謎の下士官練習生 ― 2016年07月10日 19時31分07秒
そのときに、
ここに練習生として写っているけれど、9期生じゃない人が4名いる
ってことも書いています。
『この中で、「8期生かな?」という人はもしかしたら何かの拍子にどなたか判明するかもしれませんが、あとの3名の方は・・・・(^^;)
ジョンベラの人がいるので、丙飛の人かなあ?という気もします。
となると下士官の人も8期の先輩とは限らず、丙飛の人かも?
練習生の場所に立っているけど実は教員でした、かもしれないし。
9期のどなたかが、木更津時代、かれらと一緒に写真でも撮っていて「○○さんと」みたいに書いていない限りわからないような気がします。』
今日はこのうちの下士官の人の話です。
「8期生かな?」という人は、おそらく8期の小薬武さんだろうと思っています。
もうお一人。
この人なんですけど。
たぶん、わからないだろうな~とあきらめていましたが、わかりました!!
と言っても、いつものごとく、わたしがこの人のお名前にたどり着いたわけでなく。
いつもごとく、Kさんからメールが(^^;)
Kさん、宇佐空の資料をお持ちなんですけどね――といったらわたしも同じものをいただいているんですけど(^^;)
ほら、例の、宇佐で飛練をやった9期生(飛練10期生)たち――艦爆艦攻の操縦専修生、中攻と艦上機の一部の偵察専修生――の名簿が載っているやつです。成績だとか、ちょっとした備考(飛行機壊したとか病気したとか)も書いてあります。
あれ、飛練10期だけではなく、他の飛練のクラスのことも書いてあります。
その資料にあった、ある甲3期生(飛練1期生)の卒業日時が飛練10期と同時になっている、と連絡してきてくださったんです。
「えっ!?」
驚いて確認したら、たしかに。
どうもこの方、その後、中攻の偵察員になられたようで。
ということは、藤原さんの木更津大型機講習卒業集合写真に写っているあの氏名不詳下士官ではないのか?
「待て待てー。甲飛3期なら確認する手段がある!」
といっても、これまた自力ではなくいつものごとく他力本願。
わたしの知人の戦史研究家に、お父さんが甲3期の教員か教官かされていた関係で、家に甲3のアルバムがあるって方がいらっしゃるんです。
さっそく、その人のお名前を伝え、お願いしてみました。
探して送ってきてくださいました。
たぶん、わからないだろうな~とあきらめていましたが、わかりました!!
と言っても、いつものごとく、わたしがこの人のお名前にたどり着いたわけでなく。
いつもごとく、Kさんからメールが(^^;)
Kさん、宇佐空の資料をお持ちなんですけどね――といったらわたしも同じものをいただいているんですけど(^^;)
ほら、例の、宇佐で飛練をやった9期生(飛練10期生)たち――艦爆艦攻の操縦専修生、中攻と艦上機の一部の偵察専修生――の名簿が載っているやつです。成績だとか、ちょっとした備考(飛行機壊したとか病気したとか)も書いてあります。
あれ、飛練10期だけではなく、他の飛練のクラスのことも書いてあります。
その資料にあった、ある甲3期生(飛練1期生)の卒業日時が飛練10期と同時になっている、と連絡してきてくださったんです。
「えっ!?」
驚いて確認したら、たしかに。
どうもこの方、その後、中攻の偵察員になられたようで。
ということは、藤原さんの木更津大型機講習卒業集合写真に写っているあの氏名不詳下士官ではないのか?
「待て待てー。甲飛3期なら確認する手段がある!」
といっても、これまた自力ではなくいつものごとく他力本願。
わたしの知人の戦史研究家に、お父さんが甲3期の教員か教官かされていた関係で、家に甲3のアルバムがあるって方がいらっしゃるんです。
さっそく、その人のお名前を伝え、お願いしてみました。
探して送ってきてくださいました。
甲3期の中攻偵察員、篠田義雄さんです。
病気で卒業が遅れ、飛練10期の大型機講習と一緒になったようです。
卒業後は高雄空。
ということは、倉町先生が16年の年末に汽車で一緒になったという中攻偵察員たちの中に、篠田さんもおられたでしょう。
その後、753空。
17年10月20日のガ島攻撃で2小隊の3番機が被弾、重傷者が2名(主電・副電)出ているのですが、このうちのお一人が篠田さんで、翌日亡くなられたようです。
ちなみにこのとき一緒に被弾した副電信員は10期の筒井正隆3飛曹。
かれは終戦まで生き抜き、戦後、このときのことを10期生同期生会誌に書いています。
『ガダルカナル飛行場の攻撃を了えた途端、敵グラマン戦闘機が蜂の巣をつついたように襲いかかって来た。私も7.7粍機銃で応戦していたが、遂に敵機銃弾を受けて負傷の身となった。
私の隣で共に戦っていた甲飛3期生の篠田義雄兵曹も又敵弾を受けた。彼は、翌日ラバウル第八海軍病院で私の隣のベッドで護国の英霊として不帰の人となった』
筒井さんの怪我は顔と腕の貫通機銃弾創だったそうです。顔面を五十数針縫ったそうです。
怪我の具合も詳細に書かれています。
軍医にはおそらくダメだろう(助からない)と言われていたそうですが奇跡的に持ち直したのだとか。
1年4か月の入院生活中は手術に次ぐ手術だったそうですが、退院後は教員や教官をして終戦を迎えたそうです。
怪我の具合からは「よくこれで兵役免除にならなかったな」と思うのですが、兵曹長進級時の写真を見ると、傷跡もわからないぐらいになっています。
※画像は9期生ご遺族、関口富坂大尉ご家族ご提供
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