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一木利之3飛曹2013年04月12日 08時55分16秒

今日は3飛曹時代の一木さんのお話。

一木さん、何かの本の表紙裏の地図に、ご自身の戦歴を書き込まれていました。
12年の支那事変からはじまって、20年の終戦まで戦い続けたあとです。

そんな中に、一つだけ「× 不時着」の印がついている場所があります。
ボルネオ島の中程でしょうか。

全然知らなかったのですが、一木さん、燃料切れでジャングルの中に不時着したことがあったそうです。

ボルネオ島なので、台南空時代かな。

と思って行動調書を探してみたら、あやしいのがありました。

17年2月27日。
バリクパパンからの「輸送船団上空直衛」任務・6直。1430発進。
1番機・和泉秀雄2飛曹、2番機・一木利之3飛曹、3番機・渡辺政雄1飛。
3機揃って「行方不明」と書かれてあります。

結局、3機とも無事だったようなのですが。

これじゃないかなー。


ただ、不時着したときはどうも単機だったようで。
一晩、飛行機の中で過ごしたそうです。
翌日、現地の人に発見され、
(そのとき「だんなさーん、だんなさーん」と呼びかけられたらしい(^_^;))
近くの陸軍さんに通報してくれて助かったそうです。
現地の人たちは陸軍さんからたくさんおみやげをもらったそう。

基地に戻ったら、自分は死んでいたことになっていたそうで・・・・。


でも、ご無事で何より。


ちなみに、不時着が2月27日のことだとしたら、一木さんが救助された2月28日は22歳の誕生日です。



不時着の話になったので、
「一木さんは落下傘降下は経験されたことがあるのですか?」
と尋ねてみたら、
「落下傘は持たん」
と!( ̄□ ̄;)

たしかに、手記や戦記などで「捕虜になることを恥じて落下傘は積んでいなかった」という記述を読みますが、よく話をしてくださる藤本さんや笠井さんは落下傘はちゃんと積んでいたんですよね。
※藤本さんは落下傘降下経験あり

搭乗員さんご本人から「落下傘は持たん」という証言を聞いたのは初めてだったので、
「うわああ・・・・本当だったんだア・・・・」
とショックを受けました。
機体に何かあったら、うまいこと不時着するか自爆するかしかなかったんでしょうねえ・・・・。

こんな状態で生き残れたって、奇跡としか思えません・・・・。

ちょっと実家に寄ってきた(笑)2013年04月12日 13時38分30秒

6日の夕方、宮崎の実家に帰ってきました。2年半ぶり。

新入りが増えていました。
はなちゃん。

まだ子猫のはずですが、かなりおませです(笑)
すでに彼氏がいるらしく、この日も、庭に来とりました、クロネコ。
右側の植え込みの向こう。


夜でも出て行きたがります。
「開けてよ~」



ばあばから、
「はなちゃんの門限は9時」
と聞いて、春海が、
「子どもやのに! 不良や!(゜Д゜)」
と驚いていました。

そのあとすぐに、
「猫に時間がわかるんかなあ????」
と不思議そうに。
そりゃそうだ。
時計を持っている人間だって「9時に帰ってこい」と言ったところでちゃんと帰ってこないのに、猫が門限守るわけないだろうに。



こちらはおばあちゃん猫のユキちゃん。
もう先は長くないみたい。

あと、ワンコが2匹います。


疲れていたので、8時ぐらいからうとうと。
翌朝、7時半の高速バスに乗るために6時過ぎに家を出たので、起きて家にいたのは2、3時間ぐらいだったかも?(笑)

新田原基地訪問2013年04月12日 18時42分33秒

ご存じの方もいらっしゃると思いますが、先週末、宮崎に帰ったのは、新入り猫のはなちゃんに会うためではなく、新田原基地を訪問するためです。

と言っても、わたしは「どさくさに紛れてついていった」と言った方が正しいかも(^◇^;)

元海軍・戦闘301飛行隊のK上飛曹、愛媛の零戦搭乗員会会長さんや、藤本さん、佐伯さんといった元搭乗員の方々が、新田原基地301飛行隊に招かれたのに便乗してついていったのです。


みんなで一緒に宮崎入りするかと思いきや、同じ飛行機だったのはK上飛曹と春海の3人だけ。
搭乗待合室で待ち合わせてK上飛曹と落ち合いました。

今回はたぶん現役パイロットの方々が、元搭乗員さん方とたくさんお話しなさりたいはず。
「K上飛曹と話をするならここしかない」
と踏んでいた搭乗待合室と機内。

ああ・・・・愛の逃避行・・・・(*゚ー゚*)

いや、愛の逃飛行~~~(((((((*^o^*)

春海が邪魔だけど。





で、いきなり、ホリブンの新情報ゲットーーーーー!!!!!(・∀・)
K上飛曹、↑こんな時計をしておられました。
レプリカらしいんですが。もらったそうです。

「この時計、同じものをホリブンがしててなあ」

「何でも准士官以上だけ持っていたらしい」

とのこと。

なので、飛曹長進級後のホリブン・堀分隊士がこれと同じ時計をしていた、と。



さらに。
伊丹から宮崎までの空路1時間ほど、独り占めしてお話をたくさん聞いてきました(ときどき春海の邪魔が入る・怒)。

まさかとないだろうと思って聞いてみたこの質問。
「K上飛曹は、戦後、ホリブン操縦の旅客機に乗ったことはないですよね~?」

「ある! ある、ある! 一度だけあるんや!」

「ええっーーーー!!!!((((((ノ゚⊿゚)ノ」

びっくり仰天!

「ど、どんな感じでしたかっ!?」

「それがなー、わかったのが着陸する直前でなあ。どんな感じとか覚えてないなあ」
とのこと。

伊丹ー羽田ではなかったそうです。伊丹とどこか地方を結ぶ便でたまたま乗り合わせたそうです。

ええなあ~


いつもはコワイばっかりでいつまでも着かない宮崎ですが、K上飛曹との愛の逃飛行(春海つき)は無慈悲にもあっという間に終わってしまいました。

宮崎空港到着~。


宮崎空港では、先着していた東京や大阪からの若い人たちが待っていてくれました。

ママはまず、迎えに来ていた母親に春海を渡しました。
そのとき、一緒にいたK上飛曹も来て下さり、うちの母に、
「いつもお世話になっておりますKです」
とご丁寧に・・・・。
そのときはうちの母親も、
「こちらこそお世話になりましてー」
とあいさつをしていましたが、あとで家に帰ったときに、
「空港であいさつしてくれた人がもしかしてゼロ戦に乗ってた人?」
と聞いてきたんで、何もわかっていなかったんだなー(^◇^;)
そうだって言ったら「あらーーーー」と驚いていました。


一行は車に分乗して一路新田原へ。
※画像は6日。

基地到着寸前でちょうど1時をまわり、戦闘機のエンジン音がし始めました。

ああー、新田原だなあ~という感慨に浸りながら基地へ。


つづく