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鹿屋空の乙9期生2016年07月18日 21時48分31秒

先日、「九期留魂録」(『予科練外史』)に関して書いたときに、飛練卒業後、鹿屋空に着任したと思われる9期偵察員としてお名前を挙げたのは、
鈴木光雄さん
北村貢さん
岡本清見さん
高坂浪次さん
仲野修さん
新井誠二さん
篠原藤市さん
牛澤四郎さん
藤原国雄さん
鈴木俊夫さん
三浦光雄さん
川原与三郎さん
畑中嘉夫さん


かれらは16年12月30日付で鹿屋空に配属になっていますが(藤原さんの履歴から推測)、その2か月前、16年10月30日付で一足早く鹿屋空に配属されているのが操縦員たちです。
今村文三郎さん
鹿島長重郎さん
木下光三さん
杉本栄さん
谷口十七夫さん
中門清司さん
小林為雄さん




おそらくこれが飛練卒業後に鹿屋空に配属された9期生たちです。

中攻隊なのでもともと大所帯ですが、同期生がこれだけいるって相当心強かったかと思います。



今日は鹿屋空の9期生たちに関して。

『予科練外史』には「九期留魂録」以外にも、かれらについての記述がありました。

17年3月、ケンダリーにいた鹿屋空の中攻搭乗員たちから近況報告が届いた、という話が出てきます。

「霞空行きの便があるということを夜中に聞き、同期生一同集合してローソクの火の下で一筆を走らせました」

そこには、知っている範囲内ですがと断りつきで、すでに戦死した同期生の名が書き連ねてありました。
吉田俊光(16・12・8)
鈴木文亮(16・12・19)
嶺岸友三郎(17・1・15)
関明水(17・1・25)
森田勝(17・2・3)
井上春男(17・2・18)
和田邦介(17・2・19)
村田耕一(17・2・19)


そして紙をあらためて、

「九期爆音会鹿屋空有志」の寄せ書き(現物の画像掲載)。

ここには偵察員だけではなく操縦員の方も名前もあります。



御民われ生けるしるしあり
天地の栄ゆる時に逢へらく思えば
                    牛澤四郎謹唱




予科練魂の集りはビールの中に教官を偲んで居ります
                             三浦光雄



玉砕の鉢巻も雄々しく元気で頑張っています
                           岡本清見




夕べに南十字星を戴き、朝たにリラの花を眺め乍ら、殉皇の二文字に生きる男
                                            篠原藤市



初陣奏功 赤道直下元気で頑張って居ります
                           鈴木俊夫




南十字星は無心に輝けり
              北村貢




中攻隊ノ征ク所ニ敵ハ無ク 大東亜ヲ我等ノ鵬翼下ニ抱ク
                                 畑中嘉夫



先発隊ニ付不在
新井誠二
鈴木光雄
今村文三郎
川原与三郎
藤原国雄
鹿島長重郎
仲野修
高坂浪次
木下光三

新井誠二さん

鈴木光雄さん

今村文三郎さん(操縦)

川原与三郎さん

藤原国雄さん

鹿島長重郎さん(操縦)

仲野修さん

高坂浪次さん

木下光三さん(操縦)


封筒には、
「佐世保局気付
海軍藤吉部隊本隊第三分隊(鹿屋空本隊)
                       三浦光雄」


       






あれ?

足りませんね?


そう。
操縦の杉本さん、谷口さん、中門さん、小林さんのお名前がありません。
杉本さん

谷口さん

中門さん

小林さん

もちろん、みなさん、この時点でお元気です。
なぜお名前がないのか?



