冷やしたい焼き ― 2013年06月01日 22時17分36秒
今日のおやつは冷やしたい焼き・ガーナチョコレート入りです。
中にはカスタードクリームと板チョコが入っていました。
うちの和金ちゃんたち、いつもリュウキン水槽覗いています。
リュウキンちゃんの方はそう興味もないらしく、相手しているのはファンタだけです。
何を話しているのかな?(^o^)
春海の靴 ― 2013年06月02日 23時04分39秒
春海の靴がとうとう24.5になった!?
パパの「28」を目指すらしい。
やめてくれーーーー(>_<)
パパの「28」を目指すらしい。
やめてくれーーーー(>_<)
パイロットになった動機 ― 2013年06月03日 13時10分38秒
昨日の『空飛ぶ広報室』で空自に入った動機についてあれこれ言っているシーンがありました。
わたしも新田原に行ったとき、数人に、
「どうして戦闘機パイロットになったんですか?」
と聞いてみました。
親が自衛官だった(複数)
トップガン(複数)
わたしが聞いた人はこんな感じでしたね・・・・。
どちらの動機もよくわかります。
わたしが聞いた中には特別風変わりな動機や理解不能な動機の方はいらっしゃいませんでした。
もうちょい踏み込んだ調査が必要だったかしら・・・・。
「誰にも言わないからぶっちゃけちゃって( ^o^)ノ」
みたいな(笑)
で、来年あたりから「ガッキーのドラマを見て」って言う人が出てくるんでしょうか(^_^;)
わたしも新田原に行ったとき、数人に、
「どうして戦闘機パイロットになったんですか?」
と聞いてみました。
親が自衛官だった(複数)
トップガン(複数)
わたしが聞いた人はこんな感じでしたね・・・・。
どちらの動機もよくわかります。
わたしが聞いた中には特別風変わりな動機や理解不能な動機の方はいらっしゃいませんでした。
もうちょい踏み込んだ調査が必要だったかしら・・・・。
「誰にも言わないからぶっちゃけちゃって( ^o^)ノ」
みたいな(笑)
で、来年あたりから「ガッキーのドラマを見て」って言う人が出てくるんでしょうか(^_^;)
乙9期 10期飛練 ― 2013年06月04日 10時33分02秒
15年11月30日に第九期飛行予科練習生を卒業。
翌12月1日から第十期飛行練習生となる。
操縦専修生は谷田部と筑波に。 ※全員陸上機操縦。水上機操縦は0。
翌12月1日から第十期飛行練習生となる。
操縦専修生は谷田部と筑波に。 ※全員陸上機操縦。水上機操縦は0。
飛練十期・谷田部
飛練十期・筑波
偵察専修生は全員鈴鹿へ。
16年5月31日 操縦専修生、練習機教程を修了。実用機教程へ。
大分(戦闘機)、宇佐(艦攻・艦爆)、大村(中攻)へ。
操縦専修生たちはこのあと大幅な機種入れ替えがあって多少ややこしいのですが、どう移動したかはほぼ把握しています。
偵察専修生は少し遅れて16年7月30日に実用機教程へ。
博多、大村。
偵察専修生をどういう基準で博多、大村にわけたか、把握できていません(自分が)。
偵察員であった藤代護さんは手記に、
「同期の偵察専修の百七名は、六十五名が大村空に、四十二名は水上機搭乗偵察員予定者として、博多空に配属された」
と書かれています。
これを読んで、
「博多の42名が水上機(飛行艇と艦載の小型水上機)で、大村の65名がそれ以外(艦上機・中攻)か」
と、ずっと思い込んでいました。
ところが、ある写真を目にして、「違う」ということに気づきました。
博多の卒業修業写真です。
その写真には、
「博多海軍航空隊、偵察専修43名は水上機教程を卒へ・・・・」
と書かれてあります。
藤代さん手記では42名、写真の添え書きでは43名。
これはいまは問題にしません。上のクラスから降りてきた人がいるかもしれないので。
この「水上機教程」と書かれた写真に、清水巧さん(艦攻・艦爆)、佐々木隆寿さん(艦攻)、坂田清一さん(艦爆)らしき人が写っていたのです。
ということは「水上機搭乗予定者」の中には、艦上機予定者も入っている?
