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乙9期 井上三千人さん2015年12月24日 11時02分44秒

福岡出身、偵察。
中攻、偵察機。




【氏名入り班写真】
8班です。


【東京行軍】




【水泳組写真】
乙舳海岸での水泳写真にも写っています。
まあ、泳げますよ、って感じでしょうか(^^;)


【大楠山慰安行軍】



【操偵適性検査】



【香取神宮】

桟橋


【操縦専修】
2学年?班写真。霞ヶ浦。
萩谷さんの写真に写っていました。

偵察総員集合写真。


【飛練鈴鹿】
伊勢神宮

運動会。

運動会、相撲部優勝。


【飛練大村】


【大型機講習木更津】



この後の写真はないんですが、田中三也さんの『彩雲のかなたへ』に出ている特練11期の集合写真に井上さんが写っていると思います(たぶん)。
田中さんご自身による記名はないのですが、お顔がそうだと思うんですよね。
前から2列目の左から3人目です。
19年2月29日?の卒業記念写真。同じ写真に坂田清一さん、畑中嘉夫さん(たぶん)、植木愛雄さんも写っています。



特練を命じられるまでは中攻の偵察員をされていたんです。
木更津空、元山空、755空・・・・

木更津空に関しては、16年12月20日の哨戒の搭乗割に入っています。井上さんと谷村博明さんが。それも一度きりなんですよ。
井上さん、次にお名前が出てくるのが17年2月元空で、あとはずっと元空ですね。

ここで気になるのが倉町秋次さんが『予科練外史』に書いている「九期留魂録」の話です。
16年の「年末」、倉町さんが白峯陵(崇徳天皇陵、香川)にお参りするために乗った列車で、たまたま9期の中攻偵察員たちと一緒になって寄せ書きを書いてもらった、という話です。
「前年の十一月末に予科練を出て飛練に進んだ偵察専修の九期生たちで、鈴鹿空で教程を終え、更に木更津空に転じて大型機講習員として三ヶ月修練を重ね、終業式をその朝終わってそれぞれの任地に向って出発の途上であった」
と書かれています。
「四十三人」らしいです。この件に関しては別に書きたいと思っています。

戦史人物経歴研究家Kさんにいただいた宇佐空の名簿、飛練10期偵察(のちの中攻偵察員と艦上機の偵察員あわせて20名)の期間が16年8月1日~10月 31日なので、わたしは木更津の大型機講習は11月1日?~12月末の2か月間だと思っていたのですが、倉町先生は「三ヶ月」と書かれています。
中攻偵察員の方の履歴を見ればわかると思うんですけど・・・・。考えても解決しないので保留。

あと問題は倉町先生の言う「年末」が具体的にいつかってことです。
井上さんと谷村さんが12月20日の木更津空の搭乗割に入っていることが気になります。
倉町先生の言う「年末」は12月20日より前の話なのか?
それとも井上さんと谷村さんは大型機講習中に木更津空の哨戒に参加したのか?
これもいま考えても解決しないので、保留。


中攻偵察員の皆さん、「年末」に任地に移動されたということで、井上さんと谷村さん以外の方々は編制表にお名前が出てくるのは翌年の1月2月からです。





以前にここでちょこっと紹介した、吉野泰貴『潜水空母 伊号第14潜水艦』。

ここに井上さんが戦死時に所属されていた偵察102飛行隊のことが書かれています。
井上さんのお名前も出てきます。当時は彩雲偵察員。

偵察隊のトラック島進出がいかに困難になっていたかを説明してある部分です。

「つ いで(20年)5月28日と30日に前後して木更津を発進した偵察102の2機の『彩雲』は経由地の南鳥島を発進したあと、相ついで消息を絶つ。うち1機 は中島正三郎中尉(操練22期)―井上三千人飛曹長(乙飛9期)―葛西義輔上飛曹(甲飛10期)ペアでの機体で、老練な操縦員と開戦以来の歴戦でベテラン の域に足を踏み入れた偵察員による航法でもトラックへの進出が困難であることを物語っていた」





「九期生名簿」では、井上さんの機はこのとき敵機と交戦したことになっていました。



20年5月30日  偵察102  南西諸島→トラック島   敵機と交戦






「おもいで」

「典型的なパイロットだ。もし君に日本航空の制服でも着せたら似合うだろう、立派だと思う、本当だ」

「耳の下のひだが普通の人より一つ多くあった。背が高いくせに憎らしいほどおとなしいゼントルマン」

「スマトラ島グルバン基地でジャワスラバヤ沖海戦の前哨偵察で張り切っていた。しかもその容姿の影には厳粛冷静な偵察魂が強く秘められていた。惜しみても余りある人材」

「二十年四月沖縄特攻に寧目ない鹿屋基地にフィリピンから単機彩雲飛来、降り立つ搭乗員はこれなんと三千人、まったくの奇遇を喜んだね。「なんだまだお前生きとったのか」お互いに同じことばが出たね。終戦まで生きていると思ったが」

「終戦直前木更津空の飛行場で君の後ろ姿を見かけ声をかけたが、とうとうわからず話も出来ず別れたきりになった。君はやさしいおとなしい男だった」

「真の偉大的パイロット」







4つ目の「おもいで」は『予科練の空』の本間猛さん(旧姓石塚)の回想です。

石塚さんは手記に、もう少しこのときのやり取りを詳しく書いています。


「風防を開けて下りてくる搭乗員は、背が高く、飛行服のよく似合う颯爽とした風貌の男である。ほう、なかなかのナイスボーイだなと見ていると、近づいてくる男が、手をあげて呼びかけてくる。だれだろう、人違いではないかと思っていると、
『おーイ、石やん、石塚だろう』という。よくよく見ると、同期の井上である。
『ウオ! 井ノか、三千人(サンゼンニン)か!』
『なんだ、お前、まだ生きとったか!』思わず二人とも同じ言葉が口を突いて出た。お互いに手を握り合った。まったくの奇遇である」


このあとしばしの立ち話。
同期生の消息に関してです。
最近は尋ねる気がしないぐらい、どこに行ってもだれもいない、と井上さんがぼやいています。

「飛練を卒業して以来の、四年ぶりの邂逅が、なんとも意気のあがらない話になってしまったが、残り少ない級友との出合いは、ほんとうに懐かしくもうれしいもの であった。ことに彼、三千人とはことのほか、昔から意気投合して、岸川を加えて三人で、奈良の古都を散策した思い出や、鈴鹿の角力部での活躍など、印象に残ることが多かった親友である」

「いかにも九州男子らしい、さっぱりした気性と、ととのった風貌、先天的なスタイルのよさは、その人柄とともにクラスの羨望を集めていた」



鈴鹿飛練、卒業アルバム最後のページの井上さん



※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供

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