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乙8期 小薬武さん2016年04月11日 21時00分17秒

藤原国雄さんの鈴鹿時代の班写真に、9期生ではない人が一緒に写っていました。




前列の右から2人目の人です。
階級章は1空です。
善行章がついているかどうかは確認できません。


こちらにも。
前方、中ほど左寄り、両手を後ろに回して立っている人です。
こちらは階級章はつけていないのですが、胸の名札、階級を書く位置に漢字が3文字あるように見えます。三空曹か?
隊内帽には線が一本入っています。下士官のようです。
(他の飛練10期生たちはまだ1空(兵階級)なので線はない)

この人、飛練大村の集合写真にも、木更津大型機講習の集合写真にも写っています。どうも、このあと、中攻偵察に進まれたものと思われます。




先日、8期同期生会誌の回想を読んでいて、「あっ!」となったのはこの人のことです。

8期小薬武さん(栃木)への回想に、9期の本間猛さん(旧姓石塚)が、
「過分数小薬さんは病気の為九期に編入されたが落胆もされず福助足袋のトレードマークそつくりの体格で良く駈足に落伍もされず人並以上に元気に走られるものと感服した」
と書かれているのを見て、すぐに鈴鹿藤原班の氏名不詳練習生の顔が思い浮かびました。

先輩に対してずいぶんなことを書かれているようですが、まあ、みなさん、他の方に対してもおおむねざっくばらんに書いておられます。

とにかく、この回想でハッとしたのです。

「小薬さんに間違いない!」

と思いました。


風貌がどうとかいう話ではなく「名前」です。


下の集合写真の方ですが、作業服に縫い付けてある名札、何となく文字が読めそうなんです。
先入観込みの心眼なら読めます。

本間さんの回想を読んで、
「あ! 名札、『小薬』さんだ!」
とハッとしたのです。

これは藤原さんのアルバムにあった集合写真の名札です。拡大しています。
写真の表面がつるつるではなく、でこぼこしています。
ぼこぼこのせいで何が書いてあるのかよくわからんのです。
このでこぼこを地と同じ色で埋めて読もうとしたこともありましたが、読めませんでした。

こちらは卒アルの同じ写真の名札。表面のぼこぼこはないのですが、画質が粗いです。
しかし、漢字2字で、上の字は中心に縦線がある簡単な字、下の字は煩雑な字であることは想像がつきました。

小薬さんでしょう。

たぶん、こんな状態。
右上は班番号でも書いてあるんじゃないかと想像しています。
「一班」とか。



小薬さんは戦死されたときは銀河の電信員ですが、もともと中攻乗りです。
開戦後は鹿屋空中攻隊の行動調書にお名前があります。


本間さんは「9期に編入」と書かれていますが、現時点でわたしは予科練時代の写真に小薬さんのお顔は見つけられていません。鈴鹿飛練からでしょうか。
今後、予科練時代に一緒に写った写真が出て来ないとは断言できませんけど・・・・。



戦史人物経歴研究家のKさんに尋ねたら、8期は15年11月1日に下士官に任官しているそうです。

9期偵察専修生が鈴鹿航空隊に入隊したのは15年12月。
本来ならば8期生だった小薬さんは9期の鈴鹿入隊時には3空曹に任官しているはずですが、Kさんによると、その後の辞令では小薬さんはどうも8期より半年遅れで進級しているそうで。となると、下士官任官も半年遅れの16年5月1日の可能性が高いかな、と。
本間さんが「病気で」と書いているので、おそらくそのためでしょう。

冒頭の1空姿の写真は鈴鹿入隊後~16年4月頃までの撮影、2枚目の作業服の写真は小薬さんが下士官に任官しているので16年5月以降7月までの撮影――の可能性が高いかなと思っています。



