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乙9期 阿部芳包さん2015年10月23日 09時19分57秒

※台湾沖航空戦時のK501のことをお調べの方がいたら連絡いただけるとうれしいです。
hinemos.mama@gmail.com


宮城県出身、操縦。
艦攻→銀河


【予科練入隊前】
藤原さんが持っていた予科練入隊前の集合写真に阿部さんも写っていました。


【氏名入り班写真】
7班です。


【東京行軍】



【1学年2組水泳優勝写真】
阿部さん、泳ぎは達者みたいです。
もう1枚の集合写真でも線が2本入っています。


【操偵適性検査】


【香取神宮】


【操縦専修生グループ集合写真】
どういうグループか不明ですが、操縦専修生だけで写っています。

【操縦専修生集合写真】
操縦専修生総員の集合写真。
2空。


【ラグビー集合写真】
ラグビー部?だけの集合写真。

ラグビー優勝写真。
操縦専修生総員写っています。


【整備実習集合写真】


【班集合写真】
たぶん3学年班でしょう。
松本さんの班。


【操縦専修生集合写真】
操縦専修生総員の集合写真。
1空。




阿部さんの写真、ここまでしかないんです。
練習機飛練は筑波。実用機は宇佐です。

阿部さんが写っているんじゃないかと思われるK501の20年3月末の集合写真があるのですが、ぼんやりしていて阿部さんがどこに写っているのかわかりません。




予科練卒業時の寄せ書き。
伊達政宗の漢詩の一節ですね。





おもいで

「長岡教員のズーズー弁に、よく君は第七チョウ班長と言ったもんだ。最後までキをチと言ってみなから真似られていた」

「同期中同姓が君と二人。普通学、兵学、水泳、ラグビー何でもよく出来た君。「阿部健」と俺のことを呼んでくれたっけ」





20年4月14日   攻撃501   沖縄




第9銀河隊で特攻戦死された同じ飛行隊の深井良中尉(兵72期、)の手帳(20年3月末か4月初)に、阿部さんのことだろうと思われる記述があります。

搭乗員(操縦員?)の名前の一文字目が書かれていて、旧番号と新番号が併記されています。
何でしょうか、尾翼の機番号でしょうか。

阿部の「阿」の上に下士官マーク。
その右に旧番号53、新番号13と書かれています。
これがたぶん阿部芳包上飛曹のことだと思うんです。

戦死される直前のものですよね、これ。




調べていると、ときに自分が予想もしていなかった悲しい事実に突き当たることもあります。
良さんの手帳に残っていた阿部さんの痕跡は悲しいとか寂しいとかそういう感情が沸くようなものではなかったのですが・・・・。


神野正美さんの『攻撃501飛行隊の記録』に残っていた阿部さんの痕跡は、ちょっとどう表現していいかわからないぐらい悲しいものでした。

同じK501飛行隊で銀河の操縦員だった藤井庄輔さんの回想。出撃直前の阿部さんの様子です。

阿部上飛曹は「藤井兵曹、俺はもう疲労の限界にきた。どうせ長くは生きられない身だ、今夜は敵艦に体当たりしてでもいいから、帰らぬ決意だ。俺はいま、褌の新品を持っていない、君持っているなら、1枚くれないか」
「馬鹿なことを言うんじゃないよ、辛いのは誰もじゃ、帰って来なさいよ」
励まして1枚渡すと、彼は喜んでそれを身につけて・・・・
遂に帰って来なかった。


海軍に入って7年、搭乗員になって3年半になろうというベテランです。その間、わたしたちには想像もできないような修羅場をいくつもくぐってきているんだと思います。
そのかれが、最後の出撃は帰って来ないつもりの出撃だった――疲れたと言い残して。




わたしは初めてこの部分を読んだときには、ただただ悲しいだけで、阿部さんの苦悩というか、精神的疲労というか、そういうものがどこから来ているのかよくわかっていませんでした。
と言いながら、いまも本当のところはわかっていないかもしれません。

でも、もしかしたら、これも阿部さんにこんなことばを言わせた原因の一つなのではないか、という記述を同じ『攻撃501飛行隊の記録』で見つけました。最近。


19年10月12日、台湾沖航空戦で平山繁樹さんのペアだった藤井鎮上飛曹(乙12)はその後、どうなったのだろう・・・・
と、ページをめくっていて、目に留まりました。


(19年)11月25日 第5神風特別攻撃隊疾風隊【クラーク発1143】
操縦:川田茂久上飛曹    1340グラマンと交戦自爆
偵察:前田操上飛曹
電信:竹崎正意上飛曹

操縦:生駒重光上飛曹    1340グラマンと交戦自爆
偵察:中野龍郎上飛曹
電信:鈴木光雄上飛曹       ※この方は乙16期で、9期の鈴木光雄さんとは別人

操縦:阿部芳包上飛曹    1344グラマンと交戦、敵を見ず1530帰投
偵察:金田数正大尉
電信:東行雄上飛曹

操縦:藤井鎮上飛曹     1620アパリに不時着大破
偵察:堀内芳武上飛曹
電信:岡本嘉治上飛曹


光人社の『特別攻撃隊の記録』<海軍編>には、このとき銀河が4機出撃したことは書いてありますが、突入(?)した2機の搭乗員名しか出ていません。かれらは特攻名簿にも名前が載っています。
帰って来た2機のペアの搭乗員名は本文にもなければ、もちろん名簿にもありません。

坂田清一さんが特攻出撃していたこともYさんに教えられるまで知らなかったのですが、阿部さんも同じです。神野さんのこの記述を見つけるまで、特攻出撃して生還していたことに気づいていませんでした。

特攻出撃して、帰って来てしまった人間にしかわからない苦悩があるんだと思います。



戦没者名簿には、戦死状況が1行書いてあるだけです。
「○年○月○日  ○○航空隊  ○○にて戦死」
わたしが目にするのはこれだけです。
でも、そこに行きつくまでにいろんなことがあって、かれらはそのいろんなことを背負いこみながらそこにたどり着いている。





図南鵬翼何時奮

予科練卒業時、かれはこういう心持ちで大空に巣立って行ったんだろうと思います。





※画像は9期生ご遺族・ご家族ご提供。
神野正美『攻撃501飛行隊の記録』、光人社『特別攻撃隊の記録』<海軍編>、深井良中尉の手帳

結局、藤井鎮上飛曹のその後はつかんでいません。

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