佐藤暢彦『一式陸攻戦史』によると、開戦直前台湾・台中にいた鹿屋空は、その後、蘭印攻略まで本隊(司令・藤吉大佐)と支隊(飛行長・入佐少佐)に別れて作戦していたようです。
本著や行動調書から、本隊はツドウム→スマトラ島(ゲルンバン)、支隊はパラオ→比島→ケンダリーと南下していっています。
※『一式陸攻戦史』を参考に自分なりに作ってみました。パラオが入っていなくてスイマセン


9期のかれらですが。

操縦員たちは、

12月8日 比島飛行場攻撃(支隊:高雄)
中門、杉本、小林

12月10日 マレー沖海戦(本隊:ツドウム)
鹿島、今村、木下

開戦直後の攻撃に参加しています。






操縦の人たちは一足早く着任し開戦に間に合ったのですが、偵察の人たちが大型機講習を卒業したのは16年12月末。
そこから移動や何やらあったのでしょうか、『一式陸攻戦史』によるとツドウム(本隊)に着任したのは17年の2月2日だそうです。全員が本隊配属です。

偵察員も加わって、本隊は「212基地」ツドウムからシンガポール攻撃などに従事。


行動調書を見ると、本隊の方は3月4日までは「366基地」というところから攻撃に出ていて、その後内地(木更津)に帰ってきています。
番号の基地がちゃんと把握できていないんですが、一連の行動調書や藤原さんの資料から、スマトラ島のゲルンバンではないかと推測しています。
ツドウムからゲルンバンに移動した日付は行動調書ではわかりません。


一方、支隊の方も「329基地」から3月1日まで攻撃に出ています。
329基地→ケンダリー基地ではないか、と。

やはり支隊もこの後、木更津に戻っているみたいです。

↑わたしの文章ではわかりにくいと思うので表にしてみました。
※『一式陸攻戦史』、鹿屋空行動調書参照




ということはですよ。


例の九期爆音会鹿屋空有志の手紙はどこから出したのか?
本当にケンダリーから出したのだろうか?

支隊の操縦4人ならわかるんです、ケンダリーでも。
本隊の搭乗員たちはゲルンバンからケンダリー経由で内地に戻って来たんだろうか?
そ うだとすると、かれらは内地に戻る途中のケンダリー基地から「霞空行きの便があると聞いて」夜中に集まって手紙を出したのか? そのまま帰ってしまえば飛行機なので翌日か翌々日には内地です。たぶん、ケンダリーから手紙を出すより、自分たちが帰ってくる方が早いのではないか? あるいは同便か?
まさか内地に帰ると聞かされないまま、ケンダリー経由で帰って来たのか?

わたしはその可能性は低いと考えています。
じゃあ、いつ書いたのか?
先発隊ニ付不在」と書いています。移動が絡んでいることはたしかでしょう。2月の末頃、ツドウムからゲルンバンに移動する際、全員で移動せず先発隊と後発隊に別れて移動したのではないか?

2月15日までは「先発隊」に名前が挙がっている人たちが212基地(ツドウム)にいたことは行動調書からわかっています。
で、2月27日には「後発隊」の人たちが366基地(ゲルンバン)から出撃しているようです。
この間に移動が行われたのであろう、と。
ツドウム→ゲルンバンの移動時、先発隊が出ていったあと、後発隊が出発するまでの間に書いたのではないか?

倉町先生への手紙で同期生の戦死者のことを話題にしていて、一番新しい戦死者が17年2月19日に台湾・新竹で移動中の事故により亡くなった村田耕一さんと和田邦介さんです。
ですから、2月19日以降に書いていることは間違いありません。
2月下旬――ぐらいまでしか絞り込めないですかね。

なぜ倉町先生が「ケンダリー」と書いているのかはわかりません。
郵便物はケンダリー経由で内地に送られていたのか?
それとも、鹿屋空はケンダリーにいたと誰かに聞いて、このときの手紙もケンダリーからだと思ったのか?



