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飛練10期 博多の人数2015年11月08日 07時10分09秒

またしても人数問題で深みにはまっております(=_=)




偵察飛練、博多の人数です。






藤代さんが手記に、
「昭和十六年七月三十日、練習機教程を終了し、実用機教程に入った。いよいよ雛鷲である。同期の偵察の百七名は、六十五名が大村空に、四十二名は水上機搭乗予定者として、博多空に配属された」
と書いています。

が、自分で修業写真の人数を数えて、

写真に写っている「9期でもあり飛練10期生でもある練習生は41名」と結論付けました。

・写真に写っている練習生らしき下士官は42名いるけど、たぶん一人は9期生じゃない(上のクラスの人が次期回しになった?)。
・9期生で飛練10期生であるはずの山田茂雄さんと遠藤秋章さんが写っていない。

ってことで。




手記や集合写真に写っている人数を根拠にして、人数を推定してはダメ――
というのはいままで散々思い知らされているはずなのに。



アホですねー。学習能力がない。




最近、博多飛練を卒業した某さんの履歴を見せてもらう機会がありました。

海軍の正式な履歴です。厚労省に申請してとってくださったのです。

あれって、成績が書いてあるんですよ。何人中何番目って。

「飛偵  ○/42」

↑この「飛偵」は偵察飛練の最終的な成績なので、博多の修業時の成績です。
ということは「42」が博多の修業人数です。

あ!

と思って見返してみたら、ずいぶん前に見せていただいていた坂田清一さんの履歴にも飛偵の人数「42」って書いてありました(T_T)


「待て待て待てー!」


ということはですよ、あの修業写真に写っている「練習生らしき下士官42名」(9期41名+9期以外1名)が、飛練10期博多の卒業生!?

山田茂雄さんと遠藤秋章さんは博多を飛練10期で卒業していないってことか!?

いやー、ちょっとわかりません。
わたしにとってはかなり重要なことなので、軽々しく判断できません。


が。


博多の飛練10期卒業者は間違いなく「42名」なんですよ。  ←海軍がそういっている


藤代さんの手記では、「博多42名」の内訳がいまいちよくわかりません。
博多に入ったときの人数なのか、博多を出たときの人数なのか。
藤代さんも何か海軍の正式な書類を持っていて、単にそこに書かれてあった「42」という数字を書いただけなのか。

鈴鹿から博多に上がるときに、山田さんと遠藤さんはどうしていたのか?
鈴鹿の修業写真がないので、お二人が飛練10期生として一緒に鈴鹿を卒業したのかどうかわかりません。
二人とも飛練10期生として鈴鹿を卒業できず、博多には41名で着任、次期回しになった先輩1名がそこで合流して42名になったのか?
一緒に博多に上がったけど、博多で何かあって卒業できなかったのか?


修業写真に写っている9期生じゃない人。
たとえば・・・・この人、立ち位置は練習生だけど実は教員でした――ってオチだったとしましょう。
仮にそうだったとしても、「飛偵42名」なのだから、山田さんか遠藤さん、どちらかは一緒に卒業されていないんですよね。
わたしがお顔を見落としているって問題ではなく、お二人を含めて43名ということは人数的にも修業人数「42」と合わないんで。


藤代さんも本間さんもそのことに関しては一切手記で触れられていないです。

「おもいで」に何か書いている人もいないです。

現在手元にある資料からだけでは判断できません。





あー。



そういえば。




最初に見せてもらった羽藤さんのアルバムに、こんな写真が貼られていたんですよね。
最初見たときは誰かわかりませんでした。

「遠藤」って人らしい、というのは胸につけている名札でわかりました。

これ、9期の遠藤秋章さんだったんです。


この写真の後列左端の人が9期の遠藤秋章さんということで、同一人物である、と。
ちなみに一緒に写っているのは前列左から安達繁信さん(愛媛、戦闘機)、大正谷宗市さん(徳島、戦闘機)、松本勝正さん(愛媛、戦闘機)、遠藤さんの右が川崎助男さん(佐賀、戦闘機)、柴田勉さん(岡山、戦闘機)。


上の写真、たぶん病衣ですよね。
羽藤さんが持っていたのでてっきり予科練時代の写真だと思っていました。
ところが、最近、いろんな写真を見ているうちに思ったのですが、予科練時代とはっきりしている写真の中に「大日本帝国海軍」のペンネントをつけた写真って1枚もないです。
鈴鹿の卒業アルバムを見ると「大日本帝国海軍」のペンネントで上陸している写真があります。
もしかしたら鈴鹿以降の遠藤さんなのかも。


で、下の写真ですが。
これまた最初に見たときからすごい違和感でした。
まず「操縦5人に遠藤さんお一人が偵察」って点です。5人は戦闘機、遠藤さんは艦爆偵察。階級章、顔ぶれから実施部隊に出てからの写真だと思うのですが、どこで一緒になったのだろう?と。
それに、遠藤さんがどうして花束を抱えているのか。

以前、遠藤さんが抱えている花束の花を、花がわかる友人に見てもらったことがあります。
「シャクヤクとナデシコじゃないか? 初夏の花じゃないかな」
って言っていました。
内地だとしたら、一種軍装だし、4月か5月頃かなあってそのときは思ったんです。



この2枚から――めっちゃ想像書いていいですか?(^^;)
遠藤さん、鈴鹿か博多で卒業できないほどの病気か怪我でもしたんじゃないかな?
下の写真は全快・退院した遠藤さんを操縦5人がお見舞い?に来て、一緒に写真を撮ったんでは?
花束は5人から遠藤さんに(^^;)
しかし、それなら前列真ん中が遠藤さんだろう!って気もしますが・・・・まあ、そこは置いておいて。


となると、上の写真をなぜ羽藤さんが持っていたか、ですよね。
遠藤さんが鈴鹿か博多で病気をしたとしたら、そこで撮った写真が羽藤さんにどうやって渡ったのか。

「文通していた」
なら即解決です。
が、羽藤さんの実家は空襲で焼けてしまったそうで、手紙類は残っていないとか。たしかめようがありません。

「手渡しした」としたらどこで会ったのか。
羽藤さんが16年11月に実施部隊に着任してから遠藤さんに会う機会はないんじゃないかという気も・・・・。
遠藤さんがいつごろどこにいたのかまったくわからないんで、確認のしようがありません。

あるいは下写真の5名のうち誰かがラバウルの羽藤さんに会って渡したのか?
誰が渡せる?

いやー、わかりません、わかりません。

そもそもホントに鈴鹿以降の病院写真かどうかもわからんし、遠藤さん全快記念集合写真かどうかもわからんので。




博多を飛練10期生として卒業していないんじゃないか、という疑惑から、昔見た写真を思い出してかなり飛躍した想像を書いてしまいました。


想像です。ん? 妄想?





※画像は雄翔館、9期生ご遺族ご提供