乙9期 古田保雄さん ― 2015年08月06日 20時09分16秒
高知出身、偵察、中攻。
元山空、鹿屋空、751空。
【東京行軍】
元山空、鹿屋空、751空。
【東京行軍】

【操偵適性検査】


【香取神宮】

【体操部集合写真】

【運動会】


【艦務実習・山城】

15年3~4月

藤原国雄さんのアルバムに貼られていた「古田二空」

松本さんのアルバムに貼られていた一枚、書き込みなし。
土浦海軍航空隊。15年11月
予科練卒業時の寄せ書き

おもいで
「運動神経の発達した体操の上手な君の大車輪、特に着地が見事だった」
「入隊時隣班、君の体操はオリンピック候補級であったのに」
【飛練・大村】
土浦海軍航空隊。15年11月
予科練卒業時の寄せ書き

おもいで
「運動神経の発達した体操の上手な君の大車輪、特に着地が見事だった」
「入隊時隣班、君の体操はオリンピック候補級であったのに」
【飛練・大村】

16年10月
【木更津・大型機講習】
【木更津・大型機講習】

16年12月?
【鹿屋空同期会】

17年5月
18年3月6日 751空 ニューギニア
『予科練外史』に「留魂録」という話が出てきます。倉町先生が、9期の中攻偵察員たちが書いた寄せ書きに留魂録という名前をつけて保管していたのです。
その話の冒頭――
「十六期生が辻堂演習に出発した(17年)四月十三日、昼食後の休憩時間に速達便が届いた。私は、在勤中、横須賀時代、霞ヶ浦時代を通して、卒業生からこんな風変わりな手紙をもらったことはなかった。
前略
本十三日丸勢旅館にて待つ
一八三○迄に御来訪を乞ふ
報告は対面の後
第一次凱旋の九鷲
南 三飛曹
石井三飛曹
古田三飛曹」
この手紙は古田さんが書いたのかな?
3人は鹿屋空中攻隊の偵察員です。
この頃、内地に戻っていたのです。
南弘明さん(17年5月1日)
石井三郎さん(17年5月1日)
先生はかれらに会うために土浦の町に出て行きました。
「駅 を出た群衆の流れは、客を待って停車している木炭バスの所で二つに分かれた。右側の大きい方の流れの中に浮かんで二、三十人の黒い軍服の一団が近づいてく る。と、黒い塊の一角が崩れて、一人の下士官が走って来た。陽に焼けた顔の真中が綻びて、白い歯並みが近づく。私も急いで三、四歩近よった。
「還って来ました。」
と元気な声が叫んだ。大翔三千浬、若鷲は赤道を越えて還って来たのである。
「お還り。」
と言って、私は無量の感激を拳にこめて、肩をぽんと叩いてやった。
「南も、石井も来ているんです。」
古田保雄は、流れ行く人混みの中に目を走らせる。戦友が見つからないのをまるで自分の責任ででもあるかのようにいらいら捜す。三人は改札口を出る時、ばらばらになったのだという。会えるに決まっているのに、一秒でも早く会わせてやりたいと焦る心遣いが嬉しかった」
その後、南さんと石井さんも無事合流。
話の詳細は『予科練外史』を読んでいただければ。
九期留魂録の古田さんの言葉。
「九鷲の魂こもる記念の樹
雄飛の松は永久にゆるがじ
出征の途上東海道の車中にて 九鷲 古田保雄」
9期生と雄飛の松の話はちゃんと書かなければいけないと思いつつ、まだ書けていません。
何度か、土浦航空隊卒業時の雄飛の松との記念写真を出していると思いますが、ちゃんとは書いていないですよね。
9期生が予科練卒業にあたって土浦の庁舎前に記念に植えていった松です、雄飛の松。
かれらにとっては特別な松です。
自分たちの分身のように思っていた松です。
『予科練外史』
「特に、九期生からの戦地だよりには、殆ど<松は元気だろうか・・・・>と書かれていた。私は返信には必ず記念樹の写真を添えて、<・・・・松はこんなに元気で諸君の武運を祈っているよ・・・・>と書いてやった」
15年11月末。
先日見せていただいたSさんの写真の中に、戦後の、こんな一枚がありました。
18年3月6日 751空 ニューギニア
『予科練外史』に「留魂録」という話が出てきます。倉町先生が、9期の中攻偵察員たちが書いた寄せ書きに留魂録という名前をつけて保管していたのです。
その話の冒頭――
「十六期生が辻堂演習に出発した(17年)四月十三日、昼食後の休憩時間に速達便が届いた。私は、在勤中、横須賀時代、霞ヶ浦時代を通して、卒業生からこんな風変わりな手紙をもらったことはなかった。
前略
本十三日丸勢旅館にて待つ
一八三○迄に御来訪を乞ふ
報告は対面の後
第一次凱旋の九鷲
南 三飛曹
石井三飛曹
古田三飛曹」
この手紙は古田さんが書いたのかな?
3人は鹿屋空中攻隊の偵察員です。
この頃、内地に戻っていたのです。


先生はかれらに会うために土浦の町に出て行きました。
「駅 を出た群衆の流れは、客を待って停車している木炭バスの所で二つに分かれた。右側の大きい方の流れの中に浮かんで二、三十人の黒い軍服の一団が近づいてく る。と、黒い塊の一角が崩れて、一人の下士官が走って来た。陽に焼けた顔の真中が綻びて、白い歯並みが近づく。私も急いで三、四歩近よった。
「還って来ました。」
と元気な声が叫んだ。大翔三千浬、若鷲は赤道を越えて還って来たのである。
「お還り。」
と言って、私は無量の感激を拳にこめて、肩をぽんと叩いてやった。
「南も、石井も来ているんです。」
古田保雄は、流れ行く人混みの中に目を走らせる。戦友が見つからないのをまるで自分の責任ででもあるかのようにいらいら捜す。三人は改札口を出る時、ばらばらになったのだという。会えるに決まっているのに、一秒でも早く会わせてやりたいと焦る心遣いが嬉しかった」
その後、南さんと石井さんも無事合流。
話の詳細は『予科練外史』を読んでいただければ。
九期留魂録の古田さんの言葉。
「九鷲の魂こもる記念の樹
雄飛の松は永久にゆるがじ
出征の途上東海道の車中にて 九鷲 古田保雄」
9期生と雄飛の松の話はちゃんと書かなければいけないと思いつつ、まだ書けていません。
何度か、土浦航空隊卒業時の雄飛の松との記念写真を出していると思いますが、ちゃんとは書いていないですよね。
9期生が予科練卒業にあたって土浦の庁舎前に記念に植えていった松です、雄飛の松。
かれらにとっては特別な松です。
自分たちの分身のように思っていた松です。
『予科練外史』
「特に、九期生からの戦地だよりには、殆ど<松は元気だろうか・・・・>と書かれていた。私は返信には必ず記念樹の写真を添えて、<・・・・松はこんなに元気で諸君の武運を祈っているよ・・・・>と書いてやった」

先日見せていただいたSさんの写真の中に、戦後の、こんな一枚がありました。

撮影の日付けが1988年6月1日になっています。
この日がどういう日かわかりますか?
かれら9期生が予科練に入隊したのが昭和13年(1938)6月1日。
入隊してちょうど50年目の6月1日です。
この松がここに植えられて最初に見送った9期生――かれらのほとんどが、生きて再びこの地に集うことができませんでした。
空襲にも耐えたかれらの松ですが、平成6年に伐採されたそうです。
現在は2代目が植わっているのだとか。
※画像は9期生ご遺族・ご家族ご提供
※古田さんのことを調べている方いらしたら連絡いただけるとうれしいです。
hinemos.mama@gmail.com
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