スイマセン、これ↑も想像です。
倉町先生宛の寄せ書きを見ていて、いつ、どこで書いたのだろうか、いろいろ思いを巡らせているうちに考えたことをちょっと書いてみました。





かれらのその後――

鈴木光雄さん・・・・17年4月、木更津空に転勤。11月12日707空、ルンガ泊地で戦死。
北村貢さん・・・・そのまま鹿屋空に残り、17年10月11日751空、ガ島で戦死。
岡本清見さん・・・・17年5月高雄空に転勤。753空。19年6月21日宮崎空、本州南方海面で戦死。
高坂浪次さん・・・・そのまま鹿屋空。
仲野修さん・・・・17年4月木更津空に転勤。8月26日、ソロモンで戦死。
新井誠二さん・・・・17年4月木更津空に転勤。707空。18年2月2日705空、ニューギニアで戦死。
篠原藤市さん・・・・17年4月木更津空に転勤。9月12日、ソロモンで戦死。
牛澤四郎さん・・・・17年8月三沢空に転勤。705空などを経て20年4月20日801空、南西諸島方面で戦死。
藤原国雄さん・・・・17年5月高雄空に転勤。753空などを経て19年10月13日攻撃708、台湾沖航空戦で戦死。
鈴木俊夫さん・・・・そのまま鹿屋空に残り、18年1月27日751空、ガ島で戦死。
三浦光雄さん・・・・17年4月木更津空に転勤
川原与三郎さん・・・・17年4月木更津空に転勤、707空。18年2月2日705空、ソロモンで戦死。
畑中嘉夫さん・・・・そのまま鹿屋空に残り、    19年8月10日1航艦司、大宮島で戦死。
今村文三郎さん・・・・17年8月三沢空に転勤、18年1月29日705空、レンネル島沖海戦で戦死。
鹿島長重郎さん・・・・そのまま鹿屋空に残り、18年1月30日751空、レンネル島沖海戦で戦死。
木下光三さん・・・・そのまま鹿屋空に残り、18年5月14日751空、ニューギニアで戦死。
杉本栄さん・・・・17年4月木更津空に転勤。
谷口十七夫さん・・・・そのまま鹿屋空に残り、18年1月27日751空、ガ島で戦死。
中門清司さん・・・・そのまま鹿屋空に残り、18年11月12日751空、第4次ブーゲンビル沖航空戦で戦死。
小林為雄さん・・・・17年4月木更津空に転勤、705空、横須賀空などを経て、4月12日偵察709、鹿屋基地発進後不明。

※鈴木俊夫さんと谷口さんは戦死したときペア(同じ飛行機)




内地に戻って来た翌月の4月に木更津空に転勤人になっている人が多いです。
鈴木光雄さん、仲野さん、新井さん、篠原さん、三浦さん、川原さん、杉本さん、小林さん

一方、そのとき、そのまま鹿屋空に残ったのは、
北村さん、岡本さん、高坂さん、牛澤さん、藤原さん、鈴木俊夫さん、畑中嘉夫さん、今村さん、鹿島さん、木下さん、谷口さん、中門さん




そして、新たな転入者が加わり、5月1日に開催された鹿屋空同期会
場所は不明


千歳空から石井三郎さん、元山空から南弘明さん、古田保雄さん、1空から河村徳市さんが新たに加わっています。

本来、写っていてもいいはずの高坂さん、今村さん、中門さんのお顔が見えない理由はわかりません。


その後、5月23日に岡本さんと藤原さんが高雄空に転勤、8月に牛澤さんと今村さんが三沢空に転勤して行きます。

そのまま鹿屋空に残った人たちは、751空と改称した隊で、高坂さんと畑中さんを除いて全員が戦死されてしまいました。

高坂さんの方は無事に終戦を迎えられているのですが、わたしは鹿屋空で見失ってしまいました。
751空に改称する直前の17年9月28日、鹿屋空中攻隊はカビエンからガ島攻撃に出ています。高坂さんの搭乗機は被弾19発、ブインに不時着、大破。攻撃隊として戦死者3名、重傷者3名、軽傷者7名を出しています。
行動調書の高坂さんの氏名に重傷者の印がついているように見えるんですよね・・・・。
ここで戦線離脱してしまったのか?
その後、どうなってしまったのか、把握していません。

畑中さんは上にも書いたように、19年8月10日、1航艦司、大宮島(グアム)で戦死。


※画像は9期生ご遺族ご提供 参考:佐藤暢彦『一式陸攻戦史』

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