乙9期 村上守司さん ― 2014年05月26日 07時40分24秒
村上さんはお顔もわかりません。
情報もほとんど持っていません。
が、どうしても書いておきたいことがありました。
今回の関東行はもともと慰霊祭への参加が目的でした。
池田さんの姪御さんと相談し、土浦に前泊することにしました。
「筑波海軍航空隊の庁舎で金剛(←池田さんのお父さんは英から回航してきたメンバー)ゆかりのものが公開されているので見に行きましょうか」
と、24日朝に東京都内で待ち合わして、常磐道で笠間市友部の筑波海軍航空隊の見学に行きました。
ここでのことは別に項を設けてちゃんと書きたいと思います。
筑波海軍航空隊庁舎建物内は展示スペースもあり、そこにゆかりの搭乗員のパネルや遺品が飾られていました。
その中に、予科練出身の人が、地元の下宿屋さんと一緒に写った写真が飾られていました。
山岸昌司飛曹長(戦死後)。筑波空で教員経験のある方です。
その写真を見たときは、
「あー、下宿先のご主人にかわいがられていたんだなー」
と思っただけでした。
最近、見たり聞いたりしたことをすぐに忘れたり、混同したり、だいぶヤバいです。
このときパネルを見た山岸飛曹長のことは、お名前と「下宿のご主人にかわいがられていた人」という印象だけしか自分の中に残っていませんでした。
翌日、慰霊祭で戦史研究家のYさんとお話ししました。
Yさんは一週間前の筑波海軍航空隊の慰霊祭にも参加されていて、そのとき山岸飛曹長のご遺族の方とお話をされたということを話題にされました。
「今日もご遺族の方が来られます」
と。
「あー、下宿のご主人にかわいがられていた人ですね」
↑この時点でもわたしの認識はその程度(^^;)
「山岸飛曹長は長野の人で」
「翔鶴の艦攻操縦の人で」
そうだったんですねー、ここらへんはパネルをちゃんと読んでいませんでした。
「山岸飛曹長のペアの電信員はたしか9期生でしたよ」
「ええっ!? ホントですか?」
翔鶴の艦攻隊?
翔鶴・・・・翔鶴・・・・
「もしかして、村上守司さんですか?」
「そーです、たしかその方です」
「村上さんは南太平洋海戦で戦死されていますよ」
「そうです」
「村上さんも長野の人ですよ」
「えっ!?」
この奇遇に二人で「えっ!?」でした。
慰霊祭の後で少しだけ、Yさんを介して山岸飛曹長のご遺族の方と立ち話できました。
ご遺族の方も、山岸さんの電信員が同郷の後輩だということはご存じなかったようで、驚かれていました。
わたしも、ご遺族の方と連絡が取れた9期生に関しては、戦死したときのペアの経歴(出身期や出身地)も調べているのですが(←戦史経歴研究家さん頼り(^^;))、そうでなければペアの経歴まで把握していません。
今回は思わぬところから村上守司さんのペアの操縦員・山岸飛曹長のご遺族の方と対面?できて、すごく不思議な感じです。
村上さんも、ペアの操縦員が予科練の先輩(乙6)で、しかも同郷となればさぞかし心強かったと思います。
同じく翔鶴の艦攻電信員だった同期生の萩谷幾久男さんが予科練の倉町先生に語った、村上さんの最期の様子が『予科練外史』に掲載されています。
『(南太平洋海戦)
上空三、○○○米付近で相当多数の飛行機が空戦中でした。「瑞鶴」の艦爆だったかもしれません。雷撃針路に入ると、防禦砲火はすさまじく、高角砲の煙がペラ に巻き込まれるように見えます。ぎりぎりまで接敵して空母に魚雷を発射しました。避退する時は、敵駆逐艦の七○○から八○○位のところを飛びぬけたのですが、その時もさんざん撃たれました。飛行機がバリバリいう。海面には水柱が五米も一○米も上がっています。高角砲の弾片が水面に落ちるためでしょう。敵は高角砲を横にして撃っていました。その時見たのです。空母に魚雷を発射しようとしていた村上の機らしいのが少し左にかわしました。空母が変針しかけたからです。発射後直進し、空母の上で火を吐き、通り越して護衛の駆逐艦に自爆しました。
村上とは艦でいつも一緒でしたが、あいつは潔く戦死できるようにと、よく修養の本を読んでいました。
「立派に戦死したと言ってくれ。知っている人みんなに言ってくれ。」と、いつも言っていましたが、その言の通り立派に戦死しました。』
文中に出てくる「村上の機」が、山岸飛曹長機(当時は1飛曹)です。
おもいで
「博多で一緒。全くウマが合ってよく一緒に外出、稀に、度々脱線(一杯やって)したネ。肝胆相照らす仲だったのに一別以来で消息がいままでなかったとは酷いぞ。いつかお前の墓参りに行くよ」
飛練が博多ということは、この中にいらっしゃるのだと思います。
情報もほとんど持っていません。