栃木県出身。8期生。
偵察 中攻→銀河

【飛練鈴鹿】
冒頭の集合写真。
場所は不明です。班写真のようです。


橿原神宮北神門


運動会。ラグビーのジャージを着ています。


藤原さんの班写真。


【飛練大村】



【大型機講習木更津】







小薬さんのお名前、9期生のことをやるより前から知っていました。
宮崎基地跡の慰霊碑です(2007年4月)。

第五銀河隊
昭和二十年四月十一日
3番目に書かれてあるのが小薬さんのお名前です。

たぶん「こぐすり」さんなんじゃないかと思うんです。
わたしは「こやく」さんかと思っていたのですが、同期の金沢秀利さんが回想で、
「別名目薬」
と書いていました。



神野正美さんの『攻撃501飛行隊の記録』によると、小薬さんは20年3月27日にも特攻出撃の予定があったようです。

ペアは、
操:佐藤武司上飛曹(予備練13)
偵:山本裕之大尉(兵70)
電:小薬武飛曹長

発進取止め。

このとき出撃して未帰還になった5機は第一銀河隊として布告されました。

そして4月11日。
攻撃262飛行隊(K262)の分隊長だった山本大尉が、本来指揮官だった浪上照夫中尉(攻撃501飛行隊(K501))を外し直率、出撃したそうです。
3月27日に指揮官である自分が発進取止めになり、部下たちだけがいってしまったことが尾を引いていたのか・・・・。

第5銀河隊
1530宮崎基地発進、喜界島南方洋上の艦船
操:佐藤武司上飛曹
偵:山本裕之大尉
電:小薬武飛曹長

操:酒井啓雄1飛曹(丙10)
偵:佐野国雄1飛曹(甲11)
電:坂田伸1飛曹(乙17)

操:上野善治少尉(予学13)
偵:神尾穣上飛曹(甲7)
電:加茂敏雄1飛曹(甲11)

操:前川五郎飛長(特乙1)
偵:猪股道夫1飛曹(甲11)
電:菅井弥十1飛曹(甲11)

操:永井茂1飛曹(丙11)
偵:工藤丑雄(甲11)
電:長岡友正上飛曹(乙16)

指揮官山本大尉機だけがK262であとはK501です。

「1番機 1853 戦場到着時刻1905 を発信」

と『攻撃501飛行隊の記録』にはあります。
発信したのは電信員である小薬さんでしょう。
これ以降の1番機からの発信は記録されておらず、これが最後になったようです。





山本裕之大尉に関しては、当時宮崎基地で働いていた安田郁子さんの『モスグリーンの青春』に記述があります。
少し長いですが、山本大尉の人となりや安田さんの苦しい気持ちがよくわかると思うので、引用させていただきます。

「昭 和二十年四月十一日、その日はまたも空襲警報で、良く晴れた日なのに、じめじめとした暗い壕に入りました。いつもの土壁の所に行くと、飛行服の方が二名お られ、そのうちの一人の方は衿章から若い大尉だとわかりました。海軍では「だいい」と言います。その方たちも私のように壁にもたれておられるのでした。
その大尉が私に「袖にマークをつけてください」と言われます。出されたのは横十センチ縦七センチほどの日の丸の布でした。「空襲が済めばすぐ出撃です。一応付けることになっているのでね」と言われるのです。
私は常に肩に掛けていた雑嚢の中から糸と針を出しましたが、針に糸を通す前から、このはじめてお会いした大尉がもうすぐ片道燃料で覚悟の自爆をもって国土を 守られるのかと思うと声もなく、顔を上げることさえもできません。涙が湧いてくるのを必死で止めているのが精一杯です。しかし、瞬きでもすれば不覚にも涙 が落ちそうです。しかも潤んだ目ではなかなか糸が通りません。ましてそのころのことで、お互いの息の掛かるほどに男の方に近づいたことなどありませんので、手が震えます。私は右側にいて大尉の左腕に付けるのです。左に行きたいのですが同僚の方がおられますのでそうもいきません。しかも飛行服は生地がとてもかたく、思うように針がすすみません。すると「ものの二分もついておれば良いのですから」と私を慰めてくださるのです。私はいっそう悲しくなってきます。
それでも何とか付けることができました。外は空襲も苛烈だったのでしょうが、そのことよりも、このときばかりは空襲解除を待つ気持ちとは逆に出撃の時間を少しでも延ばしてあげたいと思いました。
胸のなかに言ってあげたいことがたくさん渦巻いていながら何も言えないのでした。間もなく空襲が解除になると「出掛けよう」と部下の人をうながし、先に立って実に平静な姿で出て行かれました。大尉のすっきりした肩の線がいつまでも心に残りました」