博多・・・・水上機、艦上機
大村・・・・中攻
ということになるのでしょうか。
そもそも、どうしてわけて教育しているのか、ですが。
この方面に詳しい方(複数)に聞いてみたのですが、
「偵察員教育を機種でわける必要はないんじゃないか」
ということでした。
ある方は、単に教育施設のキャパシティの問題では?とも。
たしかに偵察員って、何にでも乗るんですよね。
9期生でいえば、開戦直後は加賀97艦攻の電信員をしていた西谷芳数さんが、戦死されたときは2式飛行艇でした。
これとは逆に、水上機から陸上機って方。
宮本一さん・・・・艦載水上機→銀河・彩雲
本間猛さん・・・・飛行艇→艦載水上機→彩雲
ただ、不思議といまのところ、中攻とその他を行き来した方は把握できていません。
やはり大村と博多は、中攻とその他でわけていたのかも。
まだ全員の全部の航空隊を把握しているわけではないので、今後、行き来した方が出てくる可能性はあります。
ちなみに前後の期ですが。
8期の金沢秀利さん(艦攻)の手記を読むと、飛練・鈴鹿のあと宇佐に移ったようです。
のちに「かくして延長教育を修業し、同期生は、水偵、九六陸攻、戦闘機、艦爆にと、それぞれ四散した」という記述が出てくるので、宇佐まで全員一緒だった可能性大です。
10期は、「とんぼ」という同期生会誌の生存偵察員の手記を参考にしたところ、ほとんどの方が、飛練は最初から最後まで鈴鹿だったと書かれています。
お一人、そののち中攻の偵察員講習を木更津で受けたと書かれている方がいました。
偵察専修生は全員鈴鹿へ。
16年5月31日 操縦専修生、練習機教程を修了。実用機教程へ。
大分(戦闘機)、宇佐(艦攻・艦爆)、大村(中攻)へ。
操縦専修生たちはこのあと大幅な機種入れ替えがあって多少ややこしいのですが、どう移動したかはほぼ把握しています。
偵察専修生は少し遅れて16年7月30日に実用機教程へ。
博多、大村。
偵察専修生をどういう基準で博多、大村にわけたか、把握できていません(自分が)。
偵察員であった藤代護さんは手記に、
「同期の偵察専修の百七名は、六十五名が大村空に、四十二名は水上機搭乗偵察員予定者として、博多空に配属された」
と書かれています。
これを読んで、
「博多の42名が水上機(飛行艇と艦載の小型水上機)で、大村の65名がそれ以外(艦上機・中攻)か」
と、ずっと思い込んでいました。
ところが、ある写真を目にして、「違う」ということに気づきました。
博多の卒業修業写真です。
その写真には、
「博多海軍航空隊、偵察専修43名は水上機教程を卒へ・・・・」
と書かれてあります。
藤代さん手記では42名、写真の添え書きでは43名。
これはいまは問題にしません。上のクラスから降りてきた人がいるかもしれないので。
この「水上機教程」と書かれた写真に、清水巧さん(艦攻・艦爆)、佐々木隆寿さん(艦攻)、坂田清一さん(艦爆)らしき人が写っていたのです。
ということは「水上機搭乗予定者」の中には、艦上機予定者も入っている?
博多・・・・水上機、艦上機
大村・・・・中攻
ということになるのでしょうか。
そもそも、どうしてわけて教育しているのか、ですが。
この方面に詳しい方(複数)に聞いてみたのですが、
「偵察員教育を機種でわける必要はないんじゃないか」
ということでした。
ある方は、単に教育施設のキャパシティの問題では?とも。
たしかに偵察員って、何にでも乗るんですよね。
9期生でいえば、開戦直後は加賀97艦攻の電信員をしていた西谷芳数さんが、戦死されたときは2式飛行艇でした。
これとは逆に、水上機から陸上機って方。
宮本一さん・・・・艦載水上機→銀河・彩雲
本間猛さん・・・・飛行艇→艦載水上機→彩雲
ただ、不思議といまのところ、中攻とその他を行き来した方は把握できていません。
やはり大村と博多は、中攻とその他でわけていたのかも。
まだ全員の全部の航空隊を把握しているわけではないので、今後、行き来した方が出てくる可能性はあります。
ちなみに前後の期ですが。
8期の金沢秀利さん(艦攻)の手記を読むと、飛練・鈴鹿のあと宇佐に移ったようです。
のちに「かくして延長教育を修業し、同期生は、水偵、九六陸攻、戦闘機、艦爆にと、それぞれ四散した」という記述が出てくるので、宇佐まで全員一緒だった可能性大です。
10期は、「とんぼ」という同期生会誌の生存偵察員の手記を参考にしたところ、ほとんどの方が、飛練は最初から最後まで鈴鹿だったと書かれています。
お一人、そののち中攻の偵察員講習を木更津で受けたと書かれている方がいました。
※画像は武田さん、Pさんご提供
山崎 ランチパック 伊予柑&ホイップ ― 2013年06月04日 22時49分49秒
バリィさんのランチパック、見つけたよー!
大型スーパを数軒まわったけど売ってないし・・・・。
サイト見たら四国「ご当地」って書いてあるし・・・・。
諦めていたのですが、フラッと入ったファミマにありました!!
明日の朝ごはんでーす!
春海にはヒミツ(・∀・)
春海にはヒミツ(・∀・)