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不時着の神様 ―石川さん手記と行動調書から―2012年10月02日 10時16分59秒

石川清治さんが『零戦よもやま話』(光人社NF文庫)に書かれている「不時着の神様」、これは石川さんが、同年兵であり、4空・台南空と一緒だった山崎市郎平兵曹の体験をつづられた短編です。

「それは、ラバウルからラエに進出した昭和十七年三月、ラエにたいして敵の第一回の反攻があったときだった」

このときには17年3月のいつかは書かれていませんが、『伝承・零戦空戦記3 不屈の零戦』(光人社)におさめられている、同じく石川さんの「ポートモレスビー空爆行」(「丸臨時増刊」昭和32年3月号)の方では、「3月17日」と書かれています。
おふたりは当時、4空戦闘機隊。

「私は上空直衛の第一直なので、二番機木村三飛曹とともに黎明の飛行場を離陸する」

二直との交代10分前になって敵機発見――
自分の空戦談の後、飛行場に戻ってからの状況が描かれています。
「地上にあった飛行機は、炎上するか、被弾して、使えるのはいままで飛んでいた二機だけだ。整備員の中には戦死した者もあり惨憺たる有様である。ロッキードが一機、中高度で飛んでくる。つづいて高高度をボーイングが一機。いずれも爆撃だ。燃料と弾薬を補給し、山崎三飛曹が飛び立って行った。彼が単機でロッキー ドと交戦中、被弾してマーカム河上流に不時着し、鰐の住む濁流を丸太につかまりながら下って、四日目に奇跡の生還をしたのはこのときのことである」


もうひとつ、昭和54年の丸エキストラに掲載された「零戦で戦った私の365日」のほうでも、
「そして忘れもしない三月十七日の朝を迎えた。それははじめて戦闘機どうしの空中戦だった」
と、この日の戦闘のことを書かれています。
※この手記には、山崎さんの不時着のことは書かれていません。



山崎さん不時着生還事件のきっかけになったこの空戦、石川さんの記憶では「3月17日」なのですが、行動調書では3月17日には上のような戦闘は記録されていません。
正確には「17年3月22日」のできことのようです。
22日の4空の行動調書では(多少アレンジ)、

0530 零戦×2 ラエ基地発進
0650 スーパーマリン スピットファイア 9機発見 空撃 空戦3機撃墜
0710 空戦終了 引返す
?    零戦×2 ラエ基地帰着

三飛曹 石川清治  機銃弾710発
三飛曹 木村裕    機銃弾310発

協同で スーパーマリンスピットファイア×9機と空戦 3機撃墜


で、こちらがおそらく二直の行動調書。

?    ラエ基地発進
0740 上空警戒中 ロックヒード1機発見
      追撃空戦 撃墜(不確実)
      未帰還

三飛曹 菊地敬司 自爆戦死  機銃弾1510  ロックヒード1機と空戦
                                 撃墜(不確実)



ちょっと不思議なのは、最初から菊地兵曹一人しか発進していないように書かれていることです。
石川さんの手記によると、自分と木村さんが乗っていた零戦2機が無事だったらしいので、石川さんの手記と行動調書を突き合わせると、上がったのは菊地兵曹と山崎さんのお二人だったのでは、と想像出来ます。

もひとつ不思議なのは、「未帰還」「自爆戦死」と書かれている菊地機の使用機銃弾が細かく「1510」と書かれていることです。どういう数字なのかはわかりません。



・・・・とまあ、肝心の「不時着の神様」山崎兵曹のことはひとことも書かれていない行動調書。

でも、親友の石川さんが複数の手記でこのときのエピソードを挙げて「不時着の神様」と讃えているのだから、まさか作り話ではないでしょう・・・・。
出来事自体は確実にあったのだ、と。


先日、ちょっとだけ触れた、山崎さんの「――今までに三回死線を越えました」。
これは18年3月に山崎さんが郷里の青少年団大会でしゃべった内容のようですが――。
(以下、旧仮名遣いは直してあります。地名・用語などは原文ママ)


「第一回目は昭和十七年三月二十二日ニューギニヤの基地から三十里許り離れた所で愛機が負傷したので、不時着、土人に助けられて四日目に、奇跡的に生還しましたが、此の時は既に私物は遺品として整理されていました」


さすがに1年しか経っていないので記憶も鮮明。はっきり「昭和十七年三月二十二日」と書いてあります。やはり、菊地兵曹と一緒に上がったのではないでしょうか。

愛機がおかしくなったのは基地から30里ほど離れた場所。120キロ・・・・


山崎さん本人の話では基地の名前も川のことも触れられていませんが、基地は「ラエ基地」、川は「マーカム川」ということにして考えると、山崎さんが不時着したのはホントにホント、下に図示しているマーカム川の最上流の辺りだろうと思われます。


           ↓赤枠部分を拡大



いままで、石川さんの手記でしか知らなかったこの話。

山崎さん本人が1年後に青少年団大会で語っていたのは上に挙げた一文だけですが、これ以外に、山崎さん本人が生還直後に書いたらしい詳しい手記(17年3月28日の日付入)が存在していました。

【つづく】

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