が、どうしても書いておきたいことがありました。
今回の関東行はもともと慰霊祭への参加が目的でした。
池田さんの姪御さんと相談し、土浦に前泊することにしました。
「筑波海軍航空隊の庁舎で金剛(←池田さんのお父さんは英から回航してきたメンバー)ゆかりのものが公開されているので見に行きましょうか」
と、24日朝に東京都内で待ち合わして、常磐道で笠間市友部の筑波海軍航空隊の見学に行きました。
ここでのことは別に項を設けてちゃんと書きたいと思います。
筑波海軍航空隊庁舎建物内は展示スペースもあり、そこにゆかりの搭乗員のパネルや遺品が飾られていました。
その中に、予科練出身の人が、地元の下宿屋さんと一緒に写った写真が飾られていました。
山岸昌司飛曹長(戦死後)。筑波空で教員経験のある方です。
その写真を見たときは、
「あー、下宿先のご主人にかわいがられていたんだなー」
と思っただけでした。
最近、見たり聞いたりしたことをすぐに忘れたり、混同したり、だいぶヤバいです。
このときパネルを見た山岸飛曹長のことは、お名前と「下宿のご主人にかわいがられていた人」という印象だけしか自分の中に残っていませんでした。
翌日、慰霊祭で戦史研究家のYさんとお話ししました。
Yさんは一週間前の筑波海軍航空隊の慰霊祭にも参加されていて、そのとき山岸飛曹長のご遺族の方とお話をされたということを話題にされました。
「今日もご遺族の方が来られます」
と。
「あー、下宿のご主人にかわいがられていた人ですね」
↑この時点でもわたしの認識はその程度(^^;)
「山岸飛曹長は長野の人で」
「翔鶴の艦攻操縦の人で」
そうだったんですねー、ここらへんはパネルをちゃんと読んでいませんでした。
「山岸飛曹長のペアの電信員はたしか9期生でしたよ」
「ええっ!? ホントですか?」
翔鶴の艦攻隊?
翔鶴・・・・翔鶴・・・・
「もしかして、村上守司さんですか?」
「そーです、たしかその方です」
「村上さんは南太平洋海戦で戦死されていますよ」
「そうです」
「村上さんも長野の人ですよ」
「えっ!?」
この奇遇に二人で「えっ!?」でした。
慰霊祭の後で少しだけ、Yさんを介して山岸飛曹長のご遺族の方と立ち話できました。
ご遺族の方も、山岸さんの電信員が同郷の後輩だということはご存じなかったようで、驚かれていました。
わたしも、ご遺族の方と連絡が取れた9期生に関しては、戦死したときのペアの経歴(出身期や出身地)も調べているのですが(←戦史経歴研究家さん頼り(^^;))、そうでなければペアの経歴まで把握していません。
今回は思わぬところから村上守司さんのペアの操縦員・山岸飛曹長のご遺族の方と対面?できて、すごく不思議な感じです。
村上さんも、ペアの操縦員が予科練の先輩(乙6)で、しかも同郷となればさぞかし心強かったと思います。
同じく翔鶴の艦攻電信員だった同期生の萩谷幾久男さんが予科練の倉町先生に語った、村上さんの最期の様子が『予科練外史』に掲載されています。
『(南太平洋海戦)
上空三、○○○米付近で相当多数の飛行機が空戦中でした。「瑞鶴」の艦爆だったかもしれません。雷撃針路に入ると、防禦砲火はすさまじく、高角砲の煙がペラ に巻き込まれるように見えます。ぎりぎりまで接敵して空母に魚雷を発射しました。避退する時は、敵駆逐艦の七○○から八○○位のところを飛びぬけたのですが、その時もさんざん撃たれました。飛行機がバリバリいう。海面には水柱が五米も一○米も上がっています。高角砲の弾片が水面に落ちるためでしょう。敵は高角砲を横にして撃っていました。その時見たのです。空母に魚雷を発射しようとしていた村上の機らしいのが少し左にかわしました。空母が変針しかけたからです。発射後直進し、空母の上で火を吐き、通り越して護衛の駆逐艦に自爆しました。
村上とは艦でいつも一緒でしたが、あいつは潔く戦死できるようにと、よく修養の本を読んでいました。
「立派に戦死したと言ってくれ。知っている人みんなに言ってくれ。」と、いつも言っていましたが、その言の通り立派に戦死しました。』
文中に出てくる「村上の機」が、山岸飛曹長機(当時は1飛曹)です。
おもいで
「博多で一緒。全くウマが合ってよく一緒に外出、稀に、度々脱線(一杯やって)したネ。肝胆相照らす仲だったのに一別以来で消息がいままでなかったとは酷いぞ。いつかお前の墓参りに行くよ」
飛練が博多ということは、この中にいらっしゃるのだと思います。

なんですとーーーー!!!!Σ( ̄ロ ̄lll) ― 2014年05月26日 16時43分08秒
もうすでに昨日何が起こったのか、ご存じの方も多いと思います。
「ママのヤツ、書きたくてうずうずしているに違いない」