このとき、山本大尉と一緒にいた人に関しては、安田さんは具体的には何も書いておられません。直接ことばを交わしたのは山本大尉だけのようです。
一緒にいたもう一人の飛行服の人のことは「同僚」「部下の人」という書き方をされています。
もしかしたら、一緒にいたのは小薬飛曹長か上野少尉だったのでは・・・・。


安田さんはこのときこの大尉の名前すら知らないままお別れされ、戦後ずいぶん経ってから、あのときの大尉さんが山本裕之大尉だったとわかったとのこと。


以前、K262の要務士の方のご紹介で安田さんと電話でお話させてもらったことがありました。
あのときは第6銀河隊の薬真寺靖少尉の話だけ聞いて、この、山本大尉との壕の中での出来事はまったく聞いた記憶がありません。聞いておけばよかったと・・・・。



小薬さんは遺書を残しています。
去年夏、土浦で求めた予科練生の遺書・遺詠・遺稿集に掲載されていました。
ご両親に宛てたものです。一部。

「幼き頃より憧れ、あの幾年か見馴れし南十字星の下に鵬翼と共にその身を砕く我、もって本懐とする所なり。
父母上よ、逢いたくば南海に我を訪れ給い、語りたくば南海に出で南十字星を仰ぎ給い。
南十字星の瞬く処、霊魂あり、その身朽ちるともあの星ある限り我が魂は祖国を護るならん。われ幸にて若輩にて死す」
「父母よ、知人よ、死せる我が名を呼び給うな。聖寿の万歳を三唱して我命中す」



20年4月11日  762空K262  喜界島方面



※画像は9期生ご遺族ご提供。
※引用・参考文献:安田郁子『モスグリーンの青春』、財団法人海原会『海軍飛行豫科練習生 遺書・遺詠・遺稿集(1)』、神野正美『攻撃501飛行隊の記録』

うちの姐御2016年04月11日 22時36分39秒

最近、春海、学校で「姐御」と呼ばれているそうです。






ちっちゃいころはかわいかったんですよ!( ;∀;)






まるでお人形さんみたいでした。






ほら。

生れたときは46センチ、体重も2600ちょいでちっちゃかったんですよ。
それがいまじゃあ・・・・。

体はデカいんですが、家ではいまでも赤ちゃんみたいな言動です。
ところが、学校では女子部長として仕切り屋やっとるようで、「姐御」と呼ばれているそうです。


その姐御から仕事中にメールが来ていました。
早く帰っているんです、まだ。
お昼食べて、ちょっと部活して帰ってくる、みたいな?


飯ってなんやねん、飯って!?


パン、2個も持って行ったのに、もう腹を空かしとるようや(+_+)




作ればあるんですよ。でも、作らないなら↑これしかないよ、と。

わたしは「か」って書いたつもりだったのに、帰ってみたら台所にカップ麺の空きカップ「と」パンの空き袋が転がっていました(-_-;)

どっちも食べやがった。






仕事から帰って来る途中で、スマホに春海からの着信履歴が残っていました。
以前、草餅を食べて唇が腫れたって半泣きで電話をかけてきたことがあったんですよ。
あ、以前って言ってもここ何ヶ月かの話ですよ。

また何かあったのかと思って、「なんや?」ってメールしました。電車のなかだったので。

メールで返信が来ました。



「はあっ?!w( ̄Д ̄;)w」






「そんなことでいちいちメールして来んなや」

って、プールの迎えに行ったときに言ったら、

「だって100回したら死ぬって言うやん(´・ω・`)」

うーん、命にかかわる緊急事態だったのか。






ところで。
今日のランチは、博物館のカフェに行きました。
パスタランチ。アラビアータ。

またソフトクリーム食っとりますぞ(´・ω・`)


ソフトクリーム食べたくて行ったんじゃないんですよ~

うちの姐御が、朝、情報番組の占いコーナーを見て、

「ママの今日のラッキーアイテムは博物館らしいよ! 恐竜だって!」

と言うんで、それに従って博物館に行っただけです。

恐竜じゃないけど、ちゃんと化石も見てきました。

特別いいこともなかったような気がするけど。




ひとつ前の投稿、進級関係の年を1年ずらして書いていたので訂正しました。