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ショックな出来事(゜Д゜)2011年05月02日 09時45分31秒

最近よく行っていたイオン◯ールのジョー◯ン(←パパからダメ出し食らうからいちお伏せ字に)。

昨日、
「何か新しいプラモ出てないかな~o(^-^)oワクワク」
と行ってみたら・・・・。

「あれ? ここにあった飛行機プラモ・・・・?(-_-)」

ママ目当ての飛行機だけではなく、同じ陳列棚にあった戦車も艦艇も現用機も見当たらない・・・・。

プラモコーナー、全部ウロウロ探してみたけど、車とかガンプラしかない・・・・。

近くでお掃除をしていた店員さんに聞いてみました。
「飛行機のプラモ、どこに行きました?」

「いや~、申し訳ないんですが・・・・(後略)」

というわけで!
行きつけの店からミリタリー系プラモがすべて撤去されていました!!!!(>_<)


ママが行ったとき、やはりミリタリー系プラモが置いてあった棚のところから、あちこち探し回っているふうの男性客がいました。この人もきっと、ママと同じ目的でお店に来たにちがいありません。

ママの周囲でも意外なところにモデラーがいたりしたし。

需要がないはずないんだけどなー???

柿崎実中尉のこと2011年05月02日 17時40分15秒

今日5月2日は、柿崎実中尉(兵72)が回天で出撃をした日・・・・。
回天ですから、これが最初で最後の回天での出撃ということになります、が、柿崎中尉はここにいたるまで実に3度、”特攻出撃”を繰り返していたのです。

回天の場合、潜水艦に乗りこんで港(基地)を出ていく”出撃”と、いざ会敵して回天に乗り込んで母潜から切り離される”出撃”と2段階の出撃があります。

柿崎中尉の場合、結局、4度、基地から出撃したものの、そのうち3度は機会に恵まれず無念のうちに帰投、4度目の出撃で、20年5月2日に最初で最後の回天での出撃になりました。

現代の感覚で考えても、柿崎中尉の苦悩はとても想像しきれるものではありません。
帰ってくるたびに、苦悩が深まっていった・・・・そんな印象です。



昨日の夜も、ちょっと調べ物をしていて神野正美さんの『空母瑞鶴』を読んでいました。
そこに、瑞鶴の准士官以上で撮った集合写真が載っています。大勢の中に柿崎さんも写っていました。


瑞鶴をおりて回天に移ってからの柿崎さんの残りの人生というのは、いったいどんな人生だったのだろう・・・・。
二十歳ちょっと過ぎの青年・・・・近い将来の自分の死が確定してしまっただけではなく、預かった部下まで一緒につれて死なないといけない・・・・。




去年の12月、呉・江田島に行ったとき、思いがけず柿崎中尉と出会えました。

大和ミュージアムに展示されている回天(右奥。左手前は95式魚雷)。

回天

この回天の前の展示ケースに、柿崎中尉が松政のおしげさんという女性にあてた手紙が展示されていました。
知覧の特攻隊員にとっての鳥浜トメさんのような・・・・回天搭乗員たちのお母さん代わりのような人です。

手紙の内容は・・・・。
どうも、おしげさんのところで酒を飲んで酔態をさらしてしまったようで、そのことを詫びるような内容でした。

読んでみた印象。
あくまで、わたしがそう感じた、というだけの話ですが。
詫びないといけないほどの醜態はなかったのではないかと。
これを口実に、おしげさんに手紙を書きたかったのではないのかな・・・・という印象を受けました。




あと・・・・江田島の教育参考館で見たのか・・・・。
柿崎中尉が”妹”幸子さんに宛てた「幸福とは・・・・」という手紙
わたしはずっと妹さんだと思っていたのですが、幸子さん、”妹”ではなく”親戚”だか”いとこ”だか、そんなふうに説明書きに書いてあったと思うのですが・・・・。

あの手紙は、妹さん宛の手紙と思って読むのと、親戚の女性宛だと思って読むのと、ちょっと印象が変わってきます。
いまだに、”妹さん”なのか、”親戚の女性”なのか、わたしにはわかりませんが・・・・。

※おしげさん宛の手紙も教育参考館も写真撮影禁止だったのでその場で見てきただけです。ママの記憶違いがあるかも知れません





兵学校時代の柿崎中尉。
柿崎実中尉 兵学校時代



いままでに書いた柿崎中尉のこと

柿崎実中尉
潜水艦
柿崎中尉との出会い
おしげさん
多々良隊・天武隊(伊47潜)
多々良隊壮行会
多々良隊出撃
天武隊出撃
『海底新聞』
回天戦用意!
柿崎中尉の最期