そう思われていることでしょう。
その通り( ̄▽ ̄)
しかし。
大事な記事ばかり連続して出すと、ちょっとアレかなーと思うので。
ときどきこうして(スルー可の)どーでもいい記事を挟みつつ、更新して行こうと思います(笑)
と、言いながら、実はもう少し自分の中で余韻に浸りたい・・・・というのが本音です。
「ママのヤツ、いつもの健忘症で、”書く”と言ったことを忘れるんじゃないか!?」
それはたしかに自分でも心配です。
ちゃんとノートにメモを取っているし、書くと言ったことをそう簡単に忘れられるようなできごとではないので、たぶん、ちゃんと書くと思います(^^;)
なので、今回はどーでもいい話。
春海がテスト前だということが念頭にないまま計画を立ててしまい、テスト直前にも関わらず春海は東京へ・・・・。
「テスト勉強を持って行きなさい」
スポーツバッグに教科書やらプリントやらいろいろ詰めて持って行かせました。
行きの新幹線の中では真面目に取り組んでいました。
帰りの新幹線の中↓
「ママのヤツ、書きたくてうずうずしているに違いない」
そう思われていることでしょう。
その通り( ̄▽ ̄)
しかし。
大事な記事ばかり連続して出すと、ちょっとアレかなーと思うので。
ときどきこうして(スルー可の)どーでもいい記事を挟みつつ、更新して行こうと思います(笑)
と、言いながら、実はもう少し自分の中で余韻に浸りたい・・・・というのが本音です。
「ママのヤツ、いつもの健忘症で、”書く”と言ったことを忘れるんじゃないか!?」
それはたしかに自分でも心配です。
ちゃんとノートにメモを取っているし、書くと言ったことをそう簡単に忘れられるようなできごとではないので、たぶん、ちゃんと書くと思います(^^;)
なので、今回はどーでもいい話。
春海がテスト前だということが念頭にないまま計画を立ててしまい、テスト直前にも関わらず春海は東京へ・・・・。
「テスト勉強を持って行きなさい」
スポーツバッグに教科書やらプリントやらいろいろ詰めて持って行かせました。
行きの新幹線の中では真面目に取り組んでいました。
帰りの新幹線の中↓

パパにもらったタブレットでなめこを栽培しています。
なんですとーーーー!!!!Σ( ̄ロ ̄lll)
東京に、スポーツバッグごと忘れて帰って来ちゃいました!!!!∑(`□´/)/
アホやアホやアホやアホや・・・・orz
土浦乙9期会 ― 2014年05月26日 18時55分08秒
去年12月の愛媛乙9期会に続いて、今回、土浦でも乙9期会に立ち会えました。
慰霊祭後の直会。
食事や太鼓演奏の後は自由歓談。
今回はこちらのお二人。
慰霊祭後の直会。
食事や太鼓演奏の後は自由歓談。
今回はこちらのお二人。
井原大三さんと池田和義さん。

※画像は羽藤さん所有、東京行軍神宮外苑にて
1938年6月、隣同士で写真におさまっている二人の予科練生のご遺族が、ほぼ76年ぶりに土浦で再会?されました。
実を言うとですね・・・・(小声)
わたしがそれぞれの方と通信していたので、本来わたしが仲介してお引き合わせすべきだったのですが・・・・。
わたしが他のことに夢中になっている間に、乙9期会が始まってしまっていてですね・・・・。
わたしが駆けつけたときにはすでに打ち解けたご様子で・・・・。
そこに、井原さんが亡くなった同じ戦闘で怪我をした山崎市郎平さん(台南空)のご遺族も加わって、和やかに会が進んでおりました(^^;)
直会終了の時間になったので、みなで予科練平和記念館の見学に行き、記念館前で記念撮影しました。
見学後、三々五々帰途につきました。
希望されているご遺族の方がいらっしゃればの話ですが、またこういう機会があるとよいな、と思います。
1938年6月、隣同士で写真におさまっている二人の予科練生のご遺族が、ほぼ76年ぶりに土浦で再会?されました。
実を言うとですね・・・・(小声)
わたしがそれぞれの方と通信していたので、本来わたしが仲介してお引き合わせすべきだったのですが・・・・。
わたしが他のことに夢中になっている間に、乙9期会が始まってしまっていてですね・・・・。
わたしが駆けつけたときにはすでに打ち解けたご様子で・・・・。
そこに、井原さんが亡くなった同じ戦闘で怪我をした山崎市郎平さん(台南空)のご遺族も加わって、和やかに会が進んでおりました(^^;)
直会終了の時間になったので、みなで予科練平和記念館の見学に行き、記念館前で記念撮影しました。
見学後、三々五々帰途につきました。
希望されているご遺族の方がいらっしゃればの話ですが、またこういう機会があるとよいな、と思います。