Google
WWWを検索 ひねもすを検索

乙9期 宅間広正さん2014年09月06日 06時42分01秒

お顔がわかっていても、なかなか認識できない人っています。

宅間広正さんもそのお一人でした。

宅間さんは雄翔館に氏名入りの遺影があり、1年半ぐらい前にはお顔がわかっていました。

が、9期の集合写真でどの人なのかわからない状態が続いていました。
あるとき、海原会の方に、別の遺影を見せていただくことができました。
それは公開許可をいただいていないのでここには出しませんが、下士官の一種軍装で、もっとはっきりお顔がわかる写真です。ただ、ちょっと斜めで、それを見てもいまいちつかみきれませんでした。

2枚の遺影から、羽藤さん、松本さん、石川さんの9期生写真の宅間さんを探しました。
たぶん、この人ではないかという人を集めていたのですが、自信がなくてここには出していませんでした。

7月に、池田さんの写真を見せてもらった中に、水泳の集合写真がありました。
そこにその人が写っていて、水泳帯に文字が書いてあるのが見えました。
宅間さんだろうと思っていたのですが、どうも「宅間」とは書いていない雰囲気。
「あれ? この人だと思ったのに・・・・」

一緒に写っているほかの人、具体的に言うと藤谷周覚さんなのですが、水泳帯の文字が左右逆になっているのに気付きました。
「あー、水泳帯の名前がひっくり返っている人がいる。羽藤さんも逆だな」
と気づいて、画像を左右反転させて観察していたところ・・・・。
宅間さんもそのお一人でした。
左右反転させたらはっきり「宅」という文字が(;^ω^)

池田さんと同じ10班の人でした。

山梨県出身。
偵察。『予科練外史』によると水偵の偵察員らしいです。



【東京行軍】



【大楠山慰安行軍】


【香取神宮】


【10班班写真】
横須賀

横須賀

霞ヶ浦


【ラグビー観戦】




【操偵適性検査】


【飛練鈴鹿】



【飛練博多】


残念ながら、直筆で書かれたものは見つけられていません。

が、『予科練外史』に、予科練の倉町秋次先生にあてた手紙が掲載されていました。
「転戦中も、戦地から級友の消息や戦死の状況などをよく報じてくれた」そうです。

倉町先生によると、経歴は「九三二空から、「伊勢」「日向」の飛行機隊を以て編成された六三四空に転じ・・・・」と書かれています。





「おもいで」

「ちょっと首をかしげる癖があった。あちこちでロマンスがあったようだ」

「重厚な人柄。俺も君のような人柄になりたいと思っていたのに」

「いつも考えながらものを言うタイプだった。技術者のような浅黒い顔が目に浮かぶ」

「君の英語のリーディングは群を抜いていた。二宮尊道教官から指名されてクラスのリーディングを菊地平君と担った貢献者の一人」

「目につきやすいのか、上級生にはよく指導されたね」


宅間さんのお人柄なのか、5人もの同期生が思い出を語っています。



19年10月24日  634空 比島ラモン湾東方海域





先日、池田さんの写真を見に行ったとき、アルバムの写真を見ていて、思わず、
「えっ!?」
と叫んでしまった写真がありました。

戦地での写真です。
左から2人目、左手に包帯?たばこが池田さん。

「一番右は宅間さんじゃねーの!?」

缶詰のようなものを抱えてうれしそうにしているのは、宅間さんに見える。


宅間さんは水偵の偵察員です。
どうして艦爆の池田さんと一緒にいるの!?



これも、戦地だと思われます(直感ではなくいちおう理由はあります)。
右が池田さん。

「左側、宅間さんでしょ!?」


いやいや、最近、思い込みが激しくて「他人の空似」をやらかしてしまっているから、今回もそうかもしれない・・・・。
お顔だけで判断せず、ちょっと検討しよう。
二人が戦地で一緒に写真に写れる可能性はあったのか。


池田さんの35空は17年2月に佐伯から上海・台湾経由でマカッサルに向かいました。
その経由地のどこか、あるいは戦地マカッサルで宅間さんと一緒になったのか。

マカッサル近辺の水偵の部隊を探しているのですが、いまのところ宅間さんのお名前は発見できておらず。


でもでも。
一つ思い出したことがありました。
例の、倉町先生への手紙です。


「九期の宅間広正から乙九期の知らせが届いた。

――(省略)

突然、又、悲しいことをお知らせしなければならなくなりました。同期の村田耕一、和田邦介が、戦地マカッサルに向けて進出途中、台湾新竹付近で戦死を遂げました。

あの日は(二月十九日)雲が低く、ミストが深く、視界零、強行突破で飛行中、山岳に激突、戦死いたしました次第であります。同時に六期の佐々木孝一飛曹も戦死されました。途中でなくなられたのが非常に残念です。

その他の同期、先輩諸兄皆無事であります。待望の地も指呼の間です。この便りを読まれる頃にはやっている筈です。落ちつきましたらまた同期生の消息をお知らせします。

「雄飛の松」の写真を皆喜んで見ました。村田も和田も喜んで死んだと思って居ります。

                                      高雄にて          宅間 生

                                   呉局気付セ三二、セ一九  第二分隊

宅間の宛名の「セ三二、セ一九」は「郵便物取扱ニ関スル例規」によれば、「セ三二」はボルネオ島のバリクパパン、「セ一九」は第二南遣艦隊付属水上機隊となっていた。高雄からそこに進出する直前にかいたものであろうか」


宅間さんが手紙に書いている「同期の村田耕一、和田邦介が――」のくだりは、35空の艦爆が8機で戦地へ向け移動中(この日は上海を発ち高雄に向っていた)、悪天候のためにそのうちの6機が台湾新竹付近の山に激突、司令を含む12名が亡くなった惨事を指しています。
12名の中には、転科教育を終えて実施部隊に赴任したばかりの9期の村田さんと和田さんも含まれていました。

宅間さんのこの手紙の書きぶりでは、宅間さんは35空の人に直接会って話を聞いたのではないか、という気もします。

難を逃れた35空の2機の搭乗員氏名(4名)は把握していませんが(お一人は清水潔美飛曹長らしい)、その中に池田さんがいたんじゃないかと推測しています。
無事だった2機はそのまま高雄に着陸したようです。

ただ、このときの高雄滞在は短期間。
35空整備長の手記によると、翌日マカッサルに向けて発進させているので。

どうなのかな。
宅間さんが高雄にいたことは手紙から確実でしょう。
池田さんも高雄に滞在したかもしれない(助かった4名の一人であれば)。

ただ、上の写真が、2月19日、20日に高雄で撮られた可能性は低いかな。
写真を見ても、大惨事のあった当日、翌日の様子には見えませんから・・・・。


池田さんはマカッサル、倉町先生の話だと宅間さんはバリクパパン。海を挟んでいるしなあ。
マカッサルかバリクパパンか、あるいはあの周辺の町で休日を一緒に過ごす機会があったのかなあ?


上の写真の楽しそうな様子から察すると、もしかしたら残りの二人も9期生なのかもしれません。
操縦ではないです。
9期生だとしたら偵察員だと思うのですが、わたしにはどなたか判断できません。9期生かどうかすら判断できません。


生存者の手記を読んでも、戦地でばったり同期生に会った、という話もあるので、艦爆の池田さんと水偵の宅間さんがばったり、ってこともあったのだろうな。
もしそうだとすると、15年11月に予科練を卒業して以来の再会だったのでは。
1学年時同班ということはまさに1年以上寝起きを共にしていたわけで、気心の知れた友との再会はうれしかっただろうな、と想像します。


※画像は雄翔館、9期生ご遺族ご提供
十河義郎『忘れざる艦爆隊 「第35空」悲劇の真相』 戦史人物経歴研究家さんご提供

乙9期戦没者はこちら

コメント

トラックバック