるようになったなァ。」
体操の時間が終わると、親友の森田守練習生たちが寄って来て肩をたたいた。
〈何ぬかす。いつまでも笑われていてたまるか!〉
心にはそう思ったが、口には出さなかった。嬉しさがこみ上げて来た。それを機に殺人体操が好きになってきたのだと彼は語った』


ここに出てくる「親友の森田守練習生」
長崎出身、戦闘機。
瑞鳳、大村空、601空。

ラグビーも一緒にやっていたんですよね。

『予科練外史』には上沼さんと森田さんの戦地でのエピソードも紹介されています。
もともとの文献は岩井勉さん(6期、戦闘機)の『空母零戦隊』です。


『上沼周龍と森田守の親交は二人の命が燃え尽きるまで続いた。二人とも空母の零戦搭乗員。前者は「瑞鶴」後者は「瑞鳳」。い号作戦決行のために、わが空母の飛行機隊はラバウルに集結した。
四月十一日、オロ湾攻撃の前夜のことを彼等より三期先輩の岩井勉飛曹長(後中尉)は、その著「空母零戦隊」の中で次のように記している。
――出撃の前夜だったと思う。われわれ同じ中隊の者が数人で、一杯やっている席に、他部隊の上沼周龍兵曹がやって来た。彼は予科練の後輩(乙飛九期生)だが、その席に彼の同期の森田兵曹がいた。上沼兵曹は森田兵曹に一枚の紙片を差し出し、
「森田、おれが死んだら、おれのはなむけにこの歌を歌ってくれないか。」
「なんだこれ! 貴様明日戦死するつもりなのか。馬鹿野郎、おれの方が戦死するかもしれないじゃないか。」
見ると紙片には、次の文句が書いてあった。
一、ソロモン群島のガダルカナルへ
   今日も空襲大編隊
   翼の二十粍雄たけびあげりゃ
   落ちるグラマン シコルスキー
二、にっこと笑ってダイブにはいる
   友の艦爆勇ましや
   のぼる黒煙消え去るあとに
   見たか轟沈 あっぱれだ
三、花は桜木 戦闘機乗りは
   若い命を惜しみゃせぬ
   花もつぼみの二十歳で死ぬも
   何の惜しかろ 皇国のため
翌日、上沼兵曹は零戦に乗り出撃したまま帰って来なかった。死については、飛行機乗りである以上、誰もが超越していたことであったが、何故か、その夜のことは強く印象に残っている。上沼兵曹は二十二歳であった。――』


『予科練外史』の引用で一部抜けている部分があるので、追加しておきます。
「何故か、その夜のことは強く印象に残っている」のあとにこの一文が入ります。

『森田兵曹をはじめ私たちは、この歌詞に海軍独特の節をつけて、毎晩歌っては上沼兵曹の霊を慰め自分たちのはげみとした』(岩井勉『空母零戦隊』)




18年4月11日  瑞鶴  ニューギニア




橿原神宮の航空母艦瑞鶴之碑


この横に瑞鶴やマリアナ沖の601空の戦没者の名を刻んだ戦没者名録があります。

18年1月―12月ブーゲンビル沖航空戦及びラバウル・ソロモン攻防戦の箇所に上沼さんのお名前も刻まれています。

奇しくも19年6月19日マリアナ沖海戦で戦死した森田守さん(601空)のお名前も同じ碑に刻まれています。




※画像は9期生ご遺族ご